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2013.02.21 Thursday
無表情な歯医医院
日本人には表情がないという話を時々耳にする。その内のひとりとして無表情に大きく頷いてしまう。しかし、それが何だというのだろう。表情は、豊かなことにも乏しいことにも、それぞれに味があるのだ。
一度強烈に胸苦しくなった時でさえ医者にかからなかった者が、なぜか無視できなくて歯医者にだけは通ってしまう。妻が薦めてくれた近所の歯科医院で確かに腕は良さそうだが、これがまた感心してしまうほどに無表情なスタッフばかりが揃っている。そろそろ四十に手が届くかという医者の、それは指導によるものか、受付嬢も衛生士もとにかく数人の女性スタッフがちらとも微笑まずまるでロボットかサイボーグのようにして、常にゆったりめの一定の速度で動いている。問いかけて来る言葉も同じトーンで抑揚がない。はじめの頃はこの無味無臭な人々の表情を変えることに楽しみを見出していた。(おお、一応は笑うのか)。それがわかってホッとする自分の気持ちがおかしかった。なぜ人の無表情まで気にしなければならないのか。今は同じように無表情に答えて帰ってくることが多くなったが、無表情だからこそ気になるということが確かにありそうだ。人は互いの表情を伺いながら言葉を交わさずとも察し合っているつもりでいるのか、その表情が見えないと戸惑うことになるのだろう。ようするに無表情では不安で困るのだ。
無表情は何も感じていないだろうか、笑っているから心は踊っているか、涙が流れたらそれで感動か。一概に括れる話ではないだろう。外に出ている表情と内面の動きは決して決まった関係にはないのだ。近ごろは笑いは健康の元だと意識的に笑う人がいれば、まるで役者のように簡単に泣けてくる人もいる。心は表情で表すことができるが、それが自然にわき上がったものかどうか、表情から読み取るなどあまりに短絡な気がして疑わしい。その点、無表情にこそ味がある。無表情という表情があるかぎり、表情はすべての心を示してはいない。固く閉ざされた表情の奥深くで、感情が燃えるようにたぎっていることもあり得るのだ。それを人間の深さと言ってもいいような気がするくらいだ。今もそうなのか、場の空気を読めない人を小馬鹿にする風潮があった。それも所詮、空気も表情も読める程度の話でしかない。
笑顔は単純に美しい。涙もはじめは動揺を誘う。そして無表情にも、得体の知れない味がある。無表情の機微を知らないで、いったいなんの人間か。あの歯医者の人々のそれをまだ味わえないではいるけれど。
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2013.02.20 Wednesday
瞳
子どもの目だから透き通っているのではないと思う。まだ幼かった彼の目を見るにつけ、いつもそれを感じた。混ざりけがなく、まっすぐに見つめていた。つぶらな瞳という形容がとてもよく似合っていた。人間は忘れるからこそ生きてもいられるが、忘れない方が好ましいものもおそらくあったにちがいない。その目がいつもそう教えていた。いったい何を忘れてしまったのか。
四人の孫がいる。それぞれに、愛おしい。そして孫よりもなお、この頃は彼らを産んだ娘たちや懸命に生きようと足掻く息子が愛おしい。忘れ去ってしまったものは今さらどうしようもないけれど、子や孫がいる。彼らが見ているものを想像してみるというのはどうだろうか。老いながらでも、いくらかは透明度を恢復した瞳を持つことができるかもしれない。
写真を撮る上で不可欠な要素をあげるなら、少なくともマスノマサヒロとしては、まずはこの瞳か。瞳が濁っていたのでは話にならない。内なる心象に有象無象がどんなに入り乱れていようとも、この目に色眼鏡やフィルターを取り付けるわけには行かない。それでは対象を見つめたことには決してならないだろう。さらには五感で獲得した材料をもとに考えるという力が必要だ。あるがままを見つめる視点を固持するためには、対象の何があるがままであるのかと察知する洞察力、またはあまり好きな言葉ではないけれど、感受性とか知性とか。それらを濁りなきままに、一流と言われる写真家たちは気負わずに天性のものとして持ち続けているにちがいない。
幼い孫たちが少しずつ歪んで行く日常を想像できる。若い親たちの悩みながらの子育ても、すでに経験済みだからよく理解できる。だからと言って、濁る必要はないのだ。世の中には、辛酸をなめながら生き続けることで瞳は濁るものだと思われている節がある。それがおとなになることだと、ほとんどのおとなが思っているだろう。だが本当にそうだろうかと、いつも疑う目を持たなければ人生は惰性に陥ってしまう。濁りはたぶん、諦めることで麻痺することで成立してしまう症状なのだ。
彼の名は、太宇と書いて、たうと呼ぶ。はじめて聞いたときはなんと妙な名前だと呆れてしまったが、今では、そのままで宇宙を感じさせてくれるからか、とても気に入っている。つづく孫たちの名がまたいい。明空(みく)、弥天(みあ)。次女の子は、花音(かのん)。どれにも広がりを感じる。と、ここまで書いて、もしかすると広がりなのではないのかと思い出した。忘れていたもののひとつは。
遠く広く、しかも深く見つめようとする目。どうやらそれが彼の瞳に感じたものだった。人は、生きて耐えながら、実はその目をさらに磨くことができる生き物ではないのか。あらゆる経験はそのためにあってもいいだろう。
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17:32
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日々のカケラ
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2013.02.05 Tuesday
南相馬へ
南相馬の山あいに住んでいる上條大輔さんに会いに出かけた。五月の連休に知的障がいのある子どもたちを対象とした保養キャンプを金沢で開く計画で、その打ち合わせを兼ねていた。上條さんは何人かの近隣の障がい児を受け入れる施設を建て、いよいよ運営開始という矢先に震災と原発事故に遭ってしまった。
この小さな旅に同行したのは、今ではすっかり同志となった河崎仁志さんと通信大学生の一柳友広くん。三人の間には福島の子どもたち招いて開く「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」がある。河崎さんは事務局長、一柳くんは子どもたちと過ごすリーダー、これまで自分のことしか考えてこなかったこのジジイが柄にもなく代表というわけだ。南相馬への途上に浮かんできたのは、仕事でも観光でもないこの旅の不思議さだった。目的は明確、だれに言われたわけでもないのにみんな自らの意思で行動している。それが不思議だった。生き方は趣味だと言った作家がいる。福島にかかわろうとする思いもまた、趣味なんだろうか。その程度の気楽さがいい。
上條さんは笑うでもなく、かと言って無表情なわけでもなく、意思のあるまなざしで出迎えてくれた。いくらか強引な印象はあるけれど、人を惹きつけるものを持っている。
施設のある敷地は小山を切り開いた感じで田舎の小学校の運動場ほどもあった。ブルーシートに包まれた片隅の風景が目にとまった。これが除染のあとだろうと、すぐに理解できた。生い茂る杉林や葉を落とした樹々を眺めていると、汚染土を入れた大きな袋や小山の風景はなんとも異様だった。除染は莫大な費用をかける割には効果が薄いという話を聞く。実際に現場に立つと、まさにそうとしか思えなかった。居住空間を徹底して除染できたとしても、広大な山野はとてもじゃないが難しいだろう。誰が見ても明らかな話だ。
上條さんとのご縁は、森林組合という同じ仕事を持つ河崎さんからだった。二人ともツリークライミングの指導者で、フィールドでの活動を得意としている。豪放磊落という形容がよく似合う。その上條さんが昼飯の蕎麦を食べながら言った言葉に、少なからずショックを受けた。
「はじめはね、放射能のこともしっかり勉強して、いろいろ発言してきたんですよ。でもねえ、もうどうしようもない」と、動かし難い世の中に疲れ果てているようだった。たかだか一二日南相馬の周辺を案内してもらっただけでは、上條さんのこの二年の思いはどれほどもわからないだろうが、福島のいったい何が改善されたというのか、悩ましいことばかりの実情だけはよくわかった。復旧を宣言した当時の首相の言葉のなんと空々しいことか。これは自然災害でも戦争による被害でもない。日本人自らがしでかした人災が、これから何十何百年と影響し続ける一国の危機だった。
夜は二晩とも薪ストーブの上に置いた鍋を囲んだ。酒も手伝い話が弾んで、スーパーで仕入れたレトルトの出汁と具が実に旨かった。これは安いと、上條さんは福島産ばかりを買っていた。若い一柳くんが食べてもいいものか、言葉にすることは止めたけれど、福島に住むということは常に選択し続けなければならないことを痛感した。食事はもちろん、言葉のひとつ、どんなに小さな行動さえも。だがそれは福島だから、だろうか。
日常が当たり前のようにあることが決して当たり前ではなかったことを、あのすべてを呑み込んだ大津波を目の当たりにして誰もが知った、はずだ。その事実に立ち返れば、今をどう呼吸すべきか、選んだ方がいいにちがいない。何をどう感じて、どう考えるのか。それを行動するのかしないのか。南相馬での数日はため息ばかりが多かったけれど、今また新たな思いもかき立ててくれた。
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