kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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翠ケ池
 


 秋晴れは貴重なものだ、などと勝手な理屈をくっつけて、筋肉痛も癒えないうちにまた白山を歩いて来た。天候に合わせての日帰り登拝も、気軽でなかなかに楽しい。前田の殿様は兼六園を庭にしていたが、ぼくのは白山だ、と威張りたくなるほどに今日の山頂付近の散歩は最高の気分だった。剣ヶ峰の真っ赤な紅葉をひと目見たいと思ったが、時すでに遅し。いつごろが見頃なんだろう。来年はひとつ、九月から目を光らせることにしよう。それではと、目標を翠ヶ池に変更し、たっぷりと味わった。

 冬を前に雪渓はすっかり消えていた。池のほとりまで下りて行けそうだ。大きな岩に抱きつきながら、あっという間に辿り着いた。腰を下ろし握り飯を頬張り、湯を沸かしてコーヒーを飲んだ。一度小石がカラカラと音を立てて転がり落ちて来た以外は、すべてが静寂に包まれていた。小さな白い蛾が池に落ちて、羽を小刻みに震わせている。このままじゃ死んでしまうだろうと思いながら、見るでもなくながめた。秋の日差しでも、山では案外と強いものだ。顔や唇がヒリヒリしてきた。でも、ほんとうに気持ちがいい。でも、それを言葉にはしない。気持ち良さは、感じようとする必要はない。その場にいるだけで十分だ。なんにも考えないで、ただボーッとしていればいい。ここは、広大な静寂、天地茫然。ちっぽけな感傷は似合わない。










| 23:03 | 白山 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
別山へ

 
 予定をどんどんと変えて、結局またチブリ尾根を歩いて来た。最初に予定した中宮道は雨天を気にした相棒の都合に合わせるしかなくて、それではと目指そうとした剣ヶ峰は、三連休の最後に当たったせいでマイカー規制と混雑が重なり、静けさを求めるぼくの逃げ込んだ先がチブリだった。まあ、どこを歩いても山は気分がいい。秋晴れの一日を陽光に輝くブナの森で思う存分楽しめた。そして、歩きながら思った。ひとつの道を歩くと、もうほかの道は歩けない。山登りをしているといつもそう思う。人生もきっとおんなじだ。もしもまったく同じ人生を何度か生きることができたとしても、それぞれに違った体験をするんだろう。何度も何度も同じ山道を登り下りしながら、毎回違った出会いがあるんだもの。視野の広さに応じて、同じものが同じでなくなる。きっとそんなものなんだろう、世界とは。それにしても別山までの往復はやっぱり応えた。十九キロ。久しぶりに足が痛い。

 白山のもうひとつの顔、別山(2399m)






| 12:30 | 白山 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
山の仲間
 チブリ尾根を歩いた。お相手はるみさんとなつさん。少し体調を崩しているるみさんに合わせて、ゆっくり歩いた。風のない曇り空のおかげで寒くもなく汗ばむこともなく、秋の山は気持ちがいいばかりだった。山は不思議な空間だ。初めて会うなつさんともほんのしばらく歩いているうちに、まるで旧知の仲のように親しくなった。山が好きという共通項には、計り知れない力がある。人と人は信頼があってこそ深く長くつき合えるものだろうが、山好きというだけでそれに劣らない関係を育むことができるかもしれない。「素敵な森」と、ふたりが声をそろえて言った。ぼくの私有地でもないのに、自分のことのようにうれしくなる。尾根に出ると山水画のように遠く霞む美濃の山並みと、手前に広がる紅葉の森のコントラストが美しく、ふたりはまた口をそろえて、「わぁー」と言葉にならない様子で感動した。ぼくもまた、喜んだ。人の喜びがこんなにもうれしいものだったとは、ぼくにははじめての体験かもしれない。ふたりの様子にふれる度、何度も何度もうれしくなった。山の空気は澄んでいる。だからだろうか、歩く人の心も澄んでいく。「早く治りますように」と言うと、「はい、これで大丈夫」とるみさんから返ってきた。心ばかりか体も澄んでいくようだ。








| 21:22 | 白山 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
Space
 白山山頂より

 数年前の冬、北海道を旅したとき、Spaceという言葉が浮かんできた。北の大地はどこもまっ白で、空間というものは無限に広がっているのだとそのとき感じた。それと同じことを、ぼくは白山で感じているようだ。白山に登り、でも見ているのは空ばかりだ。けれど空ばかりではどこにいても同じことだ。空を見上げるとき、立っている大地とのコントラストが大きな要素になる。天地人という言葉があるが、まさに空だけでは役目を果たさない。大地があってこその空だ。そして人がいてこそ、空と大地は讃美もされる。Spaceの中で、ぼくというちっぽけな存在は、ちっぽけだからこそ空と大地の壮大さを感じていられる。三者のどれかひとつが欠けてしまえば、もはやSpaceは成り立たない。そして思う。ぼくは無限の中で切り撮り遊びをして遊んでいる。


夜明けの白山






| 18:00 | 白山 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
山ありてわが人生は楽し
 今年はどうしたというんだろう。白山ばかりが気になって、また明日から歩いてくる。前回の中宮道を振り返っている間もなく、今度は岩間道と楽々新道だ。これで石川県内のすべての登山ルートを歩いたことになる。まさかこんなにまで白山が大好きになるなんて、数年前までは思いもしなかった。百名山の深田久弥さえ知らなかったというのに、人も変われば変わるものだ。その白山を愛した深田久弥の生家で実の弟さんを取材したことがあって、その折にいただいた久弥氏直筆の色紙にはこんな言葉が書かれている。

 山ありてわが人生は楽し

 色紙はコピーしたものだが、今ではぼくの宝物になった。山への造詣が深かった氏とは比べものにならないだろうが、ぼくの人生にも山がある。否、山ではなく、白山があるのだ。ふるさとに白山があり、わが人生もそれだけで十分に豊かだ。一歩ずつ踏みしめながら、心にも刻んで来よう、この人生の一瞬一瞬を。

初めての中宮道は尾根に出ていきなりこの風景だった。うれしくて思わず歓声をあげた。まるで雲の上を歩いている気分だった。




| 21:37 | 白山 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
撮る男
 ギャハ! 七月の写真教室を兼ねた白山登拝メンバーの麗しき女性たちが、「撮る男」なんてタイトルをつけた写真をプレゼントしてくれた。自分で言うのもなんだけど、かっこいいでしょ! ふるさとの山、白山に生まれて生かされて、ぼくはこんなふうにして写真を撮ってたんだなあ、なんて、ほんとこれこそ地球のいい思い出だぁ。あんまりうれしいので、このブログのページがあるかぎり記念に残しておくのだ。肝腎の写真教室では大したアドバイスもできなかったけど、なぁんだ、はじめっからこんなに上手なんだもの、これからは写真を愛する仲間だな。

Photo;Masako

Photo;Sachiko




| 18:23 | 白山 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
あこがれの中宮道
 白山に登りはじめてもう十年あまりが過ぎた。この二三年、一般的なルートを離れて歩くようにもなったが、いつかはきっとと憧れていた中宮道をついに、歩いた。ついに、という副詞を使いたくなるほどぼくは気が小さくて、白山へと通じる道の中でもっとも自然度が高い、しかも片道二十キロの長距離を歩くにはかなりな勇気が必要だった。初めてのルートはいつも緊張するけれど、中宮道はぼくにはほとんど冒険だった。楽しみ半分、恐さ半分。これで自然が好きだ、白山が大好きだと言うんだから、まったく聞いて呆れる話だ。

 四軒並んだ中宮温泉の客が朝早くから浴衣姿で川を見ている。ついでに、モゾモゾとザックを調整しながら歩いているぼくも目に入ったようで、ご苦労さんという視線を感じた。人とちがうことをしているというのは、ぼくの場合なんとなく気分がいいもんだ。山頂で人気のない長距離の登山道を下りて行く単独行の人を見る度に、すごいなあ、と感動していたものだが、その対象にいま自分がなろうとしていることに軽い興奮を覚えた。登りに要した二日間で出会ったのはわずか三人に過ぎなかった。この道を歩く人の一人に、ぼくもようやく仲間入りする日がきた。

 登り口を見つけ、まずは大きく深呼吸。なるべく静かな気持ちでと思ったが、落ち着かない気分は仕方がない。そのまま手を合わせ、よろしくおねがいします、の気持ちをこめた。見上げるといきなりの急な階段だ。重ね着していた長袖のシャツをさっそく脱いだ。登り切って平坦な原っぱに出た。足下の草は生い茂り、朝露で靴が濡れる。手入れは怠っていないはずなのに水をはじいていたのはしばらくで、まるで川でも歩いているように染みてきた。木々の間からのぞくとなりの山と青空と、そして白い雲。見上げてホッとした。ちっぽけなぼくを空から見守っている存在がいる。そう思うと、いつもとても安心する。



 ブナ林に入った。チブリ尾根とも釈迦新道ともちがう、ここだけの雰囲気がある。樹が、どこよりも堂々としている、というのはおかしいだろうか。それぞれが自分を誇示しているような、おれはこんなに曲がっているんだぞとか、自慢しているような、一本一本にだれにも邪魔されずに育った子どものような自由な雰囲気を感じた。ただ残念なことに、いたるところに名前だ日付だと刻んだ痕が目についた。深くえぐれた痛ましいほどの傷だ。白山国立公園から子どもが化石のひとつを持ち出したからと言ってそれを叱る気にもなれないけれど、この傷だけはどうにも哀しい。中宮道を歩くからにはそれなりに山を愛する人たちだったろうに。

 穏やかさを感じる平坦な道になった。清浄坂、と表示板にある。なるほど、うまく名づけたものだ。この優しげな道を歩きはじめ、人々は穢れた身を浄めるのだ、と勝手に想像して楽しむのはいつものことだが、ぼくの心や体は浄めきれるだろうか。かなり難しい問題だ。道を横切る黒いものを感じた。うん? と目を凝らした。どうやら猿だ。地図の解説書は猿や鹿にも出くわす可能性があると書いていたが、まさかいきなりとは。しかもこんな誰もいない山道だ。ホテルなどが立ち並ぶ上高地などとはわけがちがう。

 一匹、二匹、三匹と徐々に姿を現して、数メートルの距離でぼくを取り囲む恰好になった。離れたところで、形容し難い声で一匹が啼いている。気の抜けた犬の、それを人間が真似しているような、自然界にふさわしい聞き慣れない啼き声だ。ランディさんが屋久島の猿に囲まれ追いかけられた話を書いていたのを思い出して、いい気がしない。どれもそれ以上動く気配がないので、すこし安心して葉影に見える最初の一匹にレンズを向けてみた。ジッとぼくを見ている。目と目が合うというのは緊張もするけれど、いやな気はしない。次はどんなやつだと、様子を伺いに来たんだろうか。彼らこそ、この山の住人だ。ぼくは彼らの山に入らせてもらう、ひとときの気まぐれな登山者にすぎない。謙虚さが足りないよと、彼らは教えてくれたのだ。はじめに出会えてよかった。ありがとう、と心でつぶやいて、また歩きはじめた。室堂まではまだ十八キロもある。











| 06:31 | 白山 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
中宮温泉
 ヤギおじさんたちとの白山登拝をきっかけに、いつか歩いてみたいと思っていたほかのルートへの興味がどんどん強くなってきた。まずは中宮道だ。昭文社の地図についている冊子には「室堂から中宮温泉まで約20kmの長い道であるが、高山植物の大群落、ブナの原生林、秋まで残る雪渓など、ずば抜けて自然度が高い、魅力たっぷりのコースである」などと解説されていて、読んでいるだけでぞくぞくしてしまう。二人連名になっているこの冊子の調査執筆のひとりは栂典雅さんで、ぼくもよく知っている白山大好き人間のベテランだ。十分に信頼に価する。

 よし、この余勢をかって来週早々に登ろう、という気になった。とりあえずは雰囲気を確かめて来ようと、ヨシエどんを誘って登り口の中宮温泉までドライブしてきた。初めてのルートにはいつもかなりな緊張感が伴って、どうにも落ち着かない気分になるぼくだ。おそらく見た目以上に気が小さい。だからの、下調べでもある。

 同じ石川県にありながら、この辺りにはあまり縁がない。二三年前にうさぶろうさんとごいっしょしたのが最後だったか。温泉宿が三軒ばかり並んでいて、川向こうに白山登山道の表示があった。ここから登るのか。どうということはない、それを確認したかっただけのことだった。



 一番奥に薬師堂があった。小さな祠を見つけて、手を合わせた。願い事も頼み事も本当にはなにひとつない。心に浮かぶ言葉もなく、ただ手を合わせた。合わせることは、ぼくとぼくを見守っている存在への信頼の証しだ。いつもそんな気分でいる。

 川沿いに「薬師の湯」と名づけた足湯用の湯船が設けてあった。ほかにすることもないので、さっそく試した。熱い。ホースで水を注いでいるところをみると、源泉の温度はかなりのものなんだろう。一分もつけていられなかった。日傘を差して足湯をしている妻、というのもなかなか絵になった。思わずパチリ。ふたりのこんなくつろぎの時間は久しぶりだな、と思った。近場でもたまにはお出かけもいいものだ。

 帰りは途中にある白山自然保護センターの中宮展示館に寄った。白山の自然ばかりか、かつての人々の暮らしぶりなども紹介されていてなかなかに興味深い展示だった。登るばかりでなく、白山のいろんなことをもっともっと知りたくなった。うれしいことだ。ふるさとの山が、白山だなんて。

 



| 14:27 | 白山 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
下りる決断
 南竜山荘の夜は板張りの床にシュラフだけで横になった避難小屋よりはずっと快適だったが、未明の雨や風の音を聞きながら、すこし投げやりであきらめににも似た気持ちになった。外に出る気にもなれず、サッサと朝食を済ませ、テレビで報じられている台風九号の情報に注目した。台風は太平洋上を東進しているようだったが、兵庫などを襲った豪雨が白山へも影響しないという保証はどこにもなかった。さてと、この悪天候下でどうしたものか。小部屋に集まり、ヤギおじさんを中心に全員で今後の行動を話し合った。

 「今日のうちに下りるという手がひとつあります」と、ヤギおじさんが切り出した。それは、不確実な明日の天候を予想しての行動ではなく、今できる確実な安全策を取る、ということだった。昨日登って来たばかりの合流組が山頂に行かないまま下山しなければならない、などとは夢にも思わなかったが、それはどんな登山にも例外なくあり得ることだった。積極果敢に登ろうという気持ちをだれも持ち合わせていないかに思えたそのとき、なんと十歳のナオくんが正直な気持ちをぶつけてきた。「このまま下りるなんていやだ。頂上まで行きたい」。それならタカ坊はどうだ、と視線を向けると、「帰りたくない」と小さな声が返ってきた。七人のおとなたちで判断しても良さそうなものだが、二人の子どもたちの意向を組み取る余裕が、その時点での天候にも心にもまだ十分にあったようだ。



 荷物は山荘に置いたまま空身で山頂までを往復し、午後一時半には下山開始、という予定になった。そうと決まれば足取りは軽い。風雨の心配もほとんどなくコースタイムよりも早いペースで歩けたようだ。室堂を過ぎ山頂が近づくと風が強くなって来た。途中までは白山そのものが風を遮っていたわけで、日本列島を東西に分ける峰に立った気分になった。代わる代わる三角点に立ち記念写真を撮った。ガスに覆われ、晴れれば見渡せるアルプスの山並みはもちろん、眼下に広がる近隣の山さえ見えなかったが、ナオくんもタカ坊も、とりあえず標高2702mの白山の山頂に立ったのだ。

 下山時のコンディションは良好だった。ナオくんが途中でダダをこねたのは、親でもないぼくには愉快だった。まだ晴らし足りないうっぷんでもあったんだろうか。収まりのつかないナオくんに向かってヤギおじさんが言った。「山では自分の弱い部分を問われるんだよ」。いくらなんでも十歳の子には難しすぎる話だろうと思ったが、ナオくんはそれ以来何かに耐えるように黙々と歩きはじめた。おとなにも子どもにも、山道は自分の足で歩きながら、自分自身を見つめるところでもあるようだ。



 タカ坊は余裕が出て来たのか、度々立ち止まって写真を撮りはじめた。前との距離が空きすぎてはいけないと一度は早めの行動を促したが、待てよ、そうじゃないだろう、とぼくもまた自分の思いを見つめ直した。これは彼にとって、記念すべき初めての山登りだ。しかも一日予定を早めて下りてきた。今さらなにを慌てることがあるだろう。最終バスに乗れないなら乗れないで、いくらでも解決策はあるはずだ。十分に心ゆくまで撮るがいい。壮大な山の時間に比べれば、撮ることも生きることも、ほとんどあっという間に終わってしまう。などと、心の中でぶつぶつとつぶやきながら、タカ坊の狙った風景をぼくもまた真似して撮ってやった。

 いくらの活火山でも、白山がこの場を動くことはない。また登ればいいのだ。だれもがみんな自然から遠く離れてしまった現代人にはちがいないけれど、心がまた動き出したらいつでも飛んで来るがいい。いっしょにまた山の空気を腹一杯吸い込もうぜ。山頂や翠ケ池からのご来光は何度見ても震えてしまうんだから。

 

 霧に霞む弥陀ヶ原の木道が、またおいでよとささやきかけた。






| 21:47 | 白山 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
合流
 「ヤギおじさんと登る白山」の最大の出来事は、南竜山荘での合流だったかもしれない。四日間の全日程には参加できなくても、それぞれの都合や脚力に合わせて登り、途中で合流するという手があった。実際にそれを計画してみると合流ポイントまでの道のりにさらに楽しみが生まれ、離れて登っている別ルートの仲間を思いやるひとときは想像以上に豊かなものになったようだ。「砂防を登ってくる人たち、雨に遭わなければいいんですけどねえ」と、ヤギおじさんは何度も声に出して心配していた。メンバーの中に十歳のナオくんがいるからだろう。それでぼくはと来たら自分たちのことや周りの風景を堪能することに精一杯で、他を思いやるという深い情けが欠けているのかと、半ば呆れて思ったりもしたけれど。



 山荘にはぼくたちが一時間あまりも早く着いた。待ち合わせの時間を決めていたわけではなかったが、天候や初日のチブリ尾根を歩いたペースから判断して早めに行動したのが良かったようだ。山歩きのもっとも大切なことはこのゆとりなんだろうと、体験して思った。受付棟の二階が開放されていて、テツオとヤギおじさんがテキパキと昼食の準備をしてくれた。キャンプなどでもそうだが、こういうとき男はかいがいしく動きたくなるもののようだ。呆然とその様子をながめながら全体の流れに任せている気分は悪くなかった。ぼくもまたいつの日かの登拝では、同じように素早い行動で全体のお世話をするのかもしれない。

 歩きながら休みながらのヤギおじさんの解説つきで御舍利山を登った。

 「お、あれかな?」と窓から見えるグループを指差したヤギおじさんが、「お〜い、ナオくんか〜い?」と何度も大声をあげて呼びかけた。するとひとりが手を振った。どうやら、あれがナオくんのようだ。すぐに外へ飛び出して行ったヤギおじさんの後を追って、みんなで出迎えの準備だ。う〜ん、なかなかにドラマチックだ。ほとんどが初対面だが、今日からは山の、否、白山の仲間になるのだ。言葉少なに、ガッチリと握手を交わした。おしゃべりな人も口べたな人も、なんの遠慮もいらない。ここではだれもがそのままの自分でいていいのだと、ぼくは思ったりする。

 レイコさんと吉田さんのご夫妻は神戸と富士の麓から、クミコさんとナオくん親子は千葉の佐倉から。ヤギおじさんは山形の長井で、タカ坊は埼玉の志木。それぞれの暮らしがそこにある。日常を飛び出して、今白山に集っている。その六人を地元代表のナオコとテツオとぼくで迎えた。人数の多寡でなく、距離を越えたこの豪華な顔ぶれの中で、口に出しようのない恥ずかしさと軽い興奮を覚えた。

 別山から南竜馬場への尾根筋は高山の雰囲気をたっぷりと味わえた。

 受付を済ませ、案内されたのはわずかに六畳程度の小部屋だった。九人の簡単な寝具がすでに床一杯に敷かれていた。足の踏み場もないとはこのことだが、これがまた良かったのかもしれない。向き合うのではなく、間近にゴロリと横になって交わす会話ほどリラックスできるものはない。経験豊かな吉田さんが提供してくれた話題のひとつは、フォトセラピーだった。ライフスタイルまで変えないとそろそろ行き詰まっているぼくだから、これは未来を開く大きなヒントになりそうだ、と感じた。

 自然解説員について小一時間ほど周辺を散策したあと、五時半から夕食。山の食事は早い。出されたメニューはあまりにレトルトでがっかりだし、ご飯の炊きあがりはイマイチ、みそ汁さえお替わりできないのには不満だったが、おしゃべりが最高のご馳走で、おいしいねと言いながら食べた。ヤギおじさんの「朝日連峰の山小屋のおにぎりは絶品ですよ」との言葉を一度確かめに行きたいものだ。食事が終わって全員で輪をつくり、自己紹介がてらのあいさつを交わした。それぞれのひと言を聞きながら、いま出会っているのだと、また軽い興奮を覚えた。白山の菊理媛はご縁を取り持つ神さまでもある。ヤギおじさんがポツリと言った。「なんだか初めて会ったのだという気がしませんね」。いよいよ明日から全体行動が始まるのだ。

 南竜山荘を背景に全員で記念の一枚。実はこれは一日繰り上げて下山開始となった最終日の場面。






| 13:28 | 白山 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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