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空き缶の声
2011 近所の里山にて
偉大な孤高の写真家、石元泰博さんが亡くなられた。あまりに遠い雲の上の存在なのに、心の真ん中に空いたこの小さな穴は何だろうか。氏と同じ写真の世界で表現できることを最近になってようやく幸せなことだと思えるようになっていたのに、なんだか知らないが、空いた穴から空気が抜けてしぼんで行くものがある。実力には月とスッポン、天と地ほどに開きがあるのだから、そうまで特別な思いを抱くこともないだろうに、不思議なものだ、お会いしたことなどもちろんないけれど、ほんの少しでも同じ時代の空気を吸えたことを、たとえどんなにしぼんでも、いつまでも大切に感じ続けることができる気がする。
生涯に一度でいいから載ってみたいと思った『風の旅人』の43号で、あろうことか、そのまさかの夢がかなった。マスノマサヒロ「生の霊」は自分でも驚くほどに印象深い、これが初めてとも言える作品になったが、掲載後になんらかの成果が残ったとしても、それはおそらく撮った者の実力ではないだろう。突然の哀しみが家族を襲った。その事態に、その関係の中に、見えないけれどすべてを動かす大きな力がはたらいていたことを今さらながらに感じている。
「人や地球を見つめる日本発の本格的グラフ文化誌」との序詞を持つ『風の旅人』は、独自の世界で深い境地へと掘り下げる一流の写真家たちと有望な若手が絶妙に配置された希有な雑誌だ。目覚めたばかりの中途半端な写真家もどきがその場に交われたことは奇跡の中の奇跡だった。しかもその号で石元泰博「色とそら〜あはひ〜」と同席するという幸運に恵まれた。発行の三ヶ月前に東日本を襲ったあの大震災、巨大津波、そして世界を震撼させている原発事故と深くどこかでつながっているように、43号は「空即是色」をテーマとしていた。見えない大きな力は、おそらくあらゆる場面ではたらいている、そうとしか思えない。
何かがひとつでも欠けていたら、世界は決して今のようではあり得ない。己の変化ひとつとっても同じことが言えるだろう。写真に出合った小さき者が、人生の残りを意識する頃になって希有な雑誌に出合い、縁などないと思っていた偉大な先達の作品さえも心の間近で見つめるようになった。それだけで世界に何らかの役割を果たせるわけでもないけれど、この変わりゆく流れを見逃さず、感じ続けるしかない。
十数年も前、道端でぺちゃんこにひしゃげた空き缶を何個も撮っていた頃がある。ただただ、気ままだった。なんとなく気になるから撮っていただけ、さらに何かを深めようという気などさらさらなく、出来上がったプリントをながめて自己満足しているだけだった。
石元泰博が撮った空き缶は、なんであんなにもの言いたげなんだろう。何かが迫って来る、息苦しくなるほどだ。
氏があるインタビューで応えている。
「変わっていくもの、定かでないものが撮りたいんです。缶も、木の葉も、雲も水も、人間も、今撮っているこのシリーズは、うつり行くもの変わり行くものをじっくり見つめたい思いが、私に撮らさせるんですね」。
あるいは別のところで、
「……この結果生まれる写真は偶然の結果といおうか、あるいは当然そうなるべきであったといおうか……」
何もかもがひとときとして同じでないことを、激動の時代を生き抜いた写真家は痛いほどに感じておられたのかも知れない。ある固い意思を持ちながら、しかもその枠に囚われない。氏の空き缶を今また見て、そんな言葉が浮かんできた。ありがたい。これで小さき者でも、氏の足下で死ぬまで撮り続けることができる。でも、数ある名作がひしめく中で、なぜ空き缶なんだろう。
……ある日、ある所……
すべてのものは生きている。
その刻々と生きる生命を記録し、彼らとともに、
小さな声をあげたい……
(石元泰博)
合掌
参照 『YASUHIRO ISHIMOTO』高知県立美術館、『石元泰博 ― 写真という思考』(森山明子著)