白山に登りはじめてもう十年あまりが過ぎた。この二三年、一般的なルートを離れて歩くようにもなったが、いつかはきっとと憧れていた中宮道をついに、歩いた。ついに、という副詞を使いたくなるほどぼくは気が小さくて、白山へと通じる道の中でもっとも自然度が高い、しかも片道二十キロの長距離を歩くにはかなりな勇気が必要だった。初めてのルートはいつも緊張するけれど、中宮道はぼくにはほとんど冒険だった。楽しみ半分、恐さ半分。これで自然が好きだ、白山が大好きだと言うんだから、まったく聞いて呆れる話だ。
四軒並んだ中宮温泉の客が朝早くから浴衣姿で川を見ている。ついでに、モゾモゾとザックを調整しながら歩いているぼくも目に入ったようで、ご苦労さんという視線を感じた。人とちがうことをしているというのは、ぼくの場合なんとなく気分がいいもんだ。山頂で人気のない長距離の登山道を下りて行く単独行の人を見る度に、すごいなあ、と感動していたものだが、その対象にいま自分がなろうとしていることに軽い興奮を覚えた。登りに要した二日間で出会ったのはわずか三人に過ぎなかった。この道を歩く人の一人に、ぼくもようやく仲間入りする日がきた。
登り口を見つけ、まずは大きく深呼吸。なるべく静かな気持ちでと思ったが、落ち着かない気分は仕方がない。そのまま手を合わせ、よろしくおねがいします、の気持ちをこめた。見上げるといきなりの急な階段だ。重ね着していた長袖のシャツをさっそく脱いだ。登り切って平坦な原っぱに出た。足下の草は生い茂り、朝露で靴が濡れる。手入れは怠っていないはずなのに水をはじいていたのはしばらくで、まるで川でも歩いているように染みてきた。木々の間からのぞくとなりの山と青空と、そして白い雲。見上げてホッとした。ちっぽけなぼくを空から見守っている存在がいる。そう思うと、いつもとても安心する。
ブナ林に入った。チブリ尾根とも釈迦新道ともちがう、ここだけの雰囲気がある。樹が、どこよりも堂々としている、というのはおかしいだろうか。それぞれが自分を誇示しているような、おれはこんなに曲がっているんだぞとか、自慢しているような、一本一本にだれにも邪魔されずに育った子どものような自由な雰囲気を感じた。ただ残念なことに、いたるところに名前だ日付だと刻んだ痕が目についた。深くえぐれた痛ましいほどの傷だ。白山国立公園から子どもが化石のひとつを持ち出したからと言ってそれを叱る気にもなれないけれど、この傷だけはどうにも哀しい。中宮道を歩くからにはそれなりに山を愛する人たちだったろうに。
穏やかさを感じる平坦な道になった。清浄坂、と表示板にある。なるほど、うまく名づけたものだ。この優しげな道を歩きはじめ、人々は穢れた身を浄めるのだ、と勝手に想像して楽しむのはいつものことだが、ぼくの心や体は浄めきれるだろうか。かなり難しい問題だ。道を横切る黒いものを感じた。うん? と目を凝らした。どうやら猿だ。地図の解説書は猿や鹿にも出くわす可能性があると書いていたが、まさかいきなりとは。しかもこんな誰もいない山道だ。ホテルなどが立ち並ぶ上高地などとはわけがちがう。
一匹、二匹、三匹と徐々に姿を現して、数メートルの距離でぼくを取り囲む恰好になった。離れたところで、形容し難い声で一匹が啼いている。気の抜けた犬の、それを人間が真似しているような、自然界にふさわしい聞き慣れない啼き声だ。ランディさんが屋久島の猿に囲まれ追いかけられた話を書いていたのを思い出して、いい気がしない。どれもそれ以上動く気配がないので、すこし安心して葉影に見える最初の一匹にレンズを向けてみた。ジッとぼくを見ている。目と目が合うというのは緊張もするけれど、いやな気はしない。次はどんなやつだと、様子を伺いに来たんだろうか。彼らこそ、この山の住人だ。ぼくは彼らの山に入らせてもらう、ひとときの気まぐれな登山者にすぎない。謙虚さが足りないよと、彼らは教えてくれたのだ。はじめに出会えてよかった。ありがとう、と心でつぶやいて、また歩きはじめた。室堂まではまだ十八キロもある。