kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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キャンプから広がるもの





「冬のぬくもりキッズキャンプ」のスタッフの打ち上げをしました。総勢40人以上もの方が応援してくれたキャンプですから打ち上げもさぞかしにぎやかなものになるだろうと想像していましたが、参加は実行委員の6人とスタッフ6人だけというつつましやかなものとなりました。7時開会、お開きは12時すぎ。おかげでゆっくりと向き合って話し合うこともできました。

スタッフ6人のうち学生が4人も参加してくれました。福島の子どもたちから届いた年賀状の披露もあったりして、しばらくは続きそうな交流の予感に大満足です。

キャンプは、ただ気ままに遊んでいるだけのようで、実はその後も想像以上に豊かな贈り物をかかわった人それぞれに届けているんだと感じます。それはぼくの私的な経験からでもわかります。そんな話をみんなにも聞いてもらいました。

一応はこれでもぼくは写真家を目指しています。キャンプの準備や開催に仲間たちと毎日のように動いていると、その気持ちからどんどん離れていくようで迷いが生まれていました。限られた残りの日々に本当にしたいことをしなければという、焦りのような落ち着かない気持ちにもなっていました。

ところがどうでしょうか。大事にしようと決めたキャンプと、撮りたい写真の世界が急激に接近するのを感じます。キャンプをしようと思い出してそろそろ一年になろうとするいま、なんの予感もなかった新しい環境に自分を置こうとしています。自らの意思で動いていたようで、実はそうではなかったのかもしれません。目の前にあるものに打ち込むとき、いつもなんらかのはからいがあるような気がするほどです。

この春から働き出したり“就活”を迎える学生の前途にも、おなじようにそのはからいがあるだろうと思います。はからいは、キャンプという “場” が創り出しているのだと、この一年で強く感じるようになりました。

福島の子どもたちを応援しながら、地域づくりにもつながればいいと思っています。地域とはなんでしょうか。土地、町、身近な自然、暮らし、商店、家族、隣近所、ネットワークなどなど既存のいろんな要素が浮かんできます。そんな中で地域にとってもっとも必要なものは、求めて来た便利さや豊かさにまぎれて見失いがちになりますが、そこに住む人間そのものではないでしょうか。人間が創り出すもの、地域もそのひとつだと思います。

キャンプは、参加する子どもたちだけでなく、応援する若者にも、限りない恩恵を与えてくれるだろうと思うのです。なんと言っても名ばかりのこの代表でさえ、少しずつ少しずつ明らかに変容していくのがわかるんですから。

































| 16:05 | ひかりっ子 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
いのちの ささやかな ふれあい





保養プログラムと呼ばれる福島の子どもたちと過ごすキャンプを実際に開いてみて感じるのは、保養という冠などすぐに外していることです。大した言葉を交わすでもなく体をぶつけ合って戯れていると、どんなに生意気なやつでも孫ほどの世代になる子らが愛おしくてしようがなくなるのです。そろそろ還暦を迎えようかというジジイの中に散乱している子どもの頃のカケラが目を覚ますんでしょうか。保養なのだとしたら、半分はかかわるおとなのためのものだったりするのかもしれません。

このコラムの最後で鷲田清一さんは「東日本の大津波と原発事故からもうすぐ二年。震災後しばらくは、多くの人たちが被災地の人たちを思いを、その体感ごと必死で想像しようとした。ありふれた当たり前の日常を、ひとつの僥倖として受けとめなおした。幼いいのちの未来をつよく感じた」と書きながら、今はどうかと暗に問いかけています。でもこの一文を読んだからといって、それではまた思い出しましょうとは行かないでしょう。どんなに大きな出来事があったとしても、思うだけでは決して続かないのです。それが人間なのではと思います。忘れるからまた生きて行けもします。

でもここに登場する言葉少ない女子高生と幼子の体ごとのふれあいを読みながら、もうこれで彼女は決して忘れないだろうと思いました。体で感じたものは、その感触ぬくもり、寝息や吐息まで、なんとなれば意識的に蘇らせることもできます。

やっぱりこれは保養プログラムではないのです。福島の子どもたちの笑顔と元気を応援しよう、などと声を掛けてみたところで思ったほどに広がらなかったわけです。スタッフとして集まった仲間たちはおおむね自然や子どもが大好きで、それに福島や東北の応援がしたかったという思いが重なったようです。そして実際に出会ってしまったのです。出会うと、忘れることができなくなりました。

出会い、感じるという経験を現代人はいったいどれほど自分のものとしているでしょうか。毎日のように人は出会いながら、出会った人になにを感じているでしょうか。感じたものをその後も忘れずにいるでしょうか。それはいつまでも大事に心に留めておきたくなるものでしょうか。

ここまでの人生を振り返ると、本当に出会ったと思える人の数など片手ほどしかありません。それが多いのか少ないのかわかりませんが、もしかすると人間は、出会いという関係でより人間らしく生きて行ける生き物なんだろうと、福島や地元石川の子らと過ごすキャンプを経験しながら感じています。

応援してくださいとの願いは今も変わりません。そしてそれ以上に願うのは、みなさんにも出会って欲しいということです。出会いは何も人間同士とは限りませんが、そんな出会いも、自分ではない人に出会い伝えることでより豊かに互いを深めるでしょうから。


北陸中日新聞夕刊より


































| 07:54 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
福島の子どもたち


     ユースケ
 

 福島の子どもたち。そんな括りで考えなければならない事態になった今、個人的なつながりを持ってしまったほんの一握りの彼らのことがますます忘れられなくなっている。少しずつ家族の関係に近づいている、と言ったら大袈裟だろうか。孫の世代の子どもたちと共に、未来へと歩き出した実感がある。

 まさかこんなふうに福島の子どもたちとふれあうことになろうとは夢ならまだしも、現実になるとは思っていなかった。まだ夏と冬のたかだか二回の保養プログラムを開いたに過ぎないけれど、大勢の心ある仲間が寄り添い一緒に生活するキャンプは、本当にそうする心がなければ決して実現しないものだった。被ばくを逃れて一時的な保養に出る事にどれほどの効果があるのか、本当には誰もわかってはいないだろう。しかも将来に何事もないことが効果だとしたら、それは決して見える形では表れないのだ。その場に集う仲間たちは、効果というより、共に生きることを望んでいるのだ、きっと。

 福島の子どもたちの瞳に見つめられると、おかしな話だがこのジジイの胸はキュンとなる。初対面だと恥ずかしくて声を掛けるのにもいくらか勇気がいるほどだ。出会うはずのなかった彼らとの出会いに、不思議な縁を感じている。その縁は、仲間と立ち上げた「ふくしま・かなざわキッズ交流実行委員会」の代表としてのものであり、あともうひとつ、一写真家として見つめる機会にも育っている。

 婿が逝ってしまったあのときの、遺された娘と孫娘を撮った半年あまりの経験が、写真家としてのまなざしを持っていることに気づかせてくれた。撮らねばならない、撮ること以外に自分に出来ることはないのだと、あの日々の片時も忘れることはなかった。マスノマサヒロ以外では撮れない場があることを知った。撮るということは、個人的な表現に向けての衝動などでは決してなかった。大いなる刺激を受けた『風の旅人』編集長の佐伯剛さんが言われる“ならではの関係”が生まれそれを感じたときに、はじめて撮るという意思が生まれる。もはやそれは必然としか言いようがない。その必然を経験してみると、もう二度と、同じような場でこのまなざしを活かす機会は訪れないかも知れない、と感じていた。

 なのに、出会ってしまった福島の子どもたちの未来の声が聞こえる。彼らの未来の姿が浮かんでくる。それは具体的なものではないけれど、感じられる。この先何度出会う機会が訪れるだろう。その度ごとに近寄り寄り添い見つめたい、未来を。撮り残そう、未来へ。



































| 09:11 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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