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2011.02.20 Sunday
全肯定
田口ランディさんがぼくの写真を見て全肯定という言葉を投げかけてくれたことがある。言葉そのものより、ランディさんという希有な作家からのひと言がうれしいばかりだった凡夫は、その後、全肯定について深く考えてみることもなかった。
全肯定がすべてを肯定するということなら、ぼくにはかぎりなく難しい。自分の内をのぞいてみると、否定的なものがウヨウヨしている。だいたいが自分自身の単純さや深まりのなさにつくづく閉口しているし、人間が好きだと言いながらいつもほとんど色眼鏡を通して見ている。日々の事どもに己のこの狭小な視点で注釈をつけ、懲りずに堂々巡りの考えに耽っているというのに過ぎない。ようするに対象を否定できるほどの見識さえ持ち合わせていない、ということだろう。その上での写真を、ランディさんは全肯定と評してくれたのだ。
婿との死別は、夫を喪った娘にくらべれば、屁でもない経験だった。けれど哀しむ娘のとなりにいることもまたやり場のない哀しみだった。逝ってしまった人が大切な人であればあるほど、様々な感情に苛まれる。娘からは、赦せない、という言葉を妻を通して何度か聞いたことがある。あれから七ヶ月あまりが過ぎた。なにかの拍子に娘の虚ろな目に出合うと、時間が少しずつ家族の雰囲気を変えているものの、哀しみの深さばかりは変わらないのだと知り、また哀しくなる。哀しみは、太古にうまれ涸れずにある湖のようにいつも深く静かに涙を溜めている。切ない、やるせない。気を紛らわすことはできても、いつも紛らわしているだけのことだった。
この哀しみはでも、珍しくもないものだ。だれの命にも終わりがあるなら、私的な悲哀の物語など人の数だけあるだろう。哀しみの存在を知ると、そのことがよくわかる。いつも馬鹿笑いしている朗らかな知人がいる。あるとき彼女が話してくれた過去の数々の哀しい体験に、返す言葉を失った。笑いを装うピエロのように生きている人が、きっと何千何万人といるのだろう。いずれにしても、哀しみなのだ、人は、と今は思う。
哀しみのカケラひとつでも知ると、ありがたいことに、厚く覆っていた囚われの壁にどうやら細い亀裂が一筋入った、ようだ。あなたにだけは死んで欲しくない、できることなら代わってやりたいといくら願ったところで、叶わないことがこの世にはあるのだ。どこにでもある平凡な暮らしに突然訪れた哀しみは、決して特別なものでなく、それもまたどこにでもある平凡なものだった。どうしようもなく、否定しようがないものとして。
全肯定がどういうことかわからなくても、現実の大小の哀しみに出合う度、それを乗り越えるのでなく、やがてその哀しみを抱きしめたままで生きていけるのだと知っているなら、それもまた全肯定に近づく道のひとつにならないだろうか。今はその道の途上で撮っている写真なのだ。
小さなひとつを否定することは存在する世界全体を否定することだ、などと考えるのはあまりに極端すぎるだろうか。否定している間はでも、ひとつと全体にそんなつながりがあったとしても決して気づけないだろう。否定のたがが外れると、そこはもはや否定も肯定もない、どちらからも自由になった虚空とも言えるような場に変わるのだ、などと考えてみる。虚空という間(あはひ)の場で撮れないものだろうかと、描いてもみる。
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日々のカケラ
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2011.02.18 Friday
愛ってなあに?
ネットに乗って設定した中からいろいろな情報や話を拾い出すのは、この小さな日常を閉じたものにしないために必要だろうし、だから毎日のようにつづけているけれど、つづけながらときどき深いため息が出てしまう。そんなときはどんな話にも興味がわかない。面倒くさくなるんだろうか、生きていることに真剣味が足りないのかもしれない、などと適当に気持ちを分析して画面を閉じてしまう。
そのあと、きょうは手紙を五通も書いた。それぞれに何枚か書いたので、時計を見て驚いた。手紙の相手を思い文字を手書きしながらの時間もまた、ネット上と同じようにあっと言う間に過ぎていく。流れる時間とはなんだろうか。夜が明けたと思ったら、そろそろ夕闇が迫るころだ。時間は概念にすぎないものだと、どこかで聞いた話を思い出す。無いようで在るこの時間よ、お前の中で埋もれた一日は、いったいだれのものだったんだろう。
ため息ではじまった一日に必要なものは、おそらく一遍の詩だ。目次を見て、気になったページを開く。
愛ってなあに?
田村隆一
青年のときは
愛
という言葉がぼくには苦手だった
とくに詩のなかで
愛
という言葉がどうしても使えなかった
人類や国家や世界を
愛するなんて
ぼくにはできない なぜなら
愛の対象となりうるものは
抽象的なものではないからさ
人 血のリズムによって存在するもの
物 小さな物 その存在によって
人の心に平安とやすらぎをあたえてくれるもの
それだけが愛という言葉にこたえてくれるのだ
その愛によって人は
人類と国家と世界を新鮮な目ではじめて
見ることができる
あるお嬢さんがぼくにたずねた
「愛ってなあに?」
何度か読み返すうちに、詩が与えてくれたものに気づく。もしかするとこれが、平安とやすらぎ、なのかもしれない。ため息の朝がウソだったかのように、深く静かな呼吸を自ずと繰り返している。ふしぎだ。詩が、めぐる血を勢いづかせ、鎮めてくれた。
愛ってなんだろ。ぼくにもわからないけれど、この詩にある愛、のようなものを抱いていないと、結局はまたため息をつくしかないのだろう。ネット上にはあるか、お前とこの日常にはあるか、愛。せめて、問いかける瞬間を持て。愛ってなあに? 身近な小さな人と物たちを、ゆっくりと見つめながら。
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15:42
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日々のカケラ
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2011.02.07 Monday
memo 全体像
全的かぁ、、、 RT @krishnamurtibot 我々自身が分裂し断片化すれば、我々と世界との関係もまた分裂するのである。だが、我々が行動する時に全的に行動するならば、我々と世界との関係は大きな革命をとげることになろう
全的。全的な行動かぁ。わかるようで、きっとよくわかっていない。自分の言葉に置き換えることもできないんだから。ちょうど『風の旅人』最新号が「生命の全体像」をテーマにしている。まずはゆっくりと向き合ってみる。
全的、全体像と大いに関連している。大きなヒントになりそうだ。 RT @hideomiso 食にかける時間が少ないと、比例して生業全てが雑になる感じ。育てられないなら、自炊できないなら、せめて食べる時だけでも味わおうと思う日々。味わうのは味だけではないよ
お昼は車で弁当。狭い空間での孤独な食事でも、蓮根一切れにまつわる数々の物語を想うだけで、スケールの大きなひとときになった。育った畑、農家の友人、調理したお袋、などなど。蓮根という野菜の生い立ちまで知りたくなる。小さな個々から全体へと広げる道が何本も絡まり伸びている。
いい年してまだ中高生の気分で勉強中。せめて英語でもとNHKを利用している。中でも「チャロ2」が面白い。年度末が近づくにつれストーリーが急転直下、登場する動物たちのそれぞれの世界を同時に描き出していて目が、いや耳が離せない。物語って、きっとこんなふうに、個々の集まりなんだろう。
この暮らしを細々と営みながらそれだけでも物語を感じるけれど、同じように誰もがそれぞれの物語を人は紡いでいる。それらが必要に応じてあちこちで絡み合っている。個を見つめながら、絡み合う全体像を感じていたい。むしろ全体像を想像しながら、個を感じていたい。
人類だ世界だと掲げてしまうとどうにも太刀打ちできない壁がある。ちっぽけな個とのスケールの差はいかんともし難い。それでも全体があっての個であることに間違いはなさそうだ。とりあえずきょうからは、奥まった目を力のかぎり見開いて、まなざしを意識するのだ。今お前はなにを見ているのかと。
森で銃を持った人は獲物しか見ていない。きっとなんでも獲物に見えてしまうんだろう。照準を定めた偏狭な目。 QT @todoguma ただでさえ、労災罹災率がずば抜けて高い林業従事者。ハンターに撃ち殺されては、たまったもんじゃない!もっともっと、社会問題化させなきゃダメだ!
大相撲の八百長を断じる立場になると、おそらくその一点しか見えてこないんだろう。大相撲という全体像を見ていない、大相撲が置かれているさらに広い全体像を想像できないんだろう。でもそれって、案外だれにもあることでは。自分の目に見える範囲の中でしか、考え行動することができないなら。
RT @kenichiromogi 人間は社会的な動物だと言うが、本当に真摯に話し合い、心が通じる瞬間というのはなかなか来ないものである。お互いに遠くから「言葉」を「砲撃」し、社会的な儀礼や配慮が交換される。その結果、「生」の精髄からどんどん離れ、漂流していく。
全体像を想像するとは、人間社会の仕組みを一段高い所から見つめることじゃない。繋がり? 茂木さんの言われる「心が通じ合う」こと? でも茂木さんはそれが叶わないのが人間社会だという。だとしたら、全体像を感じるってどうすることなんだろうか。『風の旅人』を開いて、それで済ませては行けない
見えないなにかで、きっとこの世界はすべてのことがつながっている。じゃなかったら、全体像なんて、考える必要がない。機能的な話じゃない。それぞれが機能するための力となるような、個や現象を結びつける存在があるにちがいない。そうか、それがエネルギーと言われるものなんだろうか。
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