kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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まなざし
 
 ときどきなにものかに見られているのだと感じることがある。たとえば今しがた蒲団を上げていたとき。パソコンに向かっている今だったり。見られている感覚は、監視されている、というような緊張したものでなく、むしろ見守られているという、安心感を与えてくれるものだ。だからだろうか、ひとりぼっちが嫌じゃない。この感覚はひとりでいる方が掴みやすい。

 だれが見守っているんだろうかと、知りたいわけでもなかったが、空を見上げた。この広い空全体が見ている、というような大仰なものではないけれど、空を見上げるとさらに見られている感覚が強くなった。それでも、空にはいない、と思った。



 ぼくを見ているまなざしが確かにあると、こうして書きながらますます感じている。そうだ、目ではなく、まなざしだ。濁りのない透明な視線だ。それでいて、直線でない広がりがある。広がりという言葉では捉えきれないほど、広い。まるでぼくはそのまなざしの中で生きている。

 思いついて、空に向かって深呼吸をひとつ。まなざしもまた、深い呼吸で応じている。掴みどころはないのに、その中にくるまれているようなまなざしとぼくとは、深い呼吸でつながっているんだろうか。浅くてはいけない。深い呼吸でなければ。

 これでは胎児のようだ。胎児は羊水の中に浮かび、呼吸はまだしていないのだろうか。自分の胎児の時代を思い出せないけれど、その営みに呼吸が必要ないのなら、ぼくはいま、このまなざしの中で、なるべく間隔を空けて、さらに深い呼吸をしよう。見られている感覚のまま、目を閉じた。赤みを帯びた淡い光がまぶたで濾され広がって行く。まなざしはこれかも知れないと、ほんのすこしだけ思った。




























| 09:30 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
葉書

 

 お礼の言葉を、メールではなく葉書に書いて送った。すると、相手の顔が浮かんできた。離れていることは、もしかするととても豊かなことなのかもしれない。離れた人への想いは、距離に合わせて深くなる。メールでももちろん相手のことを想い浮かべることができる。けれどもクリックひとつで送信してしまえば、ぼくの場合はそこで想いは途切れてしまう。どんなに遠くに離れていても、電子メールは即座に届き、その瞬間、ぼくは返信を待つ人になる。それにくらべて、葉書や手紙のゆるやかさがいい。下手な手書きの文字を味があると言って喜んでくれる相手だと、うれしくもある。夕暮れに投函した葉書たちはまだポストの中で眠っているだろう。明日郵便屋さんが集配に来て、黒い鞄の中に取り込み、葉書の旅がはじまる。遠距離用のトラックに乗り一枚は関東方面へ、あと一枚は海の向こうへと空を飛んで行く。その間ずっと、ぼくは友を想いながら過ごすとしよう。




























| 21:47 | 日々のカケラ | comments(3) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
『いのちに贈る超自立論』
 
 安積遊歩『いのちに贈る超自立論』は、ページをめくる度に考え込んでしまう一冊だった。気楽に生きているぼくが軽卒だったと思い知るには十分すぎる内容で、読後はだから、自立している自分に勇気と誇りを、さらには覚悟を持って臨むしかない、という気持ちにならざるを得なかった。

 著者は、生後40日で骨形成不全症と診断されるものの、自らを不全だとは思っていない。「いまの私のからだのままで完全なのだ」と言い切っている。ぼくは、自分のことを完全だなどと思ってきただろうか。あれとこれとが欠けていて、あれもこれもが足りないと、いつもどこかで思っている。

 大勢の人が自分は完全な人間ではないと思っているとしたら、その思いはどこから来るだろうか。著者が問題としてあげている優生思想が、どうやらその根底にあるようだ。「優生思想とは、遺伝的にみて『優良』な生命こそ望ましいとする考え」。優良を設定すればその対比として当然のように劣悪が生まれることになる。優生思想に基づいた法律が世界各地で作られ、強制的な「優生手術」などによりつい最近まで劣悪を淘汰しようとしていたのだ。

 日本では1996年に優生保護法が母体保護法に改正されていることを恥ずかしながら知らなかったが、優生思想そのものは消え失せただろうか。優劣を競う社会は、他者との比較ばかりか、理想とする自分自身との比較をも強要しているのかもしれない。



 著者は、「生まれたときから、あるいは幼いときから障害をもつ人は、そのからだがはじめからの自分自身だから、それを『誤り』『治すべきもの』と言われても、首をかしげるだけだ」と言い、ひとりの人間を「誤り」とする社会を指摘している。出生前診断で胎児を選別し、さらに受精卵診断まで登場した今、生命が卵のうちに「廃棄」してしまう世の中になっている。

 そんな中、著者は40歳で一女を授かる。同じ障害をもつ子が生まれる可能性が高いのを承知の上でのことだった。本書には深い信頼で結ばれた家族との日々の出来事が大らかにつづられ、そこから提起される様々な問題が読者それぞれのものでもあることを、静かに示している。治療の名の下に強要される虐待、臓器移植という生命の商品化、賃労働に参加できないことが悪であるかのような生活保護受給者への圧力、「親子は親子として生まれるのではなく、親子になるのだ」というあるべき姿の提言など、巷にあふれているハウツー本では届かない、考えながら行動しなければ解決できない深みがある。

 「せっかく障害をもって生まれてきた」と言う著者はメッセンジャーとしての役割を自覚し書いている。

 「歴史をふり返れば明らかなように、当事者が声をあげることによってしか、人びとはさまざまな差別・偏見を克服してこられなかった。この歴史のくり返しを、いつになったら、人は止めることができるのだろうか。異なった立場、異質な存在への想像力を、いつになったら、じゅうぶんに発揮できるようになるのだろうか」。

 そして、また思う。ぼくはいつになったら、自分自身を完全な存在であると思えるのだろうか。自分自身に向かい声をあげようかと思う。




























| 00:14 | 日々のカケラ | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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