たとえば「え、かこうよ」なんてさそっていっしょに落書きで遊んでいると、子どもって天才だなあと思う。いきなり好みのクレパスを持ってなんの迷いもなく描きはじめる。手はかたときも止まらずに、あっという間にページの中がふくらんでいく。細いのや太いのや自由な線がつながって、まるではじめからイメージでもあったようにいろいろに想像をしたくなる絵ができ上がる。たっぷりと空いた余白などはいっこうに気にならないようで、すぐに次のページへ移りたがる。その余白と絵のバランスとがまた絶妙だったりするからまいってしまう。
子どもたちから自由奔放さが失われていくのは、いつからどんなふうにはじまるんだろう。あんなに上手に描けないよ、などととなりと比べたりもするし、ついには絵なんてむりむりと、やがて筆を持つこともなくなる。絵画などと称して特別な才能を持った人の領域にしてしまうのだ。音楽しかり、文章しかり、なにごとにも評価がつきまとい、それが気になり、遠ざかる。
孫娘のとなりでその自由な手さばきに感動しながら、じじいもまねして描いてみた。なにをかこう、などとは考えないで、なるべく動きたいようにと頭も心もからっぽにして手にまかせる。けれどもそのつもりではいても、ある程度込み入ってくると線と線との出会いが気になり、いつの間にか形を気にしている。あるはずもない完成にそろそろ近づいているのを感じて、仕上げはどうしようか、などと思ったりもしている。気がつけば他愛もない落書きでさえなにを気にしてか自分を制御している。 楽しい時間ではあったけれど。
ああ、自由とはなんだろう。己がここに存在していることの由縁にちがいないと、無理矢理に言葉をあてがっているのは由々しき問題にちがいない。自由であることと言葉とは、おそらく無縁なのだ。幼子のあそびは呼吸のようにスムーズで、止めなければいつまでも、どこまでも流れていく。えがいていた道具は放置されたままかと思えば、つぎのあそびの合間にいきなりまた復活もする。目にとまった瞬間、そのものとすぐに仲良しになっている。ねむるか、たべるか、とにかくあそびはそのときまでつづけられる。あそびながら生きている。表現するつもりもない表現に、これは天才だ、などと善意をふりかざしておとなはまたついつぶやく。なるべくならあっけらかんとした幼子の世界に踏み入ってはならない。せめてものことにと、親でもないじじいだからかそう思う。用があればいつも向こうからせがんでくる。それを楽しみに待ちながら。
自由とは、天から授かった才能のことかもしれない。