kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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ライブ

 

 写真というものが真を写しているなどと考えるのはとんでもない話にちがいない。たとえば様々に変化する子どもの動きの中のどれか一枚を選び取り、その子の性格がよく表れている、などと言う前に、それを選んだ意図がまず存在していることを知る必要がある。選び取った一枚から感じるものは単純な印象にすぎない。この世に真があったとして、それを切る取ることがはたしてできるものだろうかと、近ごろ孫娘を撮るたびに感じている。

 たしかにその一瞬の表情は幼い孫自身のものだ、途切れることのない生という一瞬の。だが生を真と、即座に言えるだろうか。日々すさまじいばかりに成長していく姿を見ながら、となり合っているのかそれとも表裏の関係にあるものなのか、その正体を解き明かすことはできないけれど、死、というものをいつも意識してしまう。生きていることをいま、まざまざと見せつけられているけれど、それ以上のことはなにひとつわからない。生が真であると言い切ることなど、瞬間を見つめ撮る者のひとりとしてとてもできない。だから、真でなく、生を撮っているのだと、いまはその程度の頭しかまわらない。

 大黒柱を喪った母ひとり子ひとりの娘親子は、少なくとも今はおよそ幸せというものからは遠い日々を送っている。そんなふたりのそばで感じるものに意識を向けると、いつも泣きわめきたくなるけれど、その分、生きている彼らの一瞬が苦しいほどに愛おしい。なにが真なのか、おそらく死ぬまでわかりはしない。わからないままに、生を生きている。生きながら、撮っている。

 京都シネマ・スクリーン・ギャラリーで上映する「家族の時間」に合わせたBGMをライブにしたいと思ったのも、生を意識しているためだった。友人でもあるミュージシャンの皆川多恵子さんが、京都に行きたい、と言ってくれたのをいいことに、思いつきのようにしてお願いした。生を撮った写真には生きている音だけが似合うだろう。多恵子さんはいま抗がん剤治療の後遺症で指がうまく動かないけれど、そのままでいいと、それだからいいと、正直に伝えた。多恵子さんの内からあふれる音と映像がからみ合い醸し出す生を、他人事みたいに楽しみにしている。


京都シネマ・スクリーン・ギャラリー マスノマサヒロの部
 
 1月29日(土)18:00~20:00 ◆ゲストトーク/『風の旅人』編集長・佐伯剛
  29日のみ参加費1,000円。入場者には「風の旅人」40号(マスノの「のと」掲載誌)を進呈いたします。
 1月30日(日)10:00~12:00 ◆トーク/野寺夕子×マスノマサヒロ

京都シネマ
京都市下京区烏丸通四条下る西側 COCON 烏丸 3F TEL : 075 (353) 4723
アクセス































| 11:06 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
京都シネマ・スクリーン・ギャラリー




 写真という表現に出会い、撮ることが好きになり、この三十年ほどごはんを食べるのとおなじ感覚で毎日のように撮ってきた。その長い時代が終わり、いまようやく新しい段階に入ったのだと、自分では思っている。

 写真を撮り、展覧会やネットで公開し、それだけで表現と言えるだろうか、などと今さら考えている。表現にはちがいないだろうが、漫然とそれを繰り返していったいなんの意味があるのかと、どうしても突き当たってしまう。自分にとっての「撮るということ」の意味を知りたいと探りながらこの二三年を過ごした。結論など得られるものではないかもしれない。それでも考えないではいられない、否、考えないならもはや撮る必要はないのだ。だからだろうか、近頃は悲しみの家族ばかりを撮っている。ほかはちっとも撮る気になれない。

 けれども撮らなくなった今こそがとても大事な時期なんだと、なぜか本気で思える。変化のきっかけは『風の旅人』と編集長の佐伯剛さんとの出会いだった。今もその足あとがネット上の「風の旅人」に残っている。

 佐伯さんの言葉は、泣きたいほどに刺激的だった。そしてこの方は言葉どおりに生きていると、編集する雑誌を見て感じた。たとえば「世界の本質に肉薄する」姿勢がこれまでの自分にあっただろうか、と振り返らざるを得なくなった。答えはすぐに出た。肉薄する姿勢どころか、その気持ちの欠片さえ持ったことがなかった。これで迷わないはずがない。否、むしろ迷えてよかった。今もその迷いはつづいているけれど、とにもかくにも歩き出してはいるようだ。

 京都シネマ・スクリーン・ギャラリーに、「家族の時間」で参加することにした。これも、まるで「こっちだよ」と誘われているような出会いだと感じたから。来年1月29日と30日が担当の二日間。エントリーの名前はシンプルにカタカナにした。マ、ス、ノ、マ、サ、ヒ、ロ。漢字の意味より、音の波を大切にしたい。聖書でははじめに言葉があったといい、空海ははじめに音があったと遺しているそうだ。ならばはじまりにいま戻ろう。撮るということが、この世に生きたということになればいい。この世に生きるということは、そこに肉薄するということにちがいない。お仕着せでなく、足掻いて自ら獲得するものがあってこそ、生きた足あとが残り、写真もいくらかは写真に近くなるだろう。

 29日の上映後は、佐伯さんのトークのひとときが開かれる。本質を見極めようとする一流の方々との交流が多く多忙な方が、この凡夫の願いを快く引き受けてくださった。入場されるみなさんにはそれぞれ、マスノが応募した「のと」も掲載されている『風の旅人』40号が進呈される。出会いの輪、などという言葉を使うことにはいつもどこか気恥ずかしさを感じるけれど、振り返れば、たしかに好ましい変化の前には本当の出会いがあった。ひとりにとどまらず、そんな出会いの輪が広がればいい。そういう場に、なればいい。「のと」を撮ることが新しいはじまりだったなら、京都シネマ・スクリーン・ギャラリーのひとときはさらに前に出るたしかな一歩になりそうだ。





























| 11:44 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
天才



 たとえば「え、かこうよ」なんてさそっていっしょに落書きで遊んでいると、子どもって天才だなあと思う。いきなり好みのクレパスを持ってなんの迷いもなく描きはじめる。手はかたときも止まらずに、あっという間にページの中がふくらんでいく。細いのや太いのや自由な線がつながって、まるではじめからイメージでもあったようにいろいろに想像をしたくなる絵ができ上がる。たっぷりと空いた余白などはいっこうに気にならないようで、すぐに次のページへ移りたがる。その余白と絵のバランスとがまた絶妙だったりするからまいってしまう。

 子どもたちから自由奔放さが失われていくのは、いつからどんなふうにはじまるんだろう。あんなに上手に描けないよ、などととなりと比べたりもするし、ついには絵なんてむりむりと、やがて筆を持つこともなくなる。絵画などと称して特別な才能を持った人の領域にしてしまうのだ。音楽しかり、文章しかり、なにごとにも評価がつきまとい、それが気になり、遠ざかる。

 孫娘のとなりでその自由な手さばきに感動しながら、じじいもまねして描いてみた。なにをかこう、などとは考えないで、なるべく動きたいようにと頭も心もからっぽにして手にまかせる。けれどもそのつもりではいても、ある程度込み入ってくると線と線との出会いが気になり、いつの間にか形を気にしている。あるはずもない完成にそろそろ近づいているのを感じて、仕上げはどうしようか、などと思ったりもしている。気がつけば他愛もない落書きでさえなにを気にしてか自分を制御している。 楽しい時間ではあったけれど。

 ああ、自由とはなんだろう。己がここに存在していることの由縁にちがいないと、無理矢理に言葉をあてがっているのは由々しき問題にちがいない。自由であることと言葉とは、おそらく無縁なのだ。幼子のあそびは呼吸のようにスムーズで、止めなければいつまでも、どこまでも流れていく。えがいていた道具は放置されたままかと思えば、つぎのあそびの合間にいきなりまた復活もする。目にとまった瞬間、そのものとすぐに仲良しになっている。ねむるか、たべるか、とにかくあそびはそのときまでつづけられる。あそびながら生きている。表現するつもりもない表現に、これは天才だ、などと善意をふりかざしておとなはまたついつぶやく。なるべくならあっけらかんとした幼子の世界に踏み入ってはならない。せめてものことにと、親でもないじじいだからかそう思う。用があればいつも向こうからせがんでくる。それを楽しみに待ちながら。

 自由とは、天から授かった才能のことかもしれない。




























| 05:24 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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