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2012.10.28 Sunday
活動する力
ルドルフ・シュタイナー @R_Steiner_jp
こんにち、人は任意の願望を意志と呼んでいます。しかし願望は意志ではありません。人は何かがうまくいくようにと欲します。これは意志ではありません。意志は活動する力です。この力がこんにちあらゆる分野で欠けています。現代人の中にこの力が欠けているのです。−魂について−
現代人に欠けている意志、活動する力。これって、湧き上がってくるものか。 QT @R_Steiner_jp 人は任意の願望を意志と呼んでいます。しかし願望は意志ではありません…意志は活動する力です。この力がこんにちあらゆる分野で欠けています。現代人の中にこの力が欠けているのです
福島キッズの保養プログラムを主催した石川県内の有志が集う二度目の会に参加した。飲んで食べて語り合っただけのひとときなのに、こんな田舎ではあまり感じたことのないエネルギーが満ちあふれていた。変えたい、変わりたい、でも何をどうやってと、きっとそんなことを内に秘めた人たちに違いない。
シュタイナーの時代から、現代はさらに退化しているのか。意志、活動する力に欠けている現代人は、ネットを駆使してそれを代替行為としているのか。生きる力は、そんなところから出て来るはずがない。面と向って語り合い、身も心も動くこと。人間らしいとは、そういうことだ、きっと。
この世で出会う人は限られている。70億の人間のほんの一握りと出会い、その瞬間に新しい動きへと育つ芽が顔を出す。種はすでにそれぞれの内にある。種の殻を破る刺激がない出会いなど、出会いとは言わない。出会いに遭遇すると、まだ言葉にならない熱いものがあふれてくる。それが意志にもなるだろう
何かしたいと希望や念願を掲げる前に、出会いに敏感であれ。出会うための準備をしろ。出会いだと思ったら素直に従え。それが生きる力にもなってゆく。これまであまり動かなかった者が少しだけでも動いて、そう感じている。
保養プログラムへの支援金を出すという提案を受け、先日活動についてのプレゼンをした。これも出会いには違いないと思いながら、とても疲れた。調査、選択の対象となり吟味される立場は、社会のシステムに組み込まれたもの。それを無視した活動は成立しないだろうが、活動は出会いで成り立っている。
出会いとは、選択したり吟味する対象ではない。感じ合うものだ。語りもするが、言葉の前に感じるものがある。感じない活動など、義務や正義感や、とにかく内から発したものでない何らかの制約を受けている。だから必要以上に言葉を並べ、制約を解こうと、または支えに疲れる努力をしなければならない。
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2012.10.26 Friday
魂の世話(2)
「だいずせんせいの持続性学入門」
の中で、高野雅夫さんは<魂>と対比させた<システム>の層を語っている。
原発事故という大惨事に遭遇してしまった日本の庶民の大半は、その後の政治や行政の対応にあまりに愚かで滑稽でさえあるものを感じたのではないだろうか。「ただちに危険はない」と言った政府は、今も福島県民を愚弄しているとしか思えない。そこには人間としてのぬくもりや思いやりがまったく感じられない。けれど、彼らはシステムの中で考え動いているのだ。その中でしか機能していないのだ、としたら、さもありなんと思ってしまう。
社会は、いろんな立場が交錯したシステムとして営まれている。その中で利益を追求し、搾取もし、自らを誇示し、他者の批判を繰り返している。そのシステムから漏れてしまうことを敗者とする向きもある。追い込まれて自ら命を落とすのは、このシステの外にある境遇に耐えられなくったということでもあるだろうか。順風満帆という人生がもしもあるなら、それはシステムの網をかいくぐりうまく乗り切ったというに過ぎないだろう。だがいつか誰にでも死だけは必ず訪れる。その時、何を感じるだろうか。いい人生だったと周りに感謝して逝く人がいて、死んでも死に切れないと嘆く人がいる、だろうか。少なくとも一度だけの死を前に、魂との対話があるかも知れない。その魂のことを、生きている今、感じてみることができるだろうか。
夫を喪ったあのころの娘が不憫でならなかった。遺された幼子を思うと、胸が張り裂けそうだった。周りの誰もが哀しみに包まれた。あれから二年と少し、何かが目に見えて変わり始めている。人は生きているかぎり、生きて行かなければならない。動かし難い巨大な岩のような娘の哀しみが、やがてポケットの中で転がる小石のようなぬくもりに変わる日が必ずや来るだろう。その過程を支えるものがあるなら、何だろうか。システムの中でそれなりの生活は出来るだろう。だが生きることはシステムなどでは決して賄い切れない。その時、どうしても必要なものがあるのだ。それに出会うことを人生と言うのだと、今は考えたい。
魂があるなら、誰もが持っているだろう。関係の生き物である人間は、だがほとんど誰も魂のことを向き合って語ろうとしない。ましてや魂のふれあいを感じる瞬間がどれほどあるものか。システムの外に放り出されたと思った瞬間に、もしかして、魂が顔を出しているかも知れないのに。
今は娘を遠巻きに見守っている(と思う)しかない状況だが、あの日以来、それまで口にしなかった言葉を交わすようになった。「おとうさんのこと、子どもの頃からずっと恐かった。自分の気持ちを伝えるなんてとてもできなかった」と、最近になってメールが届いた。システムでしかなかった親子の関係には深い溝がある。ようやく見えない何かでそのひとつひとつを埋め始めているのかも知れない。まだまだ長い時間をかける必要があるだろう。だが大切な人を喪った哀しみが、固い何かを融かしてもいる。
福島と石川の子どもたちが海や山で交流した夏のキャンプは、それぞれの自分勝手な思いを言い合える、それこそ開けっぴろげな家族のような雰囲気だった。その中でじっと耐えてひとりで泣いていた女子中学生がいた。ある日、突如として、大声を上げた。「わたし、真剣に怒りました。初めてです」と、翌日だったかそっと教えてくれた。一皮剥けたみたい、などと笑いながら。
キャンプじたいはシステムで運営されながら、子どもたちはそれを意識することもなくシステムの外にあるようだ。子どもは本来、素の状態で生きている。昔よく使ったあのオブラートでくるんだような、妙なまやかしがない。鎧を脱いで、本音を露にする。自分を着飾っていたのではその場にいることが難しくなることを、本能的に知っているのかも知れない。それに触発されたこのジジイまでもが、本能で接することができたようだ。
17日間の全日程を通して参加した福島の男の子が最後に言った感想をまた思い出している。「ぼくは一人っ子なので、喧嘩できてとてもうれしかった」。泣いたり悲しんだりすることも、子どもたちにとって得難いふれあいだった。守られたキャンプというシステムがそれらすべてを支えたのだと、今改めて感じている。それぞれが自分でするしかないという魂の世話を、どうやらふれあいの中で繰り広げていた。
さて、この着飾った社会のシステムは、いったい何のために機能しているんだろう…
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日々のカケラ
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2012.10.24 Wednesday
魂の世話(1)
友が教えてくれた
「だいずせんせいの持続性学入門」というブログの記事
が気になって今日一日何度となく読んだ。この頃うつうつとした気分がさらに低調になりかけていたせいか、記事中の「魂の世話」という一節に取り憑かれてしまったようだ。それにしても、あまりにも簡単に、まるで誰もが知っている決まり事のように、魂という言葉が何度も使われている。魂とは、いったいどんな存在なんだろう。だいたいが存在しているものなんだろうか。個人的にはそう易々とは使えない言葉のひとつになっている。けれども、見えるこの身体や常に働いている内臓などの機能、さらには感情や精神、心などというもの以外に、自分に関わるものがまだ何かあるようだとうすうす感じて生きてきた。ただそれを魂などと言わないだけのことだったのか。これを機会に、意識的に遠ざけてきた魂(のようなもの)について、自分なりに考えてみたいと思う。
この夏に仲間と取り組み始めた福島の子どもたちのための保養プログラムが、魂を考えるには格好の材料になりそうだ。本気で撮ると決めたはずの写真を放ったらかしにしてまでプログラムの準備や開催にかかり切りになっている。そんな暮らしがもう半年以上にもなってしまった。することが徐々に多くなり(自ら多くしているのか)、離れられなくなって行くのが感じられる。これは本当にしたいことなのか、なぜお前は写真に向き合わないのかという思いがいつも頭から離れない。なのに、冬にまたプログラムを開こうと、自分から言い出してしまった。それがとても自然な気がした。当たり前だとも感じていた。
放射能汚染に苛まれている福島の子どもたちの中の、ほんの6人と夏に友だちになった。3週間近くのキャンプ生活を通して、子どもたち同士が未来へと続くに違いない関係を作り出した。原発事故という災いがもたらした、これは奇跡なのだとこの主催者のひとりは自負してもいる。
福井で何度も同様のプログラムを開催している方がキャンプを訪ねてくれた折、面白い話を聞かせてくれた。「この雰囲気いいですねえ。ほかはどこも福島の子らを持ち上げて、もてなして、福島の子らもそれを感じるものだから…」などと言われた。我が「ふくしま・かなざわキッズ交流キャンプ」にはそれがないという。だれが福島で誰が石川なのか、みんなおんなじ子どもとして飛び回っている。それがいいと言うのだ。そんなこと当たり前だと思っていたのに。
またボーイスカウトの世話など経験豊富な方が一夜、子どもらと遊んだ翌朝に伝えてくれた話も印象的だった。「子どもたち、本当によくまとまってますねえ」。それを聞いて、はじめは驚いた。毎日喧嘩が絶えない子どもらにほとほと手を焼いていたスタッフは、まとまりのないキャンプをなんとかしたいとミーティングを重ねる毎日だった。それがなんと、見方を変えればまとまっていたのだ。「子どもらがすぐに私を受け入れてくれた。これはね、スタッフのみなさんを信頼している証拠ですよ。実にすばらしい」。
キャンプ生活は、終わってみればあっと言う間の出来事だった。福島の子らに解放してもらおう、と思いながら、このジジイが先頭に立って飛び回ることもしばしばだった。おとなも子どもも、みんなおんなじように解放的になれた。あれはもう支援などという形容では収まらないものだった。ボランティアなどという構えた気持ちなどさらさらなかった。ひとときの家族のようだった。
だいずせんせいは、名古屋大学の准教授で高野雅夫さんと言われるのか。高野さんの記事にある「魂の世話」はそれぞれが自分でしなければならないという。あのキャンプの間、魂たちはどんなふうに過ごしていたんだろうか。もしかすると、誰ひとり気づかないまま、とんでもないドラマが繰り広げられていたような気がする。それはきっと、見える形に囚われていたのでは決して感じることができないドラマだった。
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日々のカケラ
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