安積遊歩『いのちに贈る超自立論』は、ページをめくる度に考え込んでしまう一冊だった。気楽に生きているぼくが軽卒だったと思い知るには十分すぎる内容で、読後はだから、自立している自分に勇気と誇りを、さらには覚悟を持って臨むしかない、という気持ちにならざるを得なかった。
著者は、生後40日で骨形成不全症と診断されるものの、自らを不全だとは思っていない。「いまの私のからだのままで完全なのだ」と言い切っている。ぼくは、自分のことを完全だなどと思ってきただろうか。あれとこれとが欠けていて、あれもこれもが足りないと、いつもどこかで思っている。
大勢の人が自分は完全な人間ではないと思っているとしたら、その思いはどこから来るだろうか。著者が問題としてあげている優生思想が、どうやらその根底にあるようだ。「優生思想とは、遺伝的にみて『優良』な生命こそ望ましいとする考え」。優良を設定すればその対比として当然のように劣悪が生まれることになる。優生思想に基づいた法律が世界各地で作られ、強制的な「優生手術」などによりつい最近まで劣悪を淘汰しようとしていたのだ。
日本では1996年に優生保護法が母体保護法に改正されていることを恥ずかしながら知らなかったが、優生思想そのものは消え失せただろうか。優劣を競う社会は、他者との比較ばかりか、理想とする自分自身との比較をも強要しているのかもしれない。
著者は、「生まれたときから、あるいは幼いときから障害をもつ人は、そのからだがはじめからの自分自身だから、それを『誤り』『治すべきもの』と言われても、首をかしげるだけだ」と言い、ひとりの人間を「誤り」とする社会を指摘している。出生前診断で胎児を選別し、さらに受精卵診断まで登場した今、生命が卵のうちに「廃棄」してしまう世の中になっている。
そんな中、著者は40歳で一女を授かる。同じ障害をもつ子が生まれる可能性が高いのを承知の上でのことだった。本書には深い信頼で結ばれた家族との日々の出来事が大らかにつづられ、そこから提起される様々な問題が読者それぞれのものでもあることを、静かに示している。治療の名の下に強要される虐待、臓器移植という生命の商品化、賃労働に参加できないことが悪であるかのような生活保護受給者への圧力、「親子は親子として生まれるのではなく、親子になるのだ」というあるべき姿の提言など、巷にあふれているハウツー本では届かない、考えながら行動しなければ解決できない深みがある。
「せっかく障害をもって生まれてきた」と言う著者はメッセンジャーとしての役割を自覚し書いている。
「歴史をふり返れば明らかなように、当事者が声をあげることによってしか、人びとはさまざまな差別・偏見を克服してこられなかった。この歴史のくり返しを、いつになったら、人は止めることができるのだろうか。異なった立場、異質な存在への想像力を、いつになったら、じゅうぶんに発揮できるようになるのだろうか」。
そして、また思う。ぼくはいつになったら、自分自身を完全な存在であると思えるのだろうか。自分自身に向かい声をあげようかと思う。