kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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やるべきこと

 

 @kazesaeki 70歳を超えて、現状を斜めに見ながら、超越した眼差しで自分のやるべきことをやっている人。60歳前後、現状にあれこれ不満を言いながら実際に自分では何もしていない人。40代前後から50代、妙に物わかりがよくなって現状に妥協して、諦めて、自分のやりたいことだけやっている人。

 朝一番に出合ったこのtweetが妙にひっかかったのは、この「妙に物わかりがよくなって現状に妥協して、諦めて、自分のやりたいことだけやっている」部類に自分も含まれていると思ったからだろう。やるべきことと、やりたいこと。両者のちがいを一日折りにふれて考えてみた。

 五十代半ばにもなった自分の今の在り様にいくらか物足りないものを感じていた。その要因は、ここで指摘された諦めたような境地にあったのかもしれない。諦めるというより、元々希望や欲求が乏しくて、要するに生命力に欠けているという感じだった。だから適当にやりたいことをやろうという程度の日々がつづいていた。

 それなのに、人生にはなんともふしぎなめぐり合わせが待っている。娘婿が突然、なんの前ぶれもなく逝ってしまい、このじじいは遺された娘と孫ばかりが気がかりで、毎日のやりたいことと、やるべきことが一致してしまった。

 もう三十年以上も前に写真を表現の手段に選んだ割には、被写体という対象に向き合う姿勢こそが大事だ、などと感じるようになったのは、恥ずかしながらつい最近のことだ。

 作品などと構えるつもりはないけれど、弱り切っている娘との暮らしの中で、まだ二歳の孫の成長が日々手に取るように感じられ、それを記録しておきたいと自然に感じ、かなり真剣に撮っている。親子の関係がそれで微妙に揺れ動いているのがわかるくらいな距離感は、なかなかに興味深い。今、家族だから愛しているのではなく、母ひとり子ひとりの娘家族に少しだけ距離を置きながら、物悲しく、それでいて言葉にならない熱い親しみを感じている。

 やりたいことは、ずっと写真だった。けれども、どうすればそれが自分だけの自己満足で終わらずに、もうすこし広くちょっとでも深く、たったひとりでもいいから生涯忘れられない写真になるものか、皆目わからないままだった。おそらく、やるべきこと、というものがわからなかったせいだ。

 やりたいことは、自分の気持ちのままに好き勝手にやっていればいい。けれどもそれが表現に関わることなら、好き勝手なものに出合っただれがいったい感動し、揺り動かされるだろう。そこには、やるべきこと、というめぐり合わせが、もっと正確に言うなら、これしかないと感じられる関係性があってこそ、より深い表現に近づくのではと、きょう一日考えて、感じた。

 幼い孫との関わりは降って湧いたようなものだが、四十九日の法要を済ませた今は、関わっていることに、与えられたありがたい役割とでも言うような、けれど哀しみももちろん含んでいる、やるべきことが見える。大黒柱を喪った娘と孫、ふたりを細々と支える妻、写真が少しばかり撮れるだけのじじい。まさにここに、これしかないという関係を感じている。

 やるべきこと、と感じて撮っている写真が、近い将来、迷い悩み出す孫の、ほんの小さな支えにでもならないだろうかと、それが今を生きるじじいの支えにもなっている。





























| 00:27 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
memo

 1975 鎌倉


若い頃はなんでも見てやろう、なんでも体験してやろうって生きてたと思うけど、眺めてきただけ、やってみただけ、だったのかなあ。それとも少しは今につながってるだろか。なんだか久々に、「知りたい」っていう気持ちになってきた。本当に知りたいことをずっと先に置いて、少しずつでも「知りたい」。
2 minutes ago via HootSuite

自分らしい、あなたらしい、などのらしさというのも、生まれて以降の擦り込みがかなり影響していそう。親に、周りの人に言われながら、知らないうちに自分らしいと思い込んでいる、とも言えそうな。そんな鎧を脱ぎ捨てると、いくらか元々の自分が見えてくるんだろうか。知りたいなあ、元々。
12 minutes ago via HootSuite

赤瀬川原平『老人力』の、「情報的にスリムになると自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる」という中の、「元にある自分」って、わかるようでわからない。どこからが元なんだろ。生まれてこの方、たくさんの情報を鎧のように着込んでいる。元々の自分? 生れ出たその瞬間?
16 minutes ago via HootSuite

本当に知りたいことってあるだろうか。趣味や気ままな関心じゃなくて、本当に、心底知りたいこと・・・あった。人ってなんで生まれてくるんだろ、精一杯でもいいし、だらだらとでもいいけれど、とにかく生きて、生きて、やがて死んで行くの、なんでだろ。そんなこと、生きながら感じるしかないか。
22 minutes ago via HootSuite

知りたいという欲求こそが、生きる楽しみでもあり、力にもなるか。そう言えばもう何年も、知りたいなんて思ったこと、なかったような気がする。これじゃ情報をまとっていないのに、ひからびていたのとおんなじだ。えらいことに気づいてしまった。
28 minutes ago via HootSuite

情報は自らのアンテナでつかんでくるものだ、というような話を読んだとき、大きく頷いたけれど、必要で的確な情報をつかむというのは、なかなかに器量がいるだろうな。そうか、必要な情報、というのは知りたいという動機がまず先だ。。アンテナを張る、というのはそういうことか。
31 minutes ago via HootSuite

情報に振り回されたい人なんていないと思うけど、実際振り回されている人はいるだろうし、ほとんど情報を仕入れていないぼくでさえ、わずかなものに影響されている。情報って不気味なものだなあ。流されているものを拾ったりして、はたしてそんなものが生と関係あるんだろうか。
35 minutes ago via HootSuite

要はバランス? ちがうなあ。必要な情報はそれぞれでちがうだろうし。 @shizen_no 情報的にスリムになると...自分が剥き出しになってくる。情報で身の回りを固めると、情報が自分を支えてくれる代わりに...自分が何だか干からびてくるんですね「老人力」
40 minutes ago via HootSuite

RT @shizen_no 情報的にスリムになると、自分が見えてくるというか、もとにある自分が剥き出しになってくる。反対に情報で身の回りを固めてると、情報が自分を支えてくれる代わりに、生じゃなくなってくるというか、自分が何だか干からびてくるんですね。---「老人力」赤瀬川原平
about 3 hours ago via twittbot.net





























| 10:25 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
仏さん

 

 「死んだからといってだれでも仏さんになれるわけではありません」。四十九日の法要を勤めてくれたご坊さんが言った。「この世に遺された人が仰ぐからこそ、仏になるんです」。まるで見て来たような話に、ふうぅん、そんなものなのかぁ、と素直になれなかった。不埒な話だが、成仏などという変化にはいまでもまったく関心が向かない。これじゃ自分の浄土への道などさぞかし遠いことだろう。ご坊さんはこんなことも言った。「四十九日の法要は、成仏を願うというより、仏さんになられた人をご縁にして、生きている間にみなさんがお釈迦さんとのご縁を持てるようにとあるんです」。反論する気など毛頭ないけれど、そのために、あいつは逝ったんだろうか。この世でいっしょに生きて、共に泣いたり悩んだりしながら・・・、その先で、ご縁があるならお釈迦さんでもキリストさんでも出合えばいいじゃないか。豊、ばかやろう、いつまでも忘れないで、仰いでやるからな。遺った者らで悩み苦しみ、そのうち大笑いもしてやるさ。





























| 15:35 | 日々のカケラ | comments(1) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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