kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| | - | - | - | posted by スポンサードリンク |
良心とエゴ
 おふくろが毎日めくっているトイレのカレンダーにある今日の言葉を読んだ。

  いちずに一本道
  いちずに一ツ事
  観音さまに助けられ
  佛さまに守られて
  曲がりなりにも一本道
  迷いながらも一ツ事

 ときどきいろんな場所で見かける相田みつをさんの日めくりだ。それにしてもめくるのは前日の夜なんだろうか。まだ暗い早朝なのに今日のページになっている。おふくろがこれらの言葉を実践しているとも思えないし、どうやらこのダメ息子にでも読ませたいのかもしれない。

 そう言えば断食道場を開いている愚静庵にも、いたる所に同じような日めくりが掛けられていた。毎日標語のようにして読む言葉とはなんだろうか。人はだれも心にこそ安定した礎が欲しい。言葉はそのための栄養ドリンクみたいなものか。とりあえず読んだその瞬間だけでも自分を省みて、少しは全うに生きたいのかもしれない。少なくともぼくはその程度だ。

 日めくりの言葉からすると、我家は仏教で、観音さまと佛さまの加護の下で毎日を暮らしている。おやじが神棚と仏壇に手を合わせているのをときどき見かけるようになった。瞬間で終わってしまうけれど、合掌する姿はいいなと思う。そしてそんな姿をぼくは見ているだけだ。

 祈り。と言葉で書くと簡単すぎるが、祈りとは、いったいどうすることなんだろうか。『小さな抵抗』の渡部良三さんとそれを知らせてくれたヤギおじさんの言葉を読んで以来、ずっと良心について考えているが、どうにもわからないこの祈りと、良心は深く関わっているような気がしている。


 良心のことでやりとりしていたら、友がコルべ神父のことを教えてくれた。キリストの心を奥深くで保ちつづけた人の、生き様とそして死に方だった。などと書いてしまうと、ぼくの言葉はなんと軽いものかと愕然とする。神父は自らの命を捧げたのだ。捧げた先はわからないけれど、おそらく迷うことなく捧げたのだ。

 我家のような凡人たちの祈りと、コルべ神父や渡部さんの祈りとは、いったいどこが違うんだろうか。命を捧げることができる祈りとは、いったいどれほどの深さをもっているんだろうか。想像することもできない。これでは良心のなんたるかもわからないはずだ、と思ってしまう。

 コルべ神父を教えてくれた友のメールには、こんな言葉も添えてあった。

 「人は誰でも、常に毎瞬毎瞬自分の中で良心を取るかエゴを取るか選択しているんでしょうね。時には無意識に、ある時には意識的に」。

 良心とエゴの選択。その繰り返しが人生だとしたら、ぼくの多くはエゴに違いなかった。見える形がいくら良心だったとしても、見えない内側から見つめると、どうもエゴだ。いつも自分が気持ちいいようにと動いている。たまに人のためになることもありそうだが、根っこには自分がいる。

 どうやら少し見えてきた。良心の選択とは、日々のトレーニングにあるのかもしれない。いきなり命を捧げるような大きな良心を決断することができるとはとても思えない。小さな良心をコツコツと積み上げると、やがてその頂から真っ逆さまに飛び降りる機会が訪れたしても、気持ち良くさっそうと、それがかなうのかもしれない。きっとそれらすべてが祈りなのかもしれない。

 でももうやめよう。書いて、言葉を連ねるばかりでは、大したことにはなって行かない。先のことなど考えずに、今なにを選択するのかと、まずはそこに注目しよう。ほら、またエゴを選んだぞと、せめて自分で気づいていよう。人生を良心とエゴの二者択一のゲームと捉えれば、それはそれでやりがいのあるゲームだ。などと不遜な話になってしまったが、そんなぼくを神がいるなら見ているはずだ。いつか死が訪れる。それが神のもとへ還ることなら、死が近づくにつれ命を捧げるという意味も少しはわかってくるのかもしれない。迷いながらも一ツ事だ。
 


| 07:30 | 心の森 | comments(5) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
観音の扉
 『観音の扉』という本が届けられたのはもうずいぶん前の話だ。ぼくの写真も二点ばかり使われている。できれば桝野さんのブログでも紹介してください、と言われそのつもりでいたが、観音さんを仏像ぐらいにしか思っていないぼくにいったいなにが書けるだろうと、ずっとそのままになっていた。

 本を読んで、ひとつだけ覚えていることがある。たしか、この世の生きとし生けるものはすべて観音さんだというようなことだった。君もぼくも、先日仕事場に入った空き巣狙いも、戦争したがる政治家も、みんな観音さんなのか。愛だ光だと毎日を喜びの中で暮らしている人ならそれはそれで観音さんだろう、とぼくは思ったものだが、自分が観音さんだということには、すこし抵抗があった。

 巻頭の「観音の扉をひらく」にはこう書かれている。

 「観音さまは、男性でもあり、女性でもあり、ときには動物やモノにも変幻自在に姿を変えて、救いを求める人のところに、突然、現れます。さまざまな人やモノに姿を変えていますから、なかなか観音さまであることに気づきません。
 もしやあれは観音さまだったのではないかと、その変化にあとで気づくこともあります。観音さまの存在がわかりだすと、いつか、自分自身も観音であることが理解できるようになってきます。するといままで観ていた世界が一変するのです。」

 本書によると、観音さんは「観世音」とか「観自在」と呼ばれる「菩薩」だそうだ。菩薩とは「悟りの道にある者」で、ということは案外人間に近い存在なんだろうか。「如来の化身」となって悩める人々に「智慧を授ける救世主」だともある。「人間をサポートしてくれる」頼もしい応援団のようだ。


 自分が観音だと知ると観える世界が変わる、ということにとても興味がわいてくる。ここからは勝手な解釈になるが、観音の文字面を分けてみると、観、世、音、自、在となり、その一文字ずつをながめているだけでなんだかわかったような気になるから面白い。聖書には「はじめに音ありき」とあるそうで、宇宙の創造には音が深く関わっているのだと想像すると、観音さんもどうやらそれを見抜いているようだ。原初の音を聴き、観ながら、世界に自由に存在する、というイメージはとてもぼく好みだ。

 すべてのものが観音であるのかどうかはぼくには到底わからないけれど、想像ならできるかもしれない。

 先日訪ねて枇杷葉温灸をいっしょに楽しんだ友人のおかあさんとおとうさんは、なかなか眠れない夜を過ごながらお互いに不機嫌にもなるそうだ。大病を患うということは、それを逆手に取れば命を見つめる人生でいちばん深いときになるだろうと思ったりするが、家族とはいつもうまく行くとはかぎらない。いや、むしろもっとも近い家族だから、うまく行かないことが多いのかもしれない。

 人間は、人間という小さな枠組みの中だけで身の回りのもろもろを見聞きしていると、心はどうしても定まらないものだ。ぼくなどは毎日それでさまよいつづけている。でも一瞬でも、その枠から飛び出すことができればと、ときどき考える。観音さんの視点をお借りする、というのはどうだろうか。

 観音スーパーマンになっておふたりの前に今すぐ飛んで行けたら、ぼくはなにをするだろうか。肩を抱き合い、みんな観音さんなんだと、確認し合えるだろうか。いやそんな簡単に行くはずはないだろうが、観る視点をどこに置くのかと、それをぼく自身に問いかけながらまたごいっしょしたいものだ。悩み苦しみ哀しんでいるおふたりこそが今、観音さまを表している。観自在菩薩とは、きっとそういうことでもあるのだろう。人間は人間同士、観音さまの気分でサポートし合うこともできそうだ。



| 08:23 | 心の森 | comments(5) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
『語り継ぐあの八月を』
 「葉っぱ塾」のヤギおじさんからのお知らせを、姉妹校である「ひかりっ子くらぶ」にも転載します。【注】あっ、姉妹校はまだ正式なものではありません。ぼくが勝手にそのつもりになっています。

***

 女優の吉永小百合さん。相変わらず映画をはじめ様々なご活躍ぶりです。この秋封切になる『まぼろしの邪馬台国』も楽しみです。

 昨年夏、吉永さんから「葉っぱ塾」に『語り継ぐあの八月を』(加世田智秋編著)という本を150冊以上もお送りいただきました。原爆詩の朗読をライフワークとして続けておられる吉永さんをはじめ、原爆といろいろなかたちで向き合って生きておられる7名の方々に焦点をあてた人間ドキュメントです。美輪明宏さんも被爆者だったことや、ヒロシマとナガサキの両方で被爆した方がおられることなどを、私はこの本によって知りました。

 様々な方法でみなさんに「この本を広めてください!」と呼びかけましたところ、全国からお申し込みをいただき、全て私のところから飛び立って行きました。そして今年もつい先日、わが家に吉永さんから段ボール箱3つに分けて90冊が届けられました!

 昨年お申し込みが間に合わなかった方、昨年夏以降に「葉っぱ塾」とつながってくださった方、昨年も協力していただき、さらに広めてくださる方、もしよろしかったら、必要部数をお知らせください。
   
 この本の定価は¥1800ですが、本は吉永さんが買い取ってお送りくださっています。したがって、基本的には送料だけを負担していただければけっこうなのですが、任意の額のカンパは喜んでお受けいたします。集まりましたカンパは、吉永さんのご意向を汲んで、しかるべきところに送金し、後日皆様にご報告いたします。送料やカンパについては、本をお送りしたときに郵便振替の用紙を同封いたしますので、それでお支払いください。

 著者の加世田さんは「まえがき」に、「7人の人たちの原爆との関わりは、ただ悲惨さを訴えるだけでなく、人が長い人生をどうやって生きていくのかのヒントにもなっています。戦争になり、最悪の事態になった時にどうなるのかを、特に若い人達に読んでほしいと願っています。」と書いておられます。これは吉永さんのお気持でもあろうと思います。

 身の回りのあの方へ、などと思い当たる方の分もお求めいただけたら幸いです。

 お申し込みは、下記の電話(ファクシミリ兼用)か、メールアドレスまで。なお、ご住所、お名前、お電話番号をお忘れなく。

   ※この日記の転載は、どうぞご自由に!
 
【☆お申し込み先】
   葉っぱ塾 八木文明 TEL/FAX 0238−84−1537
        メールはこちらまで

 




| 20:33 | 心の森 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
持ち物
 若い友人と話していて、思わぬ自分に出会えた。

 友人は言った。

 「わたし、内面を磨きたい」。
 
 しばらくそのあとの言葉を静かに聞いていた。ぼくがなにかを答える必要はなかったけれど、沈黙がつづいて話す順番がめぐってきたころ、口からあふれるようにどんどん言葉が出て来た。ぼくの考えというより、ぼくも出会った考えだった。

 会話の中で簡単に出てきた内面は、外面に対する内面にすぎないようだ。洋服を買うのが好き、と言っている友人の内面とはいったいどんなものだろうと想像しているときのことだった。

 「そういう内面って、洋服みたいなもんじゃないか。簡単に着替えられる心模様って気がするけど」。

 若い世代といると、いつの間にか年寄り臭いことを言ってしまう。おまえがどれほどの者か、ということになるべく意識を置いて話した。

 心模様と言っても、その心さえコントロールするのは難しいわけで、実際には模様替えなんてできない相談かもしれない。でも出て来た次の言葉が自分でも面白かった。
 
 「心も感情も、考えも意識も、生き方も生き様も、みんなそれぞれの持ち物にすぎなんじゃないかなあ」。


 これでは、そんなもの磨くより取り替えた方が早いだろう、とでも言っているようなものだ。言葉の意味するところは自分でもよくわからなかったけれど、持ち物、という響きが実に心地よかった。生き方を人と比較して自分を傷つけてきたようなその友人は、ぼくの話に興味はわいても、あまり賛同する気にはなれないようだった。それはそうだ。これはぼくが出会った考えで、ぼくが気に入っただけの話だと思うから、そうつけ加えておいた。

 人間のすべての志向、行動、心、感情、その他もろもろの人生模様はいつかどこかで拾ってきたものだ。それがそのまま自分自身だと思い込んでいる。携えているだけなのに、下ろすことができないと思っている。どれもこれも選択可能な、つまりは自分の意志の力で模様替えできる便利な家具調度品とさして変わらない。その意志の力さえ、持ち物のひとつだ。

 などと、昨日の話が、今日になってぼく自身の考えになった。その考えさえ持ち物なら、いつかまた捨てることも取り替えることもできる。

 友人が言った、磨かなければならない内面というものがもしもあるなら、それはすでに磨かれているような気がしないでもない。持ち物が多すぎて、見えにくくなっているだけだ。と、ぼくは今日もまた次の考えに出会っていくようだ。考えは人生を面白くする道具のようだ。ほんと、面白い。



| 08:05 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
良心
 今朝も早くから仕事場へ。自転車で往復してきた。朝は仕事がはかどる。用事に取りかかり出して、ふと思った。あの三笠フーズの社長だって普段は温厚で社員思いの人だったりするかもしれない。それが社運が傾き出して、悪いと知りながらどうしようもなく決断したのかもしれない。いやいや、悪事の肩を持つことはない。ただ非常事態になったときの良心こそ本物だろうと思ったまでだ。日常的な良心などそれこそ日常茶飯事であるのがあたり前の話で、問われるのは非常時だ。良心とは、きっと生死を越えた世界に通じるような崇高なものにちがいない。生涯に一度、発揮されるかされないかの究極の選択だ。窮地に立ったという経験もない者が、軽々しく語れるものではないのかもしれない、などと朝っぱらから感じていた。



| 10:06 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
小さな抵抗
 人間の良心とは、どんなものだろう。これまで深く考えたことがなかった。

 葉っぱ塾のヤギおじさんにお願いして、『小さな抵抗』を読み伝える、と題されたコピーを送ってもらった。ヤギおじさんが、伯父の渡部良三さんが自費出版された『小さな抵抗』という歌集に寄せて書いた、内容を読みくだいた文章だ。ヤギおじさんはそれを三人の我が子にむけて書き残した。ぼくは静かに声を出して読みながら、学徒動員で戦地にかり出された渡部さんの生き様に感じ入り、そして父親として、なにが人生には大切なんだろうかと子らに問いかけたヤギおじさんに、思わず目頭が熱くなった。

 渡部さんは、当時中央大学の二年生だった。


 とちまんの書(ふみ)よむ願いたてしかど
               三千巻(みちまき)終えて往くはさびしき


 ヤギおじさんはこの歌に寄せて書いている。

 「この頃にはすでに日本の敗色は濃厚で、大勢の学生がまるで消耗品のように戦地へと送られていったのです。十万冊も本を読もうと思っていたのにその何分の一にも達しないうちに戦争に赴かねばならなかった無念は、ほとんど全ての学生の胸のうちにあったのでしょうね。今の時代、学ぼうと思えば自分の好きなだけ学べることの価値について思わないでいられません」。

 戦争のない今の時代。それを当たり前のことと思っているぼくがいる。そして気ままに毎日を暮らしている。学ぼうと思えば、ほんとうにいくらでも学べるのに。やってみようと、なんでも試すことができるのに。そしてぼくがそんなだから、ぼくの子らもさして変わらないかもしれない。ぼくが親を見て大きくなったように、ぼくを見て、子は育った。親が考えたように子も考えているとは限らないけれど、親から子へ、伝わるものが必ずあるだろう。何を伝えるのだ。その前に、ぼくは最後までどう生きようとしているのだ。

 1944年春、中国河北省深県に配属された新兵四十八人に、度胸をつけさせるためという目的と理由で、中国共産党軍の捕虜五人の虐殺が命じられた。その新兵らの中に渡部さんがいた。キリスト者で公然と戦争に反対した父を持つ渡部さんは、その命令を拒否、以後徹底した差別とリンチを受けることとなった。



 天皇(きみ)の給うみちうべならず(注:服従せず)胸内(むなうち)に
                      反戦の火(ほ)を燃やす兵あり

 戦友(とも)の振るう初のひと突きあばらにて剣(つるぎ)は止まる鈍き音して

 いのち乞わず八路の捕虜は塚穴のふちに立ちたりすくと無言に

 あらがわず否まず戦友(とも)ら演習に藁人形を刺す如く突く

 祈れども踏むべき道は唯ひとつ殺さぬことと心決めたり

 血と人膏(あぶら)まじり合いたる臭いする刺突銃はいまわが手に渡る

 虐殺(ころ)されし八路と共にこの穴に果つるともよし殺すものかや

 鳴りとよむ大いなる者の声きこゆ「虐殺こばめ生命を賭けよ」

 「捕虜殺すは天皇の命令(めい)」の大音声眼(まなこ)にするどき教官は立つ

 縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし国賊なりとつばをあびさる


 
 「はたして人間の行動の拠って立つべきものは何なのでしょうか。虐殺を拒否した伯父さんと、拒否しなかった47名の新兵たちとの違いは何であったのでしょうか。信仰であったというだけで説明できるものなのでしょうか。あなた方に最も考えてもらいたいのはそのことなのです。人は日々の生活のなかでたくさんの二者択一を繰り返していくように思います。あとから自分の人生を振り返ったときに、それらの選択の全てが誤りではなかったなどと思える人はいないかもしれません。しかし、その時々で最良の選択をすべく努力することは大切なことだと思います。そのことでたとえ孤立感を味わうようなことがあったとしてもです」。

 ヤギおじさんの子らに向けた言葉は、なんともやさしく、力強く染み込んでくる。

 ここまで一字一句を読みながら書き写してきたぼくは、また思っている。血のつながりとは、心を、生き様を伝えることなのではないかと。ぼくがヤギおじさんに出会い数年が経った。哀しみのまっただ中にあるとき勧めてくれた葉っぱ塾にも喜んで参加した。遠く山形に住んでいるのに、なぜか毎日のように思い出す人になっていった。ときにそれは妬みにも似た卑しい感情であったりもしたが、この人ならと、初めて人に対して信頼感を持つようになった。ヤギおじさんの家系には、きっとぼくが憧れてやまない冷静で潔い、そしてやさしい血が流れているような気がする。

 ヤギおじさんの最後の言葉がまた染みてくる。

 「判断の基準を『人間の良心』というところにおけば、間違いはなかろうと思うのです」。

 平和なこの時代でさえ良心を発揮するのはいつも容易いとはかぎらない。渡部さんは凄まじいリンチにも耐え、生き抜いて戦場のありさまを祖国に伝えようと、決意した。その一部がいま、ぼくの前にある。この歌たちは、ヤギおじさんの添えた言葉たちは、良心の奇跡と言えるようなものだ。

 そして、人間の良心とは、いったいどんなものだろう。ぼくには、人間の良心などと、簡単に言える資格があるだろうか。自分の胸に手をあてて、感じてみる必要がありそうだ。声高に反戦を唱えることは、今なら容易なことだが、それがほんとうに平和を希求する姿だろうか。ぼくの胸が少し痛い。良心の呵責というやつなら、静かにこのまま感じていたいものだ。渡部さんが決断した「小さな抵抗」は、けして小さくはなかった。

| 12:37 | 心の森 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
笹井啓子アコーディオンコンサート


 秋は食欲、読書にスポーツ、それに芸術なんてのもあるか。ということで、珍しいアコーディオンコンサートのお知らせをひとつ。タイトルは「天上の響き、今ここに」。ちょっぴり大袈裟だと思うでしょ? ところがどっこい。演奏者の笹井啓子さんの微笑みや音色に包まれていると、すっかりその雰囲気に浸っている自分に気づくかもしれない。笹井さんとは、去年の今頃、妙高高原の気功合宿で初めてお会いした。講師の中健次郎さんなどは、アコーディオンの最初の一音を聴いた瞬間涙があふれてきた、と感動していた。鈍感なぼくはただ気持ちよくメロディに揺れていた。音楽は、感じる人の度量に応じて響いてくるのかも知れない。

 京都府在住の笹井さんは関西を中心に活動している。金沢でもう一度聴けるなんてありがたい。ときには賛美歌のように荘厳に、ときには自然と調和するように音が舞っていたのを思い出す。まっすぐに立ちピアノ式とボタン式の両方を使って楽しげに演奏している姿は、まさに天と地を流れるメロディの導線のようでもある。


笹井啓子アコーディオンコンサート
「天上の響き、今ここに」


2008年9月28日(日)
開場:午後1時30分 開演:午後2時
場所:金沢市民芸術村ミュージック工房
チケット:一般2,000円(当日2,500円)
     高校生以下1,000円(当日1,500円)

笹井啓子プロフィール
大阪市生まれ。少女時代よりアコーディオンに親しむ。ビアノ式、ボタン式アコーディオン双方による世界初のアルバム「優しい光につつまれて」、「第8番」をリリース。

チケット取扱
 ローソンチケット/0570-084-005(Lコード54350)
 笹井啓子アコーディオンオフィス 090-3453-9928(木村)
 金沢市民芸術村
お問い合せ
 笹井啓子アコーディオンオフィス 090-3453-9928(木村)
 acco39@tempo.ocn.ne.jp


笹井啓子HP


| 11:18 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
「ふるさとをください」
 きょうされん、というのをご存知か。かつて共同作業所全国連絡会と呼ばれていたそうだ。そのきょうされんの結成三十周年記念の映画「ふるさとをください」を先日観た。

 共同作業所という呼称は何度か耳にしているし、近所にも昔はあったような気がするのに、なぜかぼくにはすこしかけ離れた存在だった。要するにぼくは今のところ共同作業所で働かなければならない障害者ではないし、周りにもそういう境遇の人はいなかった。

 そんなぼくにも聞こえるように、映画の中で医者は言った。

 「人の心はだれのものも揺れているのだ。揺れ幅が大きくなったら、それはやはり治療しなければならない」。


 そうだ、と思わずうなずいた。人間の精神なんて正常であることが正しいんじゃない。ぼくにはそんなふうに聞こえた。だれにだって狂うほどになにかに打ち込むときがあれば、ほんとうに狂いたくなるほどに心が荒んでしまうこともあるだろう。その度合いが激しくなり、一定線を越えてしまえば精神の障害と見なされるだけのことだ、というのでは暴論だろうか。

 映画も後半にさしかかったころ、共同作業所への反対運動のリーダーをしていた男が精神に破綻をきたしてしまう。そこから立ち直ったとき障害への理解が深まり態度が一変してしまうというわかりやすいストーリーなのだが、要するに誰にも障害は身近なものだし、やがては老いることで障害者になる可能性は十分にあるのだ。障害者と健常者という区別をまずはぼくの中から撤廃しなければならないようだ。

 障害。赤緑色弱だけでなく、ほかにもぼくは障害を持っている。自分自身をコントロールすることがときどきできない。人に嫌な思いをさせる。させて平気でいることもできる。けして健常とは言えない性格障害だろう。だからだろうか、きょうされんにも関心が生まれた。


| 15:44 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
風絃トリオ〈空〉
 音楽家の友人たちが何人かいる。個性的、と言ってしまえば、それで片付いてしまうんだろうが、みんなそれぞれにユニークで豊かな心持ちの友ばかりだ。どうしてなんだろう。音楽が人の心にもたらす恩恵のようなものがあるんだろうか。豊かな、と言うとき、それが物質でも心でも量を指しての話だと最近読んだことがあるけれど、音楽家のそれはおそらく少し違う。彼らは、感じ方が豊かなんだと思う。たったひとつのことから、気取らない、それでいて深く響いてきたりするオリジナルの世界を創り上げてしまう。

 そんな中のひとりにケーナ奏者の八木倫明さんがいる。オリジナル曲ではないけれど、倫明さんの音楽はオリジナルだなと思ったことがある。所沢で写真展を開いたときのことだ。まだ人の来ない会場で、あれはウッド・フルートというものだっただろうか。ここで吹いてみたくなったと言って、吹いてくれた。ふんわりと包み込む優しい音色が、ぼくには物悲しく聴こえてきた。亡き友ユコタンの写真も同時に飾っていたせいだろうか。目を閉じると、悲しみの中にも、見逃してしまいそうな微細な振動の喜びがあったような気がする。音楽家は、音楽で語るのだなと思った。あの時は出会ったばかりで、お互いに言葉少なかったせいかも知れないが。


 その倫明さんから、月暦で暮らす方らしい知らせが届いた。メンバーのひとりになっている風絃トリオ〈空〉の初めてのCDリリースと、その記念コンサートが満月の日に開かれるようだ。ご子息に森風海という名をつけた倫明さんの思いや、ぼくにはない細やかな心遣いが音楽に表れているかもしれない。そうか、その音楽は倫明さんと同じでとてもあたたかな人間味にあふれているのだと、聴く前から楽しみになってきた。

***

 お元気ですか。ケーナ奏者の八木倫明(やぎ・りんめい)です。
 満月もCDも丸くて、自分では光らずに反射によって輝きます。珊瑚の産卵日でもあるこの日ですが、 満月の大潮の日は潮の干満の差が大きく、この日に産卵すると波が卵を遠くに運んでくれるのだそうです。子孫を残せる可能性が広がるわけです。 自然の仕組みはすごいですね。 ただ、なぜ珊瑚が満月を感知できるのかは、まだ謎です。 もちろんそれを研究している人がいます。

 ★風絃トリオ〈空〉1st アルバム『黄色い村の門』収録曲

 1. 黄色い村の門 アイルランド民謡
 組曲《風の谷のナウシカ》
 2. I 風の伝説
 3. II ナウシカ・レクイエム
 4. III はるかな地へ
 5. リムジンガン(イムジン河/臨津江)
 6. 瑠璃色の地球
 7. 8.『銀河鉄道の夜』〜白鳥の停車場
 9. 聖母の御子 カタルーニャ民謡
 10. 鳥の歌  カタルーニャ民謡
 11. ラ・サンドゥンガ  メキシコ民謡/オアハカ・ワルツ
 12. ピカピカ(きみの影になりたい) 作者不詳/ベネズエラ・ワルツ
 13. 語りと音楽 黄色い村の門 アイルランド民謡 
   南久松真奈 詩と語り
 14. 四季歌 【ギター独奏】 青海民謡
 15. 草原が風にそよぐ時には…

 価格¥2800(税込み)
 ■お申込みは下記へ(発送は6月下旬です)
(有)テイク・ワン内 ノーザンライツ・レコード
 メールはこちらまで
 電話(03)3480−6710
 FAX(03)3480−3194


★風絃トリオ空(くう) & 真奈CD発売記念 地球の風ライヴ 

 宇宙は150億年前に無(=空)から生まれた。音を生み出す楽器の中も「空」である。 アラビア起源のギターも日本の尺八とアンデスのケーナも、異文化でありながら、根底はひとつ。 総ての存在のつながりに気づき、 地球の風に耳を澄ますと聞こえてくるものは・・・。

 ■2008年 6月19日(木) 昼の部午後3:00開演 夜の部午後7:00開演
 ■新宿区/東京オペラシティ3階 近江楽堂
  (京王新線、都営新宿線 初台駅下車)定員120人 
  前売料金 ¥3000/学生および65歳以上¥2500(当日¥500増し)
 
 【出演】
 ■小川和隆(おがわ・かずたか) 十弦ギター/東京芸大楽理科卒。 第22回東京 国際ギター・コンクール第1位。小原聖子に師事。 スペインにて巨匠ナルシソ・イエペス に十弦ギターを学ぶ。
 ■八木倫明(やぎ・りんめい) ケーナ、ナイ、ウッドフルート/ 早稲田大学商学部卒。卒業後1982年 フルートから独学でケーナに転向。1987年から異文化融合民族音楽としての「地球音楽」を提唱。
 ■戸川藍山(とがわ・らんざん) 尺八/東京芸大邦楽科卒。芸大にて尺八を人間国宝の山本邦山に師事。和楽器オーケストラあいおいのメンバー。
 ■南久松真奈(みなみひさまつ・まな) 詩と語り/役者   



 
     
| 08:55 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
へーきへーき! すぐかわくから

 こんなあったかなイラストと言葉があったんですね。これに出会った朝は、コロコロと変わるぼくの心はすこし荒んでいるときでした。うーん、このままじゃ低調な一日になるぞと思いながら、でも自分ではどうしようもない気分でした。人って悲しみや苦しみの中にいるときそこから抜け出したいと口では言いながら、ほんとうはそうしていたいだけなのかもしれない、と思ってしまうくらいでした。低調な気分のままかっこさんのブログをのぞいて、そこに紹介されていた「フウのぽけっとイラスト」も開きました。そして出会った、最初のイラスト「ハートのせんたく」。「へーきへーき! すぐかわくから」という言葉と、かわいい女の子の絵に、ぼくの心はいっぺんにほぐれてしまいました。世の中には目立たないところに、すごい本物がいるもんですね。ぼくを助けてくれたフウちゃんの世界を、みなさんにもご紹介♪ へーきへーき! すぐかわくから。ぼくもほんとうはそんなふうに、あっけらかんと風に吹かれていたいのでした。

フウのぽけっとイラスト





| 07:38 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
<< | 4/5 | >>