kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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病室の子らと
 
 入院生活をつづけている友を見舞った。ちがうな、見舞ったというより、会いたくなった。友はことし二十歳。医学の常識を乗り越えて命を保っている。ひとりでは維持できない身体は、医療と介護福祉のスタッフの力で守られ、そしてもちろん家族の支えがあって成り立っている。

  友の名は、悠衣。名は体を表す、というけれど、悠衣ちゃんはまるで悠久の衣をまとった天女のように澄んだ瞳を持ち、透き通るような肌をしている。穢れがないという言葉は、この友のような人のためにあるのではと思ったりする。

 おかあさんの真由美さんに頼まれるまでもなく、このごろ悠衣ちゃんを撮りたいと思うようになった。二、三歳までの命と言われ、いよいよその時かと覚悟を決めなければならない状況を何度も乗り越えてきた。そんな奇跡の人との出合いもまた、奇跡なのではと思ったりする。

 腎臓の機能はもう限界まで来ているそうだが、手に触れると、握り返したのかと思うほどに力を感じた。数年前はちっとも動かなかったのに、肘から上の腕を動かし、きっとこれは踊っている、気持ちを表しているんだ、と思った。レンズを向けると、おそらくは見えていないだろうが、その瞳を大きく開いた。応えてくれたんだろうか。


 悠衣ちゃんの瞳には力が宿っている。はじめてそんなことを感じた。



 人を撮るというとき、その対象となる人に敬意を持たなければならないと、世界中の著名な写真家は言うけれど、そんなこと意識してできるぼくではないだろうと思っていた。その通りだ。意識してすることではなかった。敬う気持ちは、自然にあふれてくるものだった。

 小児病棟にいるのは悠衣ちゃんだけじゃなかった。抗癌剤治療の効かなかった四歳のシュウトくんは、近々おかあさんから移植手術を受けるのだという。カメラマンさんが来てくれているならと、声がかかった。いきなりヘンなおっさんがどでかいカメラを構えて近づくんだもの、緊張するよな。でもそれがとても愛らしい。居合わせた保育園の先生が中に入って和らげてくれた。シュウトくんは急に満面の笑みを浮かべた。ケントくんやヒナノちゃんも撮った。

 心臓病で毎日通院していた小学生のころを思い出した。医者と両親の会話を聞きながら、このまま死んでしまうのかもしれないと、不安でもなくただ茫然として思ったことがある。健康でいることは、けっして普通のことじゃない。普通に病院で過ごさなければならない子らがとても大勢いるのだ。なぜ自分だけ、などと運命を呪えるほどの哀しみも持てない、年端も行かない子らが、おかあさんに甘える大切な時間を狭い病室で過ごしている。しかもどこか毅然とした態度を見せながら。

 夜になって病院を出た。小雨に煙った外の空気がヒンヤリとうまい。ふとまた思う。あいまいな日常の暮らしのことを。あの子らは、退院できたらまっ先に何をするんだろう。早くプリントしてやろう。枕元の壁に貼って眺めると、看病するおかあさんはいくらかでも元気が出るそうだ。どうやら病室の子らもぼくに元気を分けてくれたようだ。




























| 13:06 | 日々のカケラ | comments(3) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ケ・セラ・セラ

 「私はなりゆく」もの、という捉え方を自分に与えるのは、よくよく考えて、至極安易なことかもしれないと思った。なりゆく、という視点は動かせないとしても、ケ・セラ・セラの側面ばかりを見ていたのではどうにも片手落ちだろう。せっかく生まれ落ちた人生を、適当に済ませていいわけがない。

 ほかに必要不可欠なものがあるとしたら・・・

 出て来ない・・・

 目を閉じて、出て来るのを待つしかないだろうか。

 過去の記憶を呼び起こす。いろいろな出会いがあって、今を迎えていることは確かだ。大体がこの親の下に生まれたことじたいが世の出会いのはじまり。物心がついて自分で選び取ることを覚えたが、親の影響が善くも悪くもあるだろう。おやじのようにはなりたくないと、選んできたものが根本にある。それなのにおやじのようでもあることに気づくと、なりゆくことにも、なにか法則じみたものがあるのではと思いたくなる。

 なりゆくとは、変化し、いつもその過程にあること。生きていることはプロセスにすぎないということか。否、すぎないのではなく、プロセスこそが大事なのだ。「私はなりゆく」ものであり、なりゆく過程こそに、もっとも神経を使うべきなのだ。なるようになるさ、と言えるのは、なりゆく方向や姿勢を定めた者にのみ許されているのではないだろうか。



 結局このままでは、死ぬまでの限られた時間に、自分のことも、人生も、そして世界のなにも理解しないままに終わるだろう。あまりに対象が壮大すぎて、手に負えない。この広大無辺な中をなりゆくのだから、せめてできるかぎりは遠くを見ていたい。遠くの世界、遠くの自分。そこにどんな姿を想像しているのかを自分自身に問いかけながらの、なりゆくものでありたい。

 友人が操るヨットに何度か乗せてもらったことがある。不思議な話だが、動力を使わないヨットが風に向かって進むことができるのだ。説明を聞いて力学上の理解はできても、実際に動くには、経験や感がどれほど大きな力になっていることか。海の男の日焼けした顔を思い出すと、このひ弱で青白い心持ちがなんとも頼りないものに思えてくる。

 生きていることを大洋に浮かぶヨットにたとえるなら、時に荒波に翻弄され沈んでしまうこともあるにちがいない。ただそうなる前に出会う数限りない事象を捉える力というものが、航海に出るなら必要だろう。人生は、残念ながら、気づけばすでに海の上だった。出航するもしないも、なにもわからないままに、またはなにもわからない親の言葉に従い、自分を操り出していた。

 出合いとはありがたいものだ。出合いを重ねて、操る技を身につけることができる。出合いとは恐ろしいものだ。言いなりになっていたのでは、望んでもいない所へ連れて行かれる。そして未来の出合いとは、もしかするとある程度は選び取っているのかもしれない。風をついて進むことができるヨットのように。

 だから遠くを見るのだ。右へ左へと近場では蛇行を繰り返しながらも、あの海の男は遠くを見つめていたではないか。せめてなりゆく方向を定めよ。ひ弱なお前でも、それくらいならできるだろう。ケ・セラ・セラと歌うのは、まだすこし先の話になりそうだ。




























| 13:23 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
私はなりゆく
 
 菅啓次郎『本は読めないものだから心配するな』を読みはじめた。

 読書というものをはじめたのは、恥ずかしい話だが、大学に入ってからだった。神田の古本屋を覗いては雰囲気を楽しむだけのまったくバカな学生だったが、そのバカさ加減は今も変わらないけれど、とりあえず年だけ喰ってしまい、喰った分だけ物足りない自分を知っているし、残された人生の持ち時間をフルに使い少しは満ち足りて死んで行きたいと思うようにはなっている。その程度の思いしかない読者にも、この一冊は、大いなる励ましをくれるようだ。

 読みはじめたばかりのページに、こんな一文が引用されていた。

 「私はけっしているのではない、私はなりゆく」(Je ne suis jamais, je deviens)と、二十世紀フランス文学最大の巨人のひとりアンドレ・ジッドはいった。



 そう言えば第二外国語はフランス語だった。などとまるで学んだような気分でいるが、これも恥ずかしい話、フランスのフの字も知らない。ましてやアンドレ・ジッドという巨人さえも知らないで、ああ、これで大学を出た、などと履歴書には書いていた。恥ずかしい。生きて、この駄文をのうのうと書いていることも。

 「私はけっしているのではない、私はなりゆく」。

 だが、この一文にいくらの愚者も救われる。人ははじめから人である必要はない、とでも言われているようだ。私は生まれてから死ぬまでの間、たゆまず変化を繰り返す。行く先はどの程度でもいいのだ。いずれ何度でも生まれ変われば、そこそこのところまでならなりゆくにちがいない。なりゆくものが私であり、人間というものだ、ということにしようではないか。

 写真に出会い、三十年も経った今になって、本当に撮りたいと思い出した。それは自分でも好ましいことだと思ってはいるけれど、それでは本当に撮るとはどういうことだろうか。よくわからない。人間として愚かでも本物でありたいと願うけれど、本物がどんなものか、それもよくわからない。ただわかったことがひとつだけある。世の中で騒がれているものは、どうやらこの人生で求める本物ではなさそうだ、ということだ。騒ぐ世間も含めて。

 なりゆくものは、騒がれることはない。なぜなら、それは騒ぐ世間に作られたものではないからだ。世間とかけはなれ、かけはなれたなりゆくものとぶつかり合い、だからまたなりゆくことができる。なりゆくものは自らの足で立ち、立っているからこそ、成り、行けるのだ。

 愚か者も、その程度を越えることはないだろうが、飽かずになりゆく。飽かずに。





























| 22:21 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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