kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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万葉集
 





 目覚めてやおら起き出して、折り畳み椅子の簡単な祭壇をこしらえた後、ご先祖に線香をあげる。そのまま小半時ほども静かに座るようになって、一日のはじまりが幾分たおやかなものになりだした。さらにつづけて万葉集を素読するようになり、二週間ほども経っただろうか。これがなんとも、実にいい。遠い未来を想うことには夢を見る楽しみがあるだろうが、その矛先を過去に向けるなら、まさに実がある。素読で確かな言葉の響きに浸ると、今というこのときが、自分というちいさな存在でさえが、滔々と流れる命の大河のほぼ先っぽにあることに気づけるようだ。

 万葉集は、何度も行き来しては繰り返し読んでいるから、今朝ようやく巻第一の一九までたどりついた。ここまでの間にも、たくさんのお気に入りができている。たとえば、霞立つ長き春日の暮れにける、ではじまる五の長歌がいい。讃岐の国の安益(あや)の郡に幸す時に、軍王(くにきしのおおきみ)が山を見て作る歌、とある。求めた角川文庫『万葉集』の伊藤博によると、軍王は舒明朝に渡来した百済王子余豊璋か、とあるが、大伴家持らが付したらしい注では「軍王もいまだ詳らかにあらず」となり、さらに惹かれる。


霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣き居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸(いでまし)の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば ますらをと 思える我れも 草枕 旅にしあれば 思い遣る たづきを知らに 網の浦の 海女娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我(あ)が下心

  反歌

山越の風を時じみ寝る夜おちず家にある妹を懸けて偲ひつ

 
 意味を取らないでいるわけにも行かなくなるが、何度でも素読するうち、歌のリズムに魅せられる。遠く離れれば離れるほど、人を想う人の深さは増していくのか。中高生のころに出合ったはずの古典には、なぜちっとも興味がわかなかったんだろう。小難しいだけの歌や文章を解読し、詠み手書き手の思いの理解まで強いられたのでは、致し方なしというものだろうか。友が教えてくれたこの素読、静かな心持ちでただ声に出して読んでみるだけのことなのに、味わえる。歌のリズム、それに伴う心の波まで。歌を読んでいると、別居して一年あまりにもなってしまった妻を想う、否、正確ではないか、想いたくなる。この世で出合った君よ、いまは共に暮らすことはできなくなってしまったが、焼く塩のように焦がれているよ、この我が胸のうちが、などと古の人のように、想いたくなる。

 生きているとは、ただ単に生活に明け暮れることではないだろうが、実際にはどうもこの凡夫は明け暮れている。せめてもと遥かな時間をさかのぼり、彼方の人へと思いを広げてみる。昨夜はおやじがまた発作を起こした。ペースメーカーを埋め込んでこれでしばらくは大丈夫だろうと思っていたが、人の体は、命は、どうにもいかんともし難い。流れているのだ、だれもかれも、滔々と。






























| 08:47 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
快楽について
 



 

 快楽は自由の歌。
 しかし、自由そのものではないのです。
 快楽はあなたがたの欲望の花。
 しかし、その果実ではありません。
 快楽は頂きに呼びかける淵。
 しかし、深さでもなく、高さでもない。
 快楽は、籠に囚われながらも、そこから飛び立つ。
 しかし、空間を包み込むものではない。

 ああ、まことに快楽は自由の歌。
 あなたが満たされた心でその歌を歌うのを私は聞きたい。しかし、歌うことに夢中になって我を忘れることを私は望まない。

 ある若者たちは、快楽を求めます。それがすべてであるかのように。そのため、彼らは裁かれ責められる。
 私なら、裁きも責めもしない。
 若者は快楽を探せばよいのです。
 なぜなら、かれらは快楽を見つけても、見つけるのは快楽だけではない。
 快楽には七人の姉妹があり、その一番小さい者も快楽より美しいのです。
 聞いたことはありませんか。木の根を探して土を掘っていたら宝を見つけたという男の話を。

 或る長老たちは悔いながら快楽を思い出します。それが酔って冒した罪悪であるかのように。
 しかし悔いは精神のかげり。懲らしめではないのです。
 快楽を思い出すなら、感謝のうちに思い出したいもの。
 夏の収穫のあとのように。
 しかし悔いることで楽になると言うなら、それもまたよいでしょう。

 あなたがたのなかには快楽を探求するにはもはや若くもなく、快楽を追想するほどには老いていない者があります。
 かれらは求めること、思い出すことを忘れて、すべての快楽を避けます。精神を軽んじ冒すことがないようにと。
 しかしかれらの歩んでいる道にも快楽はあり、そこでもまた宝を見つけます。ふるえる手で木の根を掘っているにしても。
 しかし、いったい精神を冒せるひとがいるでしょうか。
 夜鶯(ナイチンゲール)が夜のしじまを、螢が星々を、冒せましょうか。
 炎や煙が風にとって重荷となりましょうか。
 精神は棹でかきまわせるような水溜まりなのでしょうか。
 あなたがたはしばしば快楽を拒みながら、自分の存在の奥底に快楽への欲望をたくわえ込むのです。
 しかし、誰が知っていましょう。今日忘れたように見えるものが、実は明日という日を待っているということを。
 あなたがたの体は知っているのです。自分の生まれ持つ遺産と、自分の正当な需(もと)めを。体をあざむくことはできません。
 体は魂の竪琴。
 あなたがた次第で甘美な音が奏でられ、乱れた音も出て来るのです。
 そこで、あなたがたは考えてしまう。どのようにして快楽のうちにある善と悪とを区別しようか、と。
 あなたがたの畑に、庭に、足を運びなさい。そこで学ぶことでしょう。蜂にとって、快楽とは花の蜜を集めることだと。
 しかしまた花にとっての快楽は蜜を蜂に与えること。
 なぜなら蜂には花が生命の泉。
 花には蜂が愛の使者。 
 蜂にしても花にしても、快楽を与えること、受けることが、それぞれ需めであり、恍惚なのです。

 オルファレーズのひとびとよ。快楽については、花や蜂と同じでありなさい。

                
            (カリール・ジブラン『預言者』より)







だれかのことを想えたそのときにこそ
自分という存在に深く関われた気がす
る。すべてのことは、だから自分のた
めにあるのかもしれないと、思ってい
たほうがよさそうだ。世のため人のた
めと言いながら動くとしても。




























| 09:03 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ハンガーマップ
 





 気になるブログの記事に出合った。

 世界には餓えがあり、何秒かにひとりが倒れ死んでいく現実があることを知りながら、なんの行動も起こさず日々に忘れている。なのにこの数日、頭から離れなくなった。ひとりぼっちの味気ない食事でもビールを飲んでうまいと言って、それで満足して眠ってしまうことは、ほとんど罪なのではないか、と考えるのは好ましいことではないかもしれない。けれども、心が痛む。胸が締めつけられて、飯が喉を通りにくくなる。こんな気持ちで喰っていても、栄養になどならないかもしれない。残飯として捨ててしまう日本という国があり、その日本人のひとりであり、それだけでなんだか生きていることが辛くなる。飢餓はなぜ改善されないんだろう。

 国連世界食料計画(World Food Programme)というのが20日、「アフリカ北東部で深刻度最高レベルの危機」を伝えている(日本語の一部を下記に引用)。



 WFPは7月20日、アフリカ北東部の「アフリカの角」と呼ばれる地域で1,130万人が干ばつによる飢餓に苦しんでおり、その深刻度は最高レベルでただちに大規模な支援を行わなければならないと宣言。多くの人命が失われる可能性が高いと懸念を表明した。
 ジョゼット・シーランWFP事務局長は、「WFPは今回の大干ばつに際し、過去6か月にわたってこの地域での支援活動を拡大してきました。しかし、今回の干ばつは、深刻度が高く、かつ広範囲に及んでおり、また人道支援機関が立ち入れない地域が一部存在することもあいまって、このような深刻な食糧危機が発生してしまいました。」と述べ、支援活動の拡大の必要性を訴えた。




 ハンガーマップをながめていると、どうしてこの世界の隅っこの島国に生まれてきたんだろうと、不思議な気持ちになる。アフリカの角のどこかでもよかっただろうに。餓えで苦しんでいてもよかっただろうに。生まれてしまったその環境でとりあえず生きなければならない。

 世界のしくみって、いったいどうなってるんだろう。本当は、世界がその気になれば飢餓などすぐになくなるんじゃないのか。フクシマだって、放射能汚染に曝された付近の人々の危険な状態を避けることを最優先するなら、本当はすぐにでもできることじゃないのか。わかっていながら、そうしない単純な理由や原因を取り除かないでいるだけのことだ。そうでないなら、いつまでも世界がこんな状態のはずがない。人類は人類を救うことに本気じゃないんだ、きっと。お前も、本気じゃないんだろ、のんきにこんなもの書きながら。

 
  




























 
| 23:31 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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