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2013.05.22 Wednesday
石川県中央公園にて
金沢市内の中心部にあって憩いの場になっていた中央公園の改修工事をめぐり、庶民と県の間で押し問答が繰り返されている。園内の45本の木々が切り倒され、都会でよく見かけるようなイベント仕様の広場に様変わりしてしまう。たかが木だろうか、否、保守的でおとなしい石川の庶民がめずらしく立ち上がっている。二年前のあの三月以来、おそらく日本の多くの庶民が目覚めたのだ。絆だ復興だと声高に叫ぶばかりで相変わらず前例に囚われる政治や行政のお粗末な有り様を、庶民は痛いほどに知ってしまった。
工事二日目の公園に出かけた。この手の現場は好みじゃない(好む人など滅多にいないだろうが)。有志で作る守る会の代表らと県の担当者が立入りを拒むフェンスの傍らで話し合っていた。表向き紳士的なやりとりだったが、こういう場合の話はいつも平行線をたどるばかりだ。計画を変えることなどあり得ない立場と、それを薄々感じながらも撤回を望む立場と。どれほど向き合っていたものか、解散した直後に工事は再開され、一時間あまりの間に数本が伐採された。
現場にいて撮りながらただ様子を見守ることしかできなかった。チェンソーのうなり声が聞こえると、女が泣き叫び、数人から罵声が飛んだ。子どもを抱いたおかあさんが木への手紙だと言って担当官に手渡した。上の子が書いたものだそうだ。それぞれが思いの丈をぶつけている。無表情に立ち尽くしている県の職員は家に帰ればよき父親でもあるだろう。人間とは実に奇妙な生き物だ。組織に属している者は、個の意思を曲げてでも組織の論理でしか動けない。その暗黙のルールから外れることは自らの生活基盤を失うことでもある。
知事をはじめ石川県は、この事態をどう見ているだろう。このまま押し切って済ませるに違いないが、将来に残る禍根は大きいかも知れない。一連の動きを地元の一紙だけが取り上げていない。庶民の知らない所にいったいどんな動きがあるのか、訝しむ声が上がっても仕方のないことだろう。北陸中日新聞の報道で明るみになって以来、知事の発言は一切ない。まるで城の中の殿様然としている。放射能汚染に苛まれる福島然り、沖縄の基地問題然り、行政は庶民とかけ離れたままだ。これが公園などでなく、たとえば戦争にまつわることだとしても、このままではお上からの一方的な押しつけがまたまかり通ってしまう。
木にも目があるなら、見下ろす人の存在などどんなに小さなものだろう。人は触れるほどに向き合いながら、互いの声の中身は届かない。せめて木のように風をはらんで遠くの未来を見やる目を、戸惑っても迷っても、忘れない生き方が必要になる。
石川県中央公園にて
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2013.05.18 Saturday
「場」
佐伯さんが書いていた「場」の話を読んで、これまでもやもやとたれ込めていた心の中の有毒ガスのようなものがついに晴れて行くのかも知れないと感じている。気功に親しんでちょうど二十年、「場」については練功を通していくらかでも自分の感覚として捉えているつもりだったが、こうして理論として、さらには理念にまで発展することができることに、静かに深い感動を覚える。
福島の子どもたちを応援するキャンプは、唐突に思い立って始めた。すっかりご無沙汰していた知人に声を掛け、あっという間に当時の仲間が集まり任意団体として組織化、一年も経たないうちに市民ばかりか遠方からもスタッフとして有志が駆けつけるひとつの「場」に育っている。
日本の緊急事態だからその気持ちのある人が集まり場を創るのは当然の流れだろうと、取り立てて不思議とは思わないけれど、育つ力はその「場」にこそあることを痛感している。誰かひとりの存在が際立つこともなく、かと言って誰ひとり力なくその場に佇んでいるわけでもない。強制されることも教え込まれることもないのに、個が自ずと動いて場を創り、その場がさらに場を生み続けている。まさに有志の有機的な連携プレーだろうか。
同じ福島を応援する動きにも様々な形態がある。たとえば脱原発なりのデモ、国などに要望を提出することなどもそのひとつで、その必要性は十分に感じているつもりなのに、自分のこととして参加する気持ちにはなぜかいつもなれなかったし、たぶんこれからもならないだろう。凝り固まったベクトルを感じる場や、個が埋没して息が詰まるような場には体が拒否反応を起こしてしまう。息が詰まれば大声を上げて発散する必要がある。それはそれで体験してみたい気もするが、生き物としての人間が個を大切にするとしたら、同じ方向に向け闇雲に直線的な反発の規模を拡大して行く場より、様々な個が活かされ四方八方に波紋のように広がる場こそ必要なのではないだろうか。生きることは闘いではなく創造だと、こればかりは思い込んでいたい。
これまで個人的な好みでしかないだろうと思っていたこの思いは、「場」を感じる固有の野生または本能が成すものではなかったのか。そう思えるなら、感じた「場」でこそ己を活かすことができるだろう。活かすために個に執着するのではない。活かさなければ個の存在価値を全うしているとは言えないからだ。
そして思う。夫婦などの関係も、場として捉える方が非常にわかりやすい。出会った頃は愛だと思っている熱い思いに酔いしれて、これが結ばれていることだと思い込み、年月と共にそれらのすべてが色あせて行く。お前が愛してくれるなら俺も愛する、みたいなタイプのこの夫は、三十五年にもなる結婚生活にこの頃あまり気が向かないで戸惑っている。この関係を維持するだけなら、とてもじゃないが魅力を感じない。だが、これは妻と夫が老いながらも創り続けることができる「場」として、当初から変わらずにあるものだった。
条件付きの愛でなく無条件の愛こそ愛なのだ、というような生を感じない言葉で心を整理整頓したところで、生きている実感が伴わなければ決して長続きはしない。心を無理矢理一定方向に差し向けることなど、人には至難の技だ。縮んだり広がったりする心を持った人間は、愛などという曖昧なものではなく、かかわる「場」こそ意識すべきかもしれない。関係を維持する努力ではなく、「場」が創る関係を味わう程度が心地よいのかも知れない。
どの「場」にかかわり、その「場」にどうかかわるのかという選択が、いつも個に任されている。これは考えて選ぶというより、感じる野生の力を必要としている。生き物として鈍化してしまった感覚を取り戻さないかぎり、個としての己を活かすことなど到底叶わないだろう。むしろ「場」を選ぶより、呼んでいる「場」を認める。場もまた常に変容し続けている。動かなければ個としての己など埋もれて行くばかりだ。埋もれることもまた、この個の好みではあるけれど。
生命学ではなく、生命関係学
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