亡くなった婿の豊は、この義父の撮った写真を気に入ってくれて、娘との結婚前から部屋に飾っていたそうだ。「この写真、喪中はがきに使おうかな」と娘が言って差し出したのは、石垣島で撮った水中の写真だった。毎日眺めていたんだろうか、車に飾ってあったものだった。
白山に登っては、高山病で途中で下りてきました、などと言う、体格に似合わずひ弱な豊かだったが、海の中にも憧れていたんだろうか。素潜りでほんの数メートル潜るだけで、重力から解き放たれ、体が自由を感じる。魚ではないのだから自由と言ってもかぎりはあるが、おそらく宇宙空間にも負けていない快を感じたものだ。
天国の婿殿よ、今は自由か。解き放たれているか。
部屋の片隅の祭壇がこのごろ乱雑になっている。下ろされた遺影の代わりにハネムーンのツーショットが置かれ、遺骨は馬車の置物かごの中。線香や鉦は好みじゃないからと外されている。これで喪に服していると言えるものか、とても自信はないけれど、娘の哀しみを感じながらいると、形などどうでもいいと思える。
その祭壇に向って手を合わせると、このごろ豊の声かと思うような言葉が浮かんでくる。「おとうさん、あせらないでください。大丈夫ですから」。これと言って返す言葉もないから、そうか、ありがとう、と言っては目を開けると、素っ頓狂な祭壇がふしぎと愛らしく見えてくる。
家族、という言葉をつぶやいてみる。この世の同じ屋根の下で暮らす者だけが家族なのではなさそうだ。死んで別れた家人が、残された家族の中でますます大きな存在になっていく。今はまだ喪った哀しみばかりに囚われているけれど、そうこうするうちに、いつの間にか近くなっているあの世の人こそがいちばん頼りになるのだろうと、祭壇を見ながら願ってみた。