kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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のんびり無邪気
 来る七日に開かれるヴァーチューズ・プロジェクトの全国フォーラム「心の力を感じ合おう」に寄せて、そのプロジェクト代表の大内博先生からメッセージが届いた。



 のんびり無邪気にヴァーチューズ
                    大内 博


忙しい世の中ですねえ。
まるで、地球の時計を誰かが早回しにしているのじゃないか
などと思いたくなるほどです。

だからこそ、自戒をこめて言うのですが、もっとのんびりしたいなあ。
悩みを抱えて辛そうにしている友がいたら、ちょっと、立ち止まって
のんびり耳を傾けるような人になりたい。

間違いをして、自分を責め続けているのに気付いたら
のんびり、自分をゆるしてあげて
この次にがんばれば良いんじゃないと言ってあげる。

美しい夕焼けに気付いたら歩みを止めて一瞬見とれる。
そして、空に向かって“ありがとう!”なんて叫んじゃう。
そんな無邪気な自分になりたい。

お互いの中に美徳を見て、
最高の可能性をお互いに見つめ合って
喜びの人生を創作する

それがヴァーチューズ・プロジェクトです。
そして、その第一歩は、のんびり、無邪気にいることかな。



 これを読んでぼくは大内博という人がいっぺんに好きになってしまった。なにもこれまで嫌っていたわけじゃないが、やっぱり大学の先生だとすこし距離を置くぼくがいた。確かにとっても無邪気な方という印象はあるのに、とても急いでいるような雰囲気を感じていた。ようするに、のろまなぼくにはついて行けないな、という感じだった。

 それがこのメッセージだ。いいなあ。ぼくはいったい先生のどこを見ていたんだろうか。急いでいるのは、実はそう感じていたぼくの方だった。

 昨日の木星と金星と四日の月が並んだ夕暮れの空を何度も何度も鑑賞しながら、その美しさに感動したが、よく思い出してみると、ぼくはあの時間をどこまでのんびりと過ごしていただろうか。車の中でじっと待っている少し体調の優れないヨシエどんのことも気になるし、とりあえず撮影だけでもしておこう、という落ち着きのない焦りにもいくらか支配されていた。

 のんびりとかゆっくりとか、人はよく口にする。ぼくなどまるで標語のようにして毎日つぶやいている。でも、ほんとうにそうしているか。どこか心の隅っこで、何かを気にしている。100%のんびりしていないようだ。ようするに、無邪気になれないんだ。

 みなさんはいかがですか? のんびりと無邪気に暮らしていますか?

 十分のんびり派だと思っていたぼくも、実は、誰かが早回しする時計に振り回されている。その誰かとは、ぼく自身だった。のんびり、無邪気に。きょうからまたそんな一日を作っていこう。慌てていると気づいたら、まずは深呼吸だ。なるべくならいつもけっして無理はしないで。どんな事態になっても美徳からの視点があるのだと見つめ直すヴァーチューな暮らしには、そんなヒントが散りばめられている。改めてそのことに気がついた。



| 10:41 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
新しい心
 生意気盛りなぼくだったころ、わかりもしないで、人生とは、などと考えるのが好きだった。今は考えることがすこし面倒臭くなっている。生意気はあまり変わらないけれど。

 整体の岡島瑞徳さんが亡くなられてひと月ほどが経っただろうか。もう十年近くも前の話になってしまったが、気功や整体にとても興味があった。それで岡島さんを師と仰ぎ、月に一度大阪で開かれていた初等講座に通ったことがある。奥の深い世界だった。深すぎてぼくには手も足も出ないと、一年であきらめた。当時北陸からいっしょに参加していた友らはその後もずっと精進して、今では小さな教室なども開いているようだ。

 岡島さんの口から飛び出す言葉は、的を得ている、とよく思ったものだ。ただひとつひとつがどう関連するものか、それがぼくにはさっぱりわからなかった。整体の指導も手を抜かず、知りたいと思う誰にもていねいに教えてくださった。ただ実技だからメモなど取っている余裕はないし、しかも初心者の一度や二度の体験で身につく技ではなかったのだ。

 けれども岡島さんの豊かな世界を、きっと何人もの受講生が受け継いだにちがいない。野口晴哉さんから岡島さんへ、岡島さんからまた何人かへ。そんな道がきっとつづいていくんだろう。ぼくはその路傍の石ころのようなものだろうが、それでもいまだに続けていることがある。たとえば活元とも呼ばれる自働運動は背骨揺らしとして習慣になっているし、鳩尾を柔らかくする脱力運動だって得意技のひとつだ。おふくろやヨシエどんはぼくのぎこちない肩甲骨はがしが気持ちいいと楽しみにしている。


 そして何よりぼくは、岡島さんの生き方をこそ学びたいと思っている。共に学んだ福井の友、林暁さんがメールで配信している個人通信に紹介していた岡島語録の一節だ。

 「体を健全にするには生命の働らきを信頼するだけでいいのです。溌剌と生きるには、生きるのは自分であり、運命をどう活かすかは自分の問題なのだ、と覚悟することです。そして不平や不満で心を濁らせず、感情を平成に保つだけでいい。外から偶然やってくるように見える運命というものも自分の裡から発したものであり、それ自体が自分が浄化され高められるためのステップとして、それを必然化してゆくのです。悲しかったら泣けばいい。涙が出なくなるまで泣くべきなのです。泣き終ったら生き始めればいいのです。口惜しかったら口惜しがればいいし、怒るときは怒ればいい。そして終ったら新しい心で生きるのです。それも、以前より、より楽しく、より深く、より素直に自分らしく生きるのです」。(会報誌「ユイ」'89 第28号)

 より楽しく、より深く、より素直に。自分を生きる覚悟さえあれば、そして新しい心を何度も何度も持てるのだと、それを知ってさえいれば、あとは体の続く限り思う存分生きればいいのだ。これでもう十分だ。他に人生のなにを知る必要があるだろう。四の五の言うのはもうやめよう。

 岡島さんは思う存分生きて、今頃はどちらにいらっしゃるのだろうか。より味わい深いご自身を感じる世界だろうか。いつかみんな、そこへ行く。忘れっぽいぼくのことだ。覚悟の中に、そのこともまた加えておきたいものだ。



| 10:18 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
僕達のTomorrow
 マイミクさんの日記からこんな曲に出会った。世の中のことをなにひとつ知らないぼくだから、有名な方なのかは知らないが、今朝の気分にピッタリだ。冬のイベントで子供たちの映像を流す予定で、そのBGMを探しているところだった。いいなあ、これ。今日という日の中にある広がりを感じる。でも使うためにはどうすればいいのか、なんにも知らない。どなたか知ってる人、教えてください。

 池田綾子 僕達のTomorrow

| 07:52 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
よかった探し
 苦しむだけでは 充分ではない
 青い空 太陽の光 赤ん坊の目
 素晴しいことは いっぱいある

         ティク・ナット・ハン


 苦しみや悲しみと、喜びや楽しみと、人生にはどっちが多いんだろう。世界にはどっちが多いんだろう。量の問題じゃないか。たったひとつのことにでも、その素晴らしさに気づけたら、もしかすると、それこそが幸福というものだったりして。苦しみの裏に回って後ろからそっと見つめると、そこには喜びが微笑んでいたりするかもしれない。だったら、量はおんなじだな。だったら、青空やお日さまや、愛くるしい赤ん坊の目がある分だけ、喜びの方がずっと多いかもしれない。

 きょうは週末をはさんで三日連続の仕事だ。不安がなくなると、仕事がニコニコしながらやってきた。それならニコニコとぼくも、大勢のスタッフたちの中に交じってよかった探しでもしてみよう。子供たちがまだ幼いころアニメの主人公がよくやっていたものだ。どんな素晴らしいことに出会うだろう。きっと素晴らしい写真にもなるぞ。




| 07:50 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
手放す
 ティク・ナット・ハンのコミュニティをのぞいていると、今の気持ちにぴったりな言葉に出会う。たとえば、こういうのがあった。


 心配や悲しみはあなたの問題を一つも解決できず
 安らぎや喜びの邪魔をするのです。
 それがわかったら
 いよいよ悲しみを手放すことにしましょう。
 決心さえすれば簡単です。

       『ウォーキング・メディテーション』より

 
 悲しみや怒りは一度感じるだけでなく、執着となってからだのどこかにたまっているようだ。時間という愛がゆっくりゆっくりとそれを消し去ってくれるものとばかり思っていたが、どうやら執着はエネルギーだ。エネルギーは形を変えても、けしてなくなりはしない。結局は感じている自分自身の責任なんだから、だれに文句を言ってもしようがない。手放すのか、それとも手放さないのか、その選択があるだけなんだと、ようやくそんなことがわかるようになった。


 手放すのにも、適切なタイミングというものがあるかもしれない。インテンシブのひとときに手放すことを経験して、そんな気がする。無理矢理、力づくで手放すことなどできるわけがない。手放すとは、肩から力を抜くことだ。背負っていた重荷を下ろすことだ。疲れ果ててしまえば、誰だって楽になりたい。そのとき、そっと静かに手放せばいいんだ。

 手放すとき、反対に入ってくるものがあった、ような気がする。それが愛だったのかはわからないが、入ってくるものを受け取ると、手放せた。どちらが先だっただろう。受け取るのと、手放すのと。同時だったかもしれない。手放すから入ってくる、入ってくるから押し出された。どっちでもいいか。

 でも、たとえば愛を受け取るというのは、意外と簡単なことではないかもしれない。それにふさわしい自分であるかと、つい考えてしまうぼくがいた。いた、と過去形で言うからには、今は割と簡単に受け取る準備ができている。なにも奢り昂ったり傲慢になっているわけじゃない。愛が粒子なら、人もその粒子でできている。受け取るとは、同質のものが交わることにすぎない。そう思ったら、とても簡単なことだ。そして、受け取ると、手放せるのだ。だったら手放す決心をするのではなく、受け取る決心をすればいい。簡単なことだ。みんな粒子なんだから。

 手放した悲しみは、いったいどこへ行ってしまったんだろう。天のだれかが受け取ってくれたかな。きっと悲しみ色の美しい光になって、キラキラと輝いている。



| 17:31 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
やさしい関係
 五日間の最後を、マイケルはこんな言葉で締めくくった。

 あなたの、あなたとの関係が、あなたの人生になる。

 あまりにさらりと言うので聞き逃してしまうほどだったが、このひと言を耳にした瞬間、ぼくの心は静かな喜びに包まれた。

 これまでのぼくは、人生とは創るものだと、そればかりに焦点を当てていた。どんな人生でもいい、自由に、心のままに、創り上げる。そうしてこそ生まれてきた甲斐がある、などと思っていた。今でもそれでいいのだろうとは思っているが、そればかりだとどこか肩に力が入っているような、いくらか無理をしている感じがしていた。

 周りの状況がどんなものであろうと、その状況の中にいる自分自身との関わり方をどうするのかと選択する、そんな態度や行動が自然に人生になっていく。そうなのか、と、最後のこの言葉が、ぼくには最高の贈り物になった。

 ぼくの、ぼくとの関係が、ぼくの人生になる。


 世界情勢はもちろん、人類の未来、地球の行く末、そんな大それた問題を念頭に置いて思い煩う必要はなかったのだ。見つめるのはどんなときも、自分自身でいいのだ。おふくろがヨシエどんをいじめるからと、日常のもろもろを気にすることもない。そういう家庭環境の中で、ぼくはぼくとどう関わるのかと、それこそをまずはじめに見つけるのだ。ぼくが意識的に選択していく日々の態度がぼくの人生だとしたら、どんなものにしようかと、毎日が楽しみになってくる。

 女神山で出会った予期せぬ友らとの愛のふれあいに、ぼくは深く感じてしまった。魂の家族、というような表現があるけれど、まさにそんなつながりを感じるインテンシブのひとときだった。ぼくは、ぼくとどんな関係でいようか。やっぱり、愛がいいかもしれない。なるべくなら静かな心と澄んだ瞳で、やさしく周りを見つめていたい。そうすると、自分自身が気持ちよくなる。それこそが、自分を愛するということなのかもしれない。やさしい関係になって、ただ自分を信頼するだけ。ほら、肩の力がすっかり抜けて、からだの中のなにかがふうわりと広がっていく。ささやかでもそんなエネルギーが世界のひとつになっているなら、もっと素敵だ。


| 07:25 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
考えとひらめきと
 頭でばかり考えて慎重に行動する人がいる。そういう人は気がつくと、主に行動しないための理由を考えていたりする。ぼくがそうだ。考えるとは、なかなかに難しい。頭が痛くなってしまう。それとは対照的に、ひらめきとか直感でばかり行動する人がいる。心の声を聴く、などと体裁のいい表現を使ったりして。ときどきのぼくがそうだ。これだと案外らくちんだが、あまり人間としての深まりを感じない。

 人間を二分するのは単純すぎて好みじゃないが、ぼくはどちらの人間だろうと、今朝の静かなひとときに思った。考える方か、ひらめき型か。近ごろは考えるパターンが多かったかもしれないと、振り返って感じた。かと言って、ひらめいていないわけじゃない。ひらめきを大切にしないと、感じる力はやがて退化していってしまうのだ、とも思っている。

 頭と心は、言い換えると自力と他力ということでもあるかもしれない。天に任せるなどと、ときどき耳にするけれど、そればかりだと、もったいない。せっかく生まれてきた楽しみは人生を生きることでもあるだろう。自分の足で歩いてみるから、自力の非力もわかるし、成功だ失敗だと喜怒哀楽も楽しめる。すべてをお任せするというのは、まずは歩いてみてからの話だ。だからぼくは回り道が多いのだろう。それがぼくらしいなとうれしくもなるが、いつか最後には本当の他力を知りたいから、とごう慢にも思っているからかもしれない。


 ぼくは、どちらかに偏ってしまうのをよしとしていないようだ。どっちつかずで中途半端がぼくらしい。白か黒かはっきりしろと言われても、そういう問いかけには答える気になれない。人生には灰色の時間が多いのだ。すぐに結果を求めてしまうから、正直な子供らは息が出来なくなってしまう。ようするに、ゆとりだ。表現するのは何色でもいいけれど、ゆとりの色は淡いトーンがお似合いだ。鮮やかな色を着込んでいる頭型の人間にはあいまいな色はまるで自信のないものにも見えるだろうが、心ではうらやましくなるほどに安らぎを感じているかもしれない。

 けれども、やすらぎばかりを表しているのも芸がない。壁にぶつかり、乗り越えようとして落ちてしまう。行き詰まった経験がある人がたどりついたやすらぎには、えも言われぬ、そうだ、海のような深さと空のような広がりがある。そんな人に出会った経験はまだとても少ないけれど、会うとすぐに本物だと感じることができる。

 また思い出した。『小さな抵抗』を行動した渡部良三さんの話だ。戦場という切羽詰まった場面で、自らの命を捨てる覚悟までして、信じる道を歩いたのだ。もはや考えるとかひらめくとかの枠では収まらない、人智を越えた本物を感じてしまう。本物の自力、本物の他力、本物の迷い、本物の決断。いつかぼくも、本物になれるのだろうか。中途半端はぼくの好みでもあるけれど、ここぞという最後の決断だけは、やっぱり本物でありたい。



| 06:10 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
青空
 遊三さんのお話はこんなふうに続いた。「淡々しみじみ、淡々悶々、淡々楽々、なにがあっても、淡々とやってゆきたい・・・」。淡々というのは、簡単なことなんだろうか、それとも難しいのかなあ。どんなときも淡々と。いい言葉だなあ。言葉だけで終わらせないようにしよう。淡々とまずは、深呼吸からはじめた朝。窓の外には青空が広がっている。そう言えば、ユコタンがよく言っていたもんだ。「わたしは青空。一点の曇りもない青空」。ときどき浮かぶ雲は流れるままにしていよう、どんな悩み事さえいつかは消えていく。きっとそういう意味もあったかもしれない。深い哀しみの人でもあった。青空を見ていると、淡々と、ということがどんなものか少しわかってきた。ぼくも、青空だ。たまには空から大地を見下ろしてやれ。







| 08:23 | 心の森 | comments(5) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
純粋
 この世に生まれてきたとき、ぼくは雪よりも白い心を持っていた。感情などという人間臭いものに振り回されることのない、ふうわりと空に浮かぶやわらかな雲のような赤ん坊だった。というような記憶があると、むちゃくちゃ面白いだろうなあ。今の自分の変わり様に気づく度に、きっとびっくりの連続だろう。

 純粋という言葉が中学生のころから好きだった。大学時代につけはじめた日記にも、よくその二文字を書いたものだ。いつの間にか心の隅っこに押しやっていたけれど、今も純粋な世界に憧れている。純粋を広辞苑で引くと、完全なこと、とある。邪念、私欲がなく清らかなこと、ともある。調べたこんな意味では、ぼくが描いている純粋のイメージとはすこし違うような気がしていた。ぼくの、純粋。それは、ぼくの中に存在している、ほんとうのぼくのことだったのだと、今ならわかる。ただ、その存在は確かに存在しているようなのに、これまで一度も自分で確認できたことがない。なんとなくいるような気がする、だけなのだ。


 赤ん坊のころなら、まだその純粋な存在とぼくはいつも共にいたかもしれない。けれども幼いころからおふくろに脅かされ、小学校では友だちをいじめ、恐い上級生からは逃げ回り、いつの間にか駆け引きを覚え、万引きを繰り返した。心にいろんな色を塗り始めたのはいつからなんだろう。いまではときどき真っ黒だったりする。それでもついに純粋を忘れなかったのだ。自分で自分を、ほめてやってもいいかもしれない。

 五十を過ぎてまだ純粋に憧れている、と言ったら笑われるだろうか。少年野球の監督をしていたころ、「見ろよ、夕陽だ、きれいだなあ」と言ったら、「そんな青春ドラマみたいなこと言わないでよ」なんて子供たちは白けてしまった。でもあいつら、いつの間にか虹と遊ぶようになったんだ。案外ゆっくり語り合えば、どこにも同じような奴がいるかもしれない。

 純粋。とにかく、いいやつだ。ぼくがどんなになっても、いつも逃げないでそばにいてくれる。きっと、いつまでも。



| 21:54 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
大切だよ
 音楽の授業で使ったあの音叉は、周波数が同じものだったら共鳴して振動する。それと同じことが、人の心にも起こるのかも知れない。声は周波数で表すことができるだろうが、思いや感情は測れない。けれど、心は通う、と言う。同じ言葉を発すれば、同じような心持ちになってしまうことだってありそうだ。感情が共鳴するとしたら、ちょっとこわい。不用意な言葉は、使わない方が賢明だ。

 昨晩このkazesanに書いた記事の「ぶっ壊す」とう言葉はぼくがはじめに言ったわけではないけれど、同じ言葉を確かにここに記した。言霊などと言うまでもなく、言葉が力を持っていることは誰もが経験しているだろう。言葉で深く傷つきもすれば、支えてくれる言葉だってある。だからだろうか、ぶっ壊すという言葉を使ったぼくの中がすこしざわついてしまった。あの政治家と共鳴してしまったんだろうか。

 憂鬱な一日になってしまうのかと思っていたら、朝タイムリーにとても素敵な話に出会った。ぼくにはまさに天の助けになった。友人のブログ「アンナプルナと樹」に紹介されていたものだ。少し長くなるが、全文を転載した。




*****


世界一風変わりなセラピスト


二年前、ハワイに住む一人のセラピストの話を聞いた。
その人は触法精神障害者
(訳注:刑法罰に問われたものの、精神障害を理由に
不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと)
の病棟に収容されていた人たち全員を、 誰一人診察す
ることなく癒したそうだ。
その心理学者は患者のカルテを読み、自分がどのように
してその人の病気を創りだしたのかを理解するために、
自分の内側を見たのだそうだ。
彼が自分自身を改善するにつれて、患者も改善したという。

最初にこの話を聞いたとき、都市伝説だと思った。
自分自身を癒すことによって他の誰かを癒すなんてことが
どうやってできるだろう?
最高の自己改善の達人であったとしても、どうやって触法
精神障害者を癒すことができるだろう?

私には理解できなかった。
論理的な話ではなかったので私は受け入れなかった。

しかし、一年後に同じ話をまた聞くことになった。
セラピストはホ・オポノポノというハワイの癒しの
プロセスを使ったのだという。
初めて聞くものだったが、忘れることができなかった。
もしその話が本当なら、私はもっと知らなければならなかった。

私は「完全な責任」とは、私の言動に対する責任は私にあると
いう意味だと前々から理解していた。その向こうのことは、自
分の管理を離れていると。
ほとんどの人たちは完全な責任というものを、そのように考え
ているのではないかと思う。
私たちは自分の行いに対して責任があるのであって、他の人の
行いに対してではない。精神病の人々を癒したハワイのセラピ
ストは、私に完全な責任についての
進化した新しい観点を教えてくれることになった。

彼の名はイハレアカラ・ヒュー・レン博士。
私たちは最初の電話でたぶん一時間は話しただろう。
彼にセラピストとしての仕事の全貌を語ってくれるようお願いした。
彼はハワイ州立病院で4年間働いたことを話してくれた。
触法精神障害者を収容していた病棟は危険なところで、心理学者は
月単位でやめていき、職員はよく病欠の電話をかけてきて、
やめていく人もいたそうだ。人々がその病棟内を歩くときには、
患者に攻撃されないように壁に背中をくっつけて通ったらしい。
それは生活するにも働くにも訪ねるにも心地よい場所ではなかった。

レン博士は一度も患者を診なかったのだそうだ。
彼は診療室を持って患者らのファイルに目を通すことには合意した。
それらのファイルを見ながら、彼は自分自身に働きかけた。
彼が自分自身に働きかけるにつれて、患者に癒しが起きはじめた。

「2、3月後には、以前は手足を縛られていた患者たちが、
自由に歩くことを許可されていました」と彼は言った。
「多量の投薬が必要だった人たちは、投薬をやめつつありました。
そして退院の見込みのなかった人たちが退院していったのです。」

私は畏敬の念に打たれた。

「それだけではありません」彼は続けた。
「職員が仕事に来ることを楽しみ始めたのです。
常習的欠勤や退職は消え去りました。
患者は退院していくし、職員全員が仕事に来るようになった
ので、最後には必要以上の人数の職員が残りました。現在、
その病棟は閉鎖されています。」

ここで私は問わなければ気がすまなかった。
「それらの人々に変化をもたらすような何を、あなたは自分自身
の中で行っていたのですか?」

「私は彼らを創りだした自分の中の部分(パート)を癒していただ
けです」と彼は言った。

私には分からなかった。

レン博士は説明した。
あなたの人生への完全な責任とは、あなたの人生の中の全てが??
単にそれがあなたの人生に存在しているというだけの理由で?
?あなたの責任なのだと。
文字どおりの意味で、全世界があなたの創造なのだと。

ヒャー。これはなかなか納得できるものではない。
自分の言動が自分の責任だということと、私の人生におけるあら
ゆる人の言動の責任が私にあるというのは全く別の話ではないか。
それにもかかわらず、実際のところは、もしあなたが自分の人生
の全責任を負うならば、
あなたが見たり、聞いたり、触れたり、その他どんな方法であれ、
あなたが経験する全てがあなたの責任なのだ。それはあなたの人生
の中にあるのだから。

これはつまり、テロリストの活動、大統領、経済?
?あなたが経験していて好きではないこと?
?を癒すのは、あなた次第だということである。
言ってみれば、それらは存在してはいないのだ。
あなたの内面からの投影である以外には。
問題は彼らに関するものではなく、あなたに関するものであり、
それを変えるには、あなたはあなたを変えなくてはいけないのだ。

このことは把握するのも難しく、ましてやそれを受け入れて実際に
生きることはもっと難しいとわかっている。
非難のほうが、完全な責任よりもはるかに簡単である。
しかし、レン博士と話すにつれて私は気づき始めた。
彼にとっての癒し、そしてホオポノポノにおける
癒しとは、あなた自身を大切にすることなのだと。
あなたが自分の人生を改善したければ、あなたは自分の人生を
癒さなければならない。
もしあなたが誰かを癒したければ
?たとえそれが精神障害を持った犯罪者であっても?
あなたはそれを、自分自身を癒すことによって行うのだ。

どのようにして自分自身を癒すことに取り組んでいたのかと
私はレン博士にたずねた。患者のカルテを見ていたときに、
彼は具体的には何をしていたのだろう?

「私はただ『ごめんなさい(I'm sorry)』と 『大切だよ(I love you)』を
何度も何度も言い続けていただけです」と彼は話した。

それだけ?

それだけ。

あなた自身を大切にすることが、あなた自身を好転させる最も
素晴らしい方法であり、あなた自身を好転させるにつれて、あ
なたはあなたの世界を好転させるということが判明した。

これがどのように機能するかの簡単な例をあげてみよう。
ある日、誰かが私を不愉快にさせるメールを送ってきた。
過去そういう時には、私は自分に感情的な反応を引き起こす
ものについてワークしたり、あるいは意地悪なメッセージを
送ってきた人に理を説こうとすることで処理したものだった。

今回私はレン博士のメソッドを試すことにした。
私は「ごめんなさい」と「大切だよ」を声に出さずに言い続けた。
特定の誰かに向かって言ったわけではなかった。
私はただ愛の精神を呼び起こし、この外側の状況を創り出した自分の中を
癒そうとしただけだった。

一時間もしないうちに同じ人からメールが来た。
彼はさっきのメッセージについて謝罪していた。
私は謝ってもらうために外側に何も働きかけをしていないこと
を覚えておいてほしい。
私は返事すら書いていなかったのだ。にもかかわらず、
「大切だよ」と言うことで、私はどういうわけか彼を創り出し
ていた自分の内側を癒すことができた。

その後、私はレン博士が開いたホ・オポノポノのワーク
ショップに参加した。彼は今では70歳で、優しい祖父のような
シャーマンと見なされていて、ほとんど隱遁生活を送っている。
彼は私の著書『The Attractor Factor』をほめてくれた。
私が自分を向上させるにつれて、私の本の波動が上がり、
人々が本を読むときに
皆それを感じるだろうと彼は語った。要するに、私が向上すると、
私の読者も向上するということだ。

すでに売られて外に出ている本についてはどうなんですか?
と私はたずねた。

「それらの本は外にあるのではないよ。」彼が持つ神秘の智慧に
私はとても驚いた。
「未だにあなたの中にあるんだ」

つまり、外なんてないということだ。

この高度な技術を、それが値する深さとともに説明しよう
としたら、本が一冊書けるだろう。
あえて言うなら、あなたがあなたの人生の中のどんなものでも
改善したいのなら、見るべき場所はただひとつ、あなたの中である
、ということだ。

「あなたが見る時は、愛をもって見るように」


*****



 これを読んで、ぼくの心の中の構造がわかった気がした。いつももやもやとして、得体の知れない何かがうごめいている。それはこの世の中への反発だったようだ。だれもかれも自分勝手なやつばかりだと、雑多な報道にふれる度に感じていたものがゴミの山のように溜まっていた。このぼく自身が気ままで一番自分勝手な人間だということも忘れて。

 たとえば、気に入らない政治家が新聞に載っている。それを気に入っている読者も当然いるわけで、気に入らないというのは政治家そのものではなく、ぼくの心の中にある問題だった。気に入らない政治家を、ぼくは自分の中に自分自身で作り出している。そしてその幻想にも似た政治家を声なき声で毎日攻撃しているというわけだ。これではもやもやと心は濁って当たり前、だった。

 自分の外にある対象をたとえば改善しようとしても、それは叶わないことだと、ぼくは知っていたはずだ。それでも、たとえ努力で終わってもいいのだと思いながら、改善しようと試みつづけている。そんな図式が見えるようだ。
 
 でも待てよ、と今日はすこし清々しい気持ちになっている。自分の心の中の幻想に、「ごめんね。大切だよ」と話しかけるまでもなかった。心の構造か仕組みかを知ってしまっただけで、もうリラックスしはじめていた。まったく単純なものだ。紹介した話の真偽はぼくにはわからないけれど、そんなものかも知れないと思うだけで十分だった。声に出して、I Love You などと言いつづけるなんて好みじゃないからできそうにないけれど、そんなお前も大切なんだよ、となら、静かにいつもささやいていられる。自分の外界とばかり思っていたものが、もしも自分自身のことならば、そうだ、いつも自分を大切にするだけでいいのだ。政治家を責める代わりに、責めているぼくの心を何度でも静かに見つめればいい。大丈夫だ、大切なお前だよと。少なくとも、不遜なものとの共鳴は避けられた。いや、ぼくの中の不遜が少し消えて行った、ということか。

 もしもだ、日本中の人の心が、その心で作り出している哀しみや怒りをやさしいエネルギーで包み込み大切だよとでも言ってあげることができたなら、この国になにか大きな変化でも生まれるだろうか。そんなことがあるのなら、生きている間に一度ぐらいは見てみたい。



| 21:18 | 心の森 | comments(6) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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