イブの晩は、詩を書く友人と過ごした。ふたりは形だけではない表現を求めている。ぎゅーっと心を鷲掴みにされるような詩に出会い、そんな詩を書きたいと、友人は言った。美しい言葉が並ぶだけじゃ深まりがない、とも。現代詩に興味はあっても何も知らないぼくには、詩人の心情を正確に汲み取ることは難しいのだろうが、気持ちはよくわかった。一年ほど前、『風の旅人』の佐伯編集長から、美しいだけの写真には興味がない、と評されたことを思い出す。ぼくの写真は美しいだけのものなのかと、今日までずっと考えてきた。
美しい、とひと言で感嘆の言葉をあげてしまうとき、確かにそれ以上の思いは浮かんで来ないような気がする。大自然に感動するとき、花やペットを愛でるとき、美しいとかかわいいとだけ言っていたのでは、それは表面を捉えているのでしかないだろう。あるいは、それ以上の深い思いがあったとしても、それは即座に神を思うような、誰もが感じる、もっとも普通で有り体な感覚なのかもしれない。ぼくはおそらく、それとはちがう道を歩いて彼岸へと近づいて行きたいのだろう。
将来が有望な友人は、この人になら学びたいと、大阪まで通いながら詩の道を精進している。ぼくはときたらどうだろうか。写真道というものがあるなら、それをまっしぐらに歩いてみたいと思っていたが、今はもうそんな気概は消え失せた。美しいだけの写真をすこし離れて見られるようになったせいか、人の評価などもう必要なくなっている。それでも撮りつづけるのだと、確かに思える。ぼくのため? 表現のため? 写真家を目指すから? 世界を理解したいから? なぜ写真を撮るのだろう。もしかすると、その理由さえ必要なくなっている。ただ、撮れるような気がするだけ。三十年もの間撮ってきたというのに、初めてのこの感覚。ぼくの写真をこれからようやく撮りはじめるのだと、わけもなくそう思う。
友人に向かって言った。深い詩と、深い写真がいつかできたなら、その時こそは一冊にまとめよう。ふたりであたためている小さな願いだった。