kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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車前草のように
 

 「どんな理由であっても、いのちをふるいに掛けるような神さまや世界なら、わたしは自ら落ちていく。どんなことになっても、どんないのちも救おうとしてくれる神さまとその世界に住んでいたい」。

 友が送ってくれた言葉に、感じ入ってしまった。友と同じように思い、同じように生きていこう。風に吹かれて香る花のように、轢かれてつぶれた車前草のように、そしてカラス、お前のように。





| 21:12 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
魂の栄養
 ぼくの写真を表紙に起用してくださった快東みちこさんからその新著が届いた。『幸せになる宇宙が味方のアセンション』(ハギジン出版)。最近はスピリチュアルな本はよく見かけるし、正直に言えば、タイトルを見てもあまり興味がわかなかった。アセンションという言葉は何度か聞いたことはあっても、深く意味を知りたいとも思わなかった。

 せっかくのご縁だからと、読みはじめた。真理があまりに単刀直入に書いてあって、深さを感じない、と思った。それでも言葉が平易なのでとても読みやすく、いつの間にかページが進んで行った。どこら辺りでそう思ったのだったか、これまで読んだり聞いたりしてわかっていたつもりの内容を、ぼくは活かしていないことに気づいた。つまりは、知っているだけで、それを生きていなかった。

 たとえば、夢を持てと、大人たちは子どもに奨励するだろうが、その大人たち自身は夢を持っているのか。大体が、ぼくは人生に夢などいるものかと思っていた。生まれて生かされているだけで十分じゃないか。若い頃はたくさんの夢を持っていたはずだが、それも、大きすぎれば叶うはずもなく、小さければ叶っても感激も少ないようなものばかりで、気がつけば夢などどうでもよくなっていた。だから近ごろは覇気のない日ばかりがつづいていたんだろう。



 本の中ほどに、「夢は魂にとって、栄養のようなもの」という項があった。ちょっと気の利いた表現だ。いくつかの夢が例にあがっていた。料理の腕を磨いて家族にふるまうこと、いつも平和でいること、いつも誠実でいること、いつも感謝の心を忘れないこと、などなど。えっ?と、ぼくは意外に感じた。ぼくの捉えていた夢とは、もう少し壮大なイメージがあったからだが、こんなふうに暮らしの中に活かせる夢もあったのかと、ちょっぴりうれしくなった。それも夢なら、夢は持っていたほうがいいかもしれない。

 夢は魂の栄養かあ。ぼくの魂は、きっとこのごろ寂しがっていた。ぼくが最大の関係者なんだから、よくわかる。きっと夢不足が原因だ。ぼくの魂が喜ぶ夢って、いったいなんだろう。考えたこともなかった。本にはちょうど、「自分の魂と会話する方法」という項もある。「鏡に向かって自分自身の目と会話する。目は心の窓、魂と直結している」と書いてある。そうだなあ、鏡に向かって問いかけてみようかなあ。「ぼくたちの夢って、いったいなんだろう」。ああ、魂のこと、すっかり忘れてたなあ。ずっといっしょに生きてきたのに。

 それにしても不思議な本だ。読後にやすらぎというような感覚が残っている。何かに深く感動したわけでもないのに、知らぬ間に力を授けてくれたような気さえする。




| 22:34 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
趣味の問題
 青空が広がった。それだけでうれしくなる。うれしい、という気持ちが、ぼくには最高のご馳走だ。うれしさを満喫しようと、事務所への通勤途上にある樹木公園に寄ろうと思ったが、休日の公園には、誰もが考えることは似ているようで何台もの車が停まっていた。それではと人ごみをさけて、段丘状になった農道を上がってみた。だれもいないほ場に春の匂いをはらんだ冷たい風が吹いていた。車からクッションやダウンを出して広いあぜ道に寝転んだ。ただぼーっと空を見上げた。なんと言うこともないけれど、幸せなひとときだ。

 人は自ら、いろんな枠組みを設けて、その中で生きているようだ。それは趣味の問題だと言った、ランディさんの言葉をまた思い出す。ぼくの生き方の趣味はどんなだろうか。なるべく枠を取っ払って、自由に暮らしていたい、という枠組みを作っているような気がした。



 このところ、ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパンのファシリテーターの資質を高めるために更新制を取り入れようという話をしている。ぼくはいの一番に異議を唱えた。なぜ更新制に反論するのかと、自分の気持ちをさぐってみた。なんらかのルールや基準を設けてその中に自分自身を閉じ込めてしまいたくないのだと、結局そんなところのようだ。

 ぼくはこのプロジェクトがNPOの認可を受けてもメンバーには加わらなかった。どんなものでも組織の一員になることは好みじゃないのだ。そのことに気づいたら、更新制に異議を唱える資格のないことにも気づいた。肝腎のその枠組みの中には入っていないのだった。空を見上げていると、人間は枠組みがないと生きられない生き物なんだろうかと、また不思議に思った。家庭にも会社にも、学校にも社会にも、ルールは必要だろう。そしてそのルールの中で安定や憩いを求めているのだろう。だがそのことと空は、なんの関係もないことだった。

 ある人は、苦しみは必要だという。苦しみがあったから成長できたという。きっとそれも趣味の問題かもしれない。人は、苦しまなければならない生き物ではないだろう。一生涯、のほほんと暮らして構わないのだ。成長は喜びの中にもあるし、成長しなければならないというわけでもない。すべては趣味の問題だ。空を見上げていると、どうしてもそんな気持ちになってしまう。



| 13:47 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
赦しの城
 たとえばマザー・テレサのような生き方と自分を比べてとても真似ができないと思ってしまうけれど、それについて『神の使者』は「真の祈りと豊かさ」の項で言う。

 きみの赦しは献身の証しだ。

 もしもそれが本当のことで、日常の小さな赦しが世界への献身的な奉仕だとしたら、コツコツと積み上げて行けないだろうか。やがて赦しの城ができあがる。






| 23:07 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
儚い縁し
  
  初雪
       大木 実


 十二月九日
 小雪が降った
 ことしは六日早かった

 私は去年の日記を読んでいた
 十三日 妻病む
 十四日 終日風強く寒し
 十五日 初雪降る 積もらず
 十六日 妻入院す
 十七日 召集令状を受く 夕方ひとり飲む
 十八日 妻を見舞う 告げず
 十九日 告げず
 ―― 
 ――


 私達は家をもち三月と経っていなかった
 飯ごとのように短く
 儚ない私達の縁しであったが
 私は感謝する 目を閉じて
 私は感謝する

 初雪は
 ことしも僅かに降り
 積もらず消えた



 人生で男と女が出会い、やがて結婚し、暮らし、別れてゆく。人の定めというものか。出会ったものは、いつか必ず別れてゆく。その間に演じる数々のドラマ。見つめあい、泣いて、笑って、悲しんで、喜んで、ぼくならよく怒って、そうしてやっぱり別れてゆくのか。なんと切なく、哀しいものだ。だから、ほんとうに、感謝したくなるのだろうか。暮らした日々が、初雪のように消えてゆく。





| 10:05 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
迫害され得ない者
 「攻撃はつまるところ身体にだけ行われ得る。ある身体がべつの身体を攻撃し破壊さえする場合があることにほとんど疑いがない。しかし破壊そのものが不可能なら、壊れ得るものが現実のはずはない。破壊が怒りを正当化することもない。正当化できると思えば、間違った前提を受け入れ、それを他者に教えることになる。磔刑が教えようとしたメッセージは、どんな攻撃のかたちの迫害であれ、それを感じ取る必要はない、なぜならあなたは迫害され得ない者だから。もし怒りで対応するなら、あなたは自分を壊れ得る者と同一視することになり、自分に狂った目を向けることになる」。(『神の使者』より)

 磔の刑に処され復活したイエスの言葉だそうだ。凄まじい。ぼくには想像もつかない。そして誰もがこの身体を自分だと思っているかぎりは、けして到達できない境地だ。だから、この地上から争いごとは消えることがない。


 なにかを感じている今、この感じている主体とはいったい誰なんだろう。それはけしてこの身体ではない。なんとなくでも、そうなんだろうと思う。身体は確かに、いつか必ず消えてしまうものだ。破壊が可能なものだ。だが、感じているこの主体が破壊され得ないものだとしたら、そしてそれを本当に信頼するなら、ぼくのなにが変わるだろうか。

 インターネットにガザの惨状が流れていた。凄まじいばかりだ。破壊されてしまった少女の土色の顔が地面に転がっていた。少女の、破壊され得ないものは、今どうしているんだろう。少女の尊厳に価する主体はけして迫害され得ないものだと、ぼくは信じたい。いや、信じる。そうでなければ、この世界に生きる価値など、だれにもありはしない。赦すとは、対象の程度にあるのではなさそうだ。きっとひとりひとりの、だからこのぼくの、けして破壊されることのないどこかから生まれてくるものだ。それをぼくは産み出したい。きっと、産み出そう。





| 12:04 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
赦す
 世界に紛争や戦争が絶えない。いつの時代から人間はそうやって闘ってきたんだろう。いつまでそうやって闘いつづけるんだろう。荒んだ世相を見て聞いて、何もできないくせにぼくは憤りを感じつづけてきた。そしてそんな時はいつも決まって、自分の中の悪を省みた。

 『神の使者』には、無意識の罪悪感という言葉が何度も出てくる。ひと言聞いただけでそれがどういうものか見当がつくだろうか。生まれながらにして人が持っているという罪悪感だそうだ。しかもだれもが持っている。具合の悪いことに、無意識の中にあるのだから、持っていることに気づかない。気づかないが、自分の何かがそれを知っていて罪悪感を忘れ遠ざけたいがために、自分以外の存在を批判、中傷、攻撃することでその肩代わりをしているのだという。

 ぼくの心の中は、実は批判だらけだ。だがそれは自分自身を批判していることの裏返しということになる。これも無意識の罪悪感が働いてのことだと観念するなら、また同じように他を批判することができるだろうか。自分を批判しつづけるなんて、想像するだけで恐くなる。

 この古代からありそうな人類の罪悪感からどうやって逃れたらいいのだろうか。『神の使者』は言う。唯一の方法は、赦しだと。

 たとえば、戦争をしかける一部の者を赦すということだ。そんなことができるだろうか。だが、自分の外にあるものを赦すということは、自分を赦すということと同じだと言っている。


 問題を取り上げ批判すると、批判する者も問題の一部になり、問題そのものに力を与えてしまうと聞いたことがある。事の大小に関係なくこの同じ法則が成り立つのなら、世界がその昔からずっと変われないのは、仕方のないことかもしれない。情報化社会の今は即座に茶の間で悲惨な報道にふれ、世界は一応に批難の目を向け、対策を講じようとする。それが問題をより確かなものにしてしまうという図式だ。

 どこかで赦すという行為が必要なのだとしたら、どこにあるべきか。ひとりひとりの人間になら、それができるんじゃないだろうか。などと簡単に言ってしまえるはずがない。このぼく自身が赦していなかったのだから。

 世界と個人はけして別のものじゃない。『神の使者』にはもうひとつ大きなテーマがある。この世のすべてが、宇宙までもが幻想だという。世界も個人も,同じく幻想なのだ。だから赦せるのだ、と言っている。

 本を読んだぐらいで、何が変わるものでもない。けれども、変わろうと動き出すことならできるかも知れない。周りを赦し、自分を赦し、ひとつひとつ赦していく努力ならできるかも知れない。

 赦すということを、意識的に始めてみようと思う。罪を背負って生まれてきたのなら、その自分自身をまず赦していこうと思う。簡単なことじゃないことぐらい、いくらのぼくにもわかる。けれども、戦いで罪もない子らが死んで行くのはもう沢山だ。それに比べたら、自分を赦すことぐらい、できないことではないだろう。



| 22:42 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
視座
 夕食のテーブルに残っていたコーヒーを飲んだせいか、眠れないという、ぼくには珍しい夜を過ごした。咳は止まらないし、体はだるいし、こんな時ときどき耳にする浄化というやつでもしているんだろう。それにしても最近はよく風邪を引く。野口晴哉『風邪の効用』だ。また新しいぼくになろうとする、心身の自動調整とでも思えばいい。

 眠れない夜には、背骨揺らしなどたっぷりとした。ふとんに潜りこんで、整理整頓のつづきも感じていた。すると、誤解、という言葉が浮かんできた。そうか、ぼくはぼくの目と耳で物事を捉え、話を聞いて読んでいる。素になって、人に物に向き合っていないかもしれない。いろんなところで自分流のアレンジをして理解している。それは理解ではなく、誤解と言っても良さそうだ。


 解釈は自由だが、あるものをあるままに見ることはとても大切だ。だが、あるままとは、なんだろうか。あるままに見るためにも、見る主体の目があるわけで、視点視座を持たない目があるものをあるままに見ることはできるだろうか。あるままとは、目に映るままということではない。視座から見たまま。それをどう感じているか。そこから見えてくるものが、あるままだ。

 などどまたややこしいことを思うものだから、ますます眠れなくなった。

 自分のフィルターでもある目を、ぼくはどこまで透明に保っているだろうか。目の濁りは、フィルターや視座とはまた違う要素だ。

 などど思っているうちに、どうやらしばらく寝たようだ。

 ややこしい夜だったが、こんなふうに自分を詳しく見ようとすると、いくらか整理整頓ができてきた。ぼくという人間がどんなに発展途上人かと、少なくともそれがよくわかった。自分で自分を理解することができるならそれに越したことはないだろう。だが自分を変えようともがき苦しむことは、もうたくさんだ。今の自分をただひたすらに透明に近づけよう。それで十分だ。透明になるとは、理解することだ。誤解は無用だ。

 誤解することなくあるものをあるままに見ることと、自分の視座を持つことは矛盾しているだろうか。まだよくわからないけれど、ぼくは同じことに思えてならない。視座があってはじめて見えるのだから。

 眠れなかった割には、なぜか頭はすっきりしている。不思議なもんだ。いつもどこまでも、整理整頓しながら歩いて行こう。




| 08:40 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
整理整頓
 気持ちが不安定になり出したら、ヴァーチューズカードを引く。自分を離れて見るいい方法になりそうだ。風呂前に引いたカードは、「整理整頓」だった。風呂に入ってゆっくりとその言葉を噛みしめた。

 「整理整頓とは、きちんとしていて調和のとれた生活をしていることです。物が上手にまとめられていて、必要な物はすぐに見つけることができます。整理整頓されていると、労力を無駄にすることなく、着実に問題を解決することができます。周囲が整理整頓されていると、あなたの内面にも秩序が生まれます。心にやすらぎが生まれます」。

 ぼくの仕事場などは乱雑を通り越して、足の踏み場もないことがよくある。掃除はヨシエどん任せだし、そのヨシエどんも手をつけられない箇所がいくつもある。それと同じことが、ぼくの心の中でも起きているのだと気づいた。


 ぬるい湯に浸かっていると、カシミールに滞在したときのナギーンレイクを思い出した。嵐の晩でも湖面はとても静かだった。ぼくはそのとき思ったものだ。人の核心にもこんなに穏やかな湖がある。どんなに荒れ狂う社会に放り出されても、その穏やかさはけして変わらない。そんな核心があることに気づいていればいいのだと。

 核心は確かにある。目を閉じるまでもなく深呼吸をひとつすれば、瞬間に心の穏やかな部分にたどりつける。よし、これが最初の整理整頓だ。

 核心は持っているけれど、ぼくの心は千路に乱れもする。批判、比較、妬み、甘え、執着、などなど。あらゆる乱れ方をしながら、それが大半を占めている。そんな心の形態なんだと知っているというのはどうだろう。それが整理整頓のふたつ目だ。

 カードの言葉にある「内面にも秩序が生まれます」というのは、なにも心が好ましいもので埋め尽くされることではないようだ。きちんと整理整頓されていればいい。問題の渦中にあって何がなんだかわからなくなっている時でさえ、穏やかな核心があることに気づけるなら、それが秩序ある状態ということではないのか。すると「やすらぎが生まれる」。ぬるい湯が、体にも心にもますます優しく感じられた。

 明日はひとつ、仕事場の整理整頓もしてみよう。また何かいいヒントに出会うかもしれない。

 

| 22:18 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
「待つ」ということ
 朋が日記に鷲田清一さんの著書『「待つ」ということ』を紹介していた。 長くなるが、その「まえがき」をここにも転記する。とても興味深い内容だった。


  ・・・*・・・*・・・*・・・


 待たなくてよい社会になった。
 待つことができない社会になった。
 待ち遠しくて、待ちかまえ、待ち伏せて、待ちあぐねて、とうとう待ちぼうけ。待ちこがれ、待ちわびて、待ちかね、待ちきれなくて、待ちくたびれ、待ち明かして、ついに待ちぼうけ。待てど暮らせど、待ち人来たらず・・・・・。だれもが密かに隠しもってきたはずの「待つ」という痛恨の想いも、じわりじわり漂白されつつある。
 携帯電話をこの国に住む半数以上のひとが持つようになって、たとえば待ち合わせのかたちが変わった。待ち合わせに遅れそうなら、待ち合わせの時刻のちょっと前に移動先から連絡を入れる。電話を受けたほうは、「じゃあ」と、別の用を先に片づけたり、ふとできた空白の時間を買い物や本探しやぶらぶら歩きに充てたりできる。待ち時間のすきまに、コーヒーを飲みながら、ぼんやり街ゆくひとを眺めていることもできる。待ち人は苛立つこともなく、待つとはなしに時間を潰せるようになった。
 我が子の誕生ですら、おそるおそる待つことはない。母体に超音波を当てて、やがて生まれてくる子どもの性を知る。顔もほのかに判る。遺伝子まで判る。出生をじりじりと待つこともなく、先にいろいろ手を打てる。産着の準備、そして心の準備・・・・・。
 ものを長い眼で見る余裕がなくなったと言ってもいい。仕事場では、短い期間に「成果」を出すことが要求される。どんな組織も、中期計画、年度計画、そしてそれぞれに数値目標掲げ、その達成度を測らないといけない。考古学や古代文献学をはじめ、人類文明数千年の歴史の研究だって、数年単位で目標を立て、自己点検をし、外部評価を受けねばならなくなった。外食産業やコンビニの出店・閉店のリズムもとにかく速い。見切りが速くなり、待ってもらえなくなった。「ふるさと」のたたずまいも、いつもあるものではなく、帰郷のたびに表情を変えている。
 待つことができなくなったのはなにも組織だけじゃない。たとえばパソコンの操作。新しい機種を知ってしまうと、ちょっと古い型のコンピュータの変換操作を待っていられない。数秒の間がじれったくなり、指が机を叩き、脚が小刻みに震えだす。テレビのコマーシャルも、辛抱できるのはせいぜい十数秒。テレビが出たての頃は、風邪薬のコマーシャル・ソングもなんと三番まで歌っていた。いま流れるのは一曲のさびの部分だけだ。そしてなによりも、子どもが何かにぶち当たっては失敗し、泣きわめいては気を取りなおし、紆余曲折、右往左往したはてに、気がついたらそれなりに育っていたというような、そんな悠長な時間など待てるひとはいなくなっている。高齢者の介護も、そう。はてしないそのプロセスのなかで「まあ、しゃあないなあ、えろう世話にもなったし、おたがいさまやし・・・・・」とついに覚悟を決めるより先に、解決のための方策をさぐっている。「いよいよか・・・・」と血相を変えて。
 かつて「待つ」ことはありふれたことだった。一時間に一台しか来ない列車を待つ、数日後のラブレターの返事を待つ、果物の熟成を待つ、酒の発酵を待つ、相手が自身で気づくまで待つ、謹慎処分が解けるのを待つ、刑期明けを待つ、決定的現場を押さえるために待ち伏せる(かつて容疑者を追って、同じホテルに一年間張り込んだ刑事がいた)。万葉集や古今和歌集をはじめ、待ち遠しさを歌うことが定番であるような歌謡の手管があった。待ちこがれつつ時間潰しをすること、期待しながら不安を抱くこと、そんな背反する想いが「文化」というかたちへと醸成された。喫茶店はそんな「待ち合い」の場所だった。農民や漁師、そしてウエイター(まさに「待ち人」)といった「待つ」ことが仕事であるような職業があった。相撲でも囲碁でも「待った」できないという強迫がひとを苛んだ・・・・・。そんな光景もわたしたちの視野から外れつつある。
 みみっちいほど、せっかちになったのだろうか・・・・・。
 せっかちは、息せききって現在を駆り、未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、じつは未来を視野に入れていない。未来というものの訪れを待ち受けるということがなく、いったん決めたものの枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。待つというより迎えにゆくのだが、迎えようとしているのは未来ではない。ちょっと前に決めたことの結末である。決めたときに視野になかったものは、最期まで視野に入らない。頑なであり、不寛容でもある。やりなおしとか修正を頑として認めない。結果が出なければ、すぐに別のひと、別のやり方で、というわけだ。待つことは法外にむずかしくなった。
 「待たない社会」、そして「待てない社会」。
 意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを超えたものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか・・。


  ・・・*・・・*・・・*・・・



 朋の日記を読んで、忘れていた思い出が蘇ってきた。その昔、ヨシエどんとつき合いはじめたころ待ちぼうけをくらったことがある。雪の降りしきる冬の午後だった。近代文学館の赤レンガの壁に寄り添いながら、することがないから歌を歌い、寒いから足踏みをし手を擦り、そのうち大声で名前を呼んだ。「ばかやろお、ちきしょう」。まっ白な視界に向かって何度も叫んだ。誰も歩いていなかったか、それとも雪で誰も見えなかったのだ。早く来いよとつぶやきながら、でも必ず来ることをぼくは疑わなかった。

 けれどもぼくは今、待てる人だろうか。待つことがほんとうに難しい社会になってしまった。否、社会はこの際、どうでもいい。ぼくの話だ。社会がそうだからと、ぼくがそれに従うことはない。

 待ってやれない対象の最大のものが身近にいた。自分自身だ。時折心が感じている焦りのようなものに気づきながら、ぼくはそれに従うばかりだったかもしれない。考えてみれば、焦ることはなにひとつなかったのだ。いつもなるようになってきた。ならないことは、なにひとつなかった。だったら、なぜ自分を待てないのだ。その場に引き止めて、今というこの瞬間に静かに佇むことがなぜ難しくなっているのだ。自分を待つ、という意識がなかったからだ。何かを待つというのは、待っている自分をも待つということか。

 思えば、誰もが死を待っている。光のふるさとを志向して、それを楽しみに待つ人さえいるかもしれない。待ち方はそれぞれでも、待っていることにだれひとり違いはない。死が待てて、ほかのものを待てないということがあるだろうか。待つことを、これからはもっと深く感じてみたい。

 息せき切ってヨシエどんが走ってきたのは、三時間以上も経ってからのことだった。「きっと待っててくれると思ってた」。その言葉がぼくの心をあったかくしたのを、今でもはっきりと覚えている。

 待つことは、実はとても豊かなことかもしれない。「待った甲斐があった」と言うときの、その甲斐とはなんのことだろうか。待つほど値打ちのあるものに、ぼくたちは本当は囲まれているはずだ。待っている間にいろんな感情がわき上がるものだが、それらひとつひとつが、待っている対象に対する愛のようなものだ。待つということは、愛しているということかもしれない。




| 09:26 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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