kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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再出発
 あれから三年・・・、ぼくの何かが変わっただろうか。友の死を悲しみ、その悲しみを糧として生きようと誓いながら、たとえばもう人を批判したりしないと誓いながら、人間とはなんと生半可な、否、ぼくという人間はなんといい加減なものだと言うしかない日々を過ごしている。友を想わない日はなかったとしても、悲しみという痛みを、いつの間にか、時間という薬が和らげている。それがまた哀しいのだけれど。

 あれから三年、友が生きているなら、それとはちがう出会いが今はあり、それとはちがう流れの中でぼくは生きている。『風の旅人』という雑誌を知り写真への情熱がわきあがってきた。たかが雑誌と、これまでは思っていたけれど、こればかりはちがった。編集者の真剣なまなざしに打ちのめされた。ぼくがこの人生でせっかく出会い好きになった写真なのだ。できることなら死に物狂いでつき合いたいと思うようになった。命日の昨日は、だからぼくの、これからの新しい日々の再出発にしようと思った。生まれ変わる、というつもりだ。

 カメラをぶらさげ、ふるさとの町をぶらぶらと歩いた。どこか宛があるわけでもないので、車はやめて石川総線に乙丸から乗った。昼日中の田舎の電車に、乗客は少なかった。まるでバスガイドを想わせるしゃれた制服の若い女車掌が近づいてきた。「野町まで」と声をかけると、綴じた伝票のような一冊を開き、薄っぺらな切符にカチカチと何度か鋏を入れた。あまり手慣れていない仕事ぶりが、旅で出会うシーンのように新鮮だった。窓の外には見馴れた風景が見馴れない角度で流れていた。視点が変わると、まるで自分自身が変わったような気がした。

雨宝院の地蔵さん

 終点で降りて、家から離れたいのだから、足は当然のように犀川方面へと向かった。国道はつまらないと決めつけて、用水沿いの裏通りを歩いた。金沢には用水が多い。軒下を流れている野町の辺りは、ガイドブックには欠かせない武家屋敷の長町とはずいぶんとちがい、庶民の町の風情があった。これは地元民ならではの小さな旅だ。

 なんとも古めかしい床屋を見つけた。くるくると回るサインは今でもどこの店でも変わらないだろうが、BARBERと、上品で威厳のある文字が浮かんだ波状のガラスを透かして、どっしりとした懐かしい椅子がふたつみっつ並んでいるのが見えた。散歩はやめて散髪してもらおうかと迷ったけれど、改めて出直そう、ということにした。この数年、鋏一本で自前で済ませてきたぼくだが、古き良きものとふれあってもみたい。

 神明宮の裏に出た。威風堂々の欅の大木は、樹齢千年だと書いてある。落ち葉が桁違いに積もっているのは掃き掃除をしていないからだろうが、足首まで沈み込む感触を町中で味わえるなどそうはないだろう。大きな紙を地面に置いて、パステルで木を描いている人がいた。ながめているだけで散歩の気分が満たされた。

 犀川大橋詰めの雨宝院は、もらわれた身の犀星が育った寺。観光客になって案内板を読んだ。近所の生家跡に建つ室生犀星記念館にも寄った。初めての入館だが、思えば作品もほとんど読んでいない。鏡花も秋声も知らないのだから、これで金沢市民というのはあまりに恥ずかしいかも知れない。これからぼくは、本当の意味で写真を撮りたいのだ。本当、ということの意味をほかの言葉に置き換えることがまだできないけれど、住んでいる土地を見つめることや撮りたい能登を感じることと、文豪たちが遺してくれた世界を読んでみることの間にも、なんらかのつながりがあるような気がした。広くて深い世界なんだろう。これでは人生の残りの持ち時間がいくらあっても足りないかも知れないと、可笑しくなる。ほんとうに遅すぎた再出発だが、それがぼくだったのだから、生きるしかない。






| 13:30 | 日々のカケラ | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
「県外移設は可能」
 「普天間移設非公式協議 98年3月当時、米『県外可能』を伝達」(琉球新報)という記事が15日付けで掲載されている。こういうの、結構大きなニュースだと思うのに、沖縄の外へと広がって来ないもんだなあ。要するに、これまでの日本の政府は沖縄の基地を少しでも減らして負担を軽くしようなんて、これっぽっちも考えてなかったって、そんな気がするけど。在日米軍専用施設面積というものの約75%が沖縄にあって、それが県土面積の約11%を占めているという事実を、読まれたみなさんはどう思われますか? 多額の虚偽記載問題でどうにも足下が危ぶまれる鳩山さんだけど、がんばれ!と応援したくなる。こんなに一生懸命な政治、生まれて初めて見ているような気がするけど、マスメディアの報道は連日けなしてばかり。ここ石川の新聞だって、北陸新幹線が予定通りに完成しないのではとか、そんなのばかり。庶民の多くは新幹線なんて大して興味ないと思うけど。メディアなんてまったく宛にならないかもしれない。

 とりあえず、新報の記事をここにも書き残しておこう。

*****

「普天間移設非公式協議 98年3月当時、米『県外可能』を伝達」

 米軍普天間飛行場移設をめぐり、大田昌秀知事(当時)が代替施設を拒否した後の1998年3月、日米の非公式協議でカート・キャンベル米国防次官補代理(現国務次官補)が日本政府の決定次第では、北九州など県外への移設が可能だとすることを、日本側に伝えていたことが琉球新報が14日までに入手した政府内文書で分かった。県外移設が不可能な理由について日本側が挙げた「沖縄の戦略的位置」を打ち消し、地元の反対など政治的に移設先を準備できないためだと指摘した。

 文書は98年3月13日付。非公式協議は神奈川県内のホテルで開かれ、日本側から防衛庁審議官と外務省北米局審議官らが出席、米側はキャンベル氏のほか在日米大使館公使らが参加した。協議で日本側は、県内移設の理由を国民に説明するため、米側に認識の調整を申し出た。

 日本側は県内移設の理由として「沖縄の戦略的位置」を挙げ、さらに「沖縄に海兵隊を支えるためのインフラがあることそのものが、在沖海兵隊の県外移駐を困難なものとしている」と説明した。

 これに対し、キャンベル氏は「違うのではないか。事実は、日本政府が沖縄以外に海兵隊のプレゼンス(存在)を支える基盤提供が政治的に不可能だということだろう」と指摘し、米側の運用を理由にすることをけん制した。北九州や四国への移設は可能かとする日本側の問いにキャンベル氏は「当然だ」と答えた。

 政府内文書は、日米特別行動委員会(SACO)当時は、米側に県外移設受け入れの余地があったものの、日本側が国内調整できなかったことを示すものだ。その後、2001年の9・11米中枢同時テロ以降、戦略環境が変わったとして米軍再編協議では県外移設は議論していない。



◆解説/当時の日本側に不作為 米は軍事的理由却下

 米軍普天間飛行場移設をめぐる日米特別行動委員会(SACO)当時の日米交渉で、米政府側に県外移設を受け入れる余地があったにもかかわらず、県内に集約したのは、県外への移設先を模索する努力を怠った当時の日本政府の不作為による結果だ。普天間移設の停滞は結局、返還合意から13年間、日本国内の政治力の欠如がもたらしたものだ。

 これまで県内移設となったことについて日本政府は、地理的に沖縄が優位だとする軍事的な理由を前面に説明してきた。だが、その理由はSACO当時に米側から却下されていた。

 米政府の姿勢を受け、日本政府側が発した「県外への移駐が米側として運用上受け入れ可能というのがもっと以前に分かっておればと思う」との嘆息は、とりもなおさず、日米協議で県外を具体的に取り組んでこなかったことを示すものだ。

 「何千という海兵隊員の常駐を受け入れてくれる場所が一体日本のどこにあるというのか」とするキャンベル氏の指摘は、挑発でもあり、皮肉にもその後の県内移設合意を見透かしたものだった。この問いはまさに、現在の鳩山政権にも向けられている。

 普天間移設の経緯を検証している岡田克也外相は、県外移設は検証対象になっていないとしている。だが、米政府が県外移設受け入れの可能性を示していたことは、鳩山政権にとっても、あらためて県外の検証を迫るものとなる。(滝本匠)



<日米非公式協議の概要 「普天間」移設関連部分(要旨)>1998年3月13日

 防衛庁防衛政策課部員 県内移設の理由としてわれわれが言っているのが、沖縄の戦略的位置ということ。地元などには非常に言いにくいのは、沖縄に海兵隊を支えるためのインフラがあることそのものが、在沖海兵隊の県外移設を難しくしている、ということだ。

 キャンベル国防次官補代理 それは違うのではないか。事実は、日本政府が、沖縄以外で海兵隊のプレゼンスを支える基盤を米側に提供することが政治的に不可能だ、ということだろう。日本側の政治的事情と米側の作戦上の理由を混同してはならない。

 防衛政策課部員 仮に日本政府が北九州や四国なりに適当な基地や厚生機能など軍事インフラを提供すれば、沖縄の第3海兵機動展開軍(3MEF)は、そこに移駐することが可能か。

 キャンベル氏 当然だ。沖縄以外にそのような場所があれば、われわれは瞬時に移駐を決断するであろう。

 守屋武昌審議官 それは、これまで聞いている話と随分違う。

 防衛政策課部員 沖縄の3MEFすべてではなく、例えば第36海兵航空群か第3海兵師団を県外に移駐することも理論的には可能か。

 守屋審議官 沖縄所在の3MEFの具体的にどの部分が県外に移駐可能かについてのアウトラインを示すことは可能か。

 キャンベル氏 そのような検討は、日本側が移駐先候補地を極めて具体的な形で米側に示してからでないと、とてもできない。ポイントは政治的なリスクを減ずることだ。しかし、県道104号越え射撃訓練の分散実施だけで、各地で騒ぎが起こっており、何千という海兵隊員の常駐を受け入れてくれる場所が一体日本のどこにあるというのか。

 守屋審議官 県外移駐が米側として運用上受け入れ可能ということがもっと以前に分かっておればと思う。







| 22:24 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
流砂
 これまでのぼくと、これからのぼくは、すこしちがうような気がしている。と、かなりの期待をこめて、半年ほども前から予定していた写真展の内容を今の気持ちに合わせて変えてみた。タイトルは、流砂。三年前の夏の夕暮れに見ていた静かな波打ち際を思い出す。海の妖精がいるなら、ふうっと息をふきかけ揺らいだような、さざ波とも言えない小さな波にも、砂つぶはころころところがっていた。砂つぶはどこへでも流されてゆくけれど、その固いつぶを見ていると、きっとこの中には意思があるのだと、思った。ぼくも、意思を持とう、と思う。だから、流砂なのだ。



 写真展は、ここまで流されてきたぼくという砂つぶの、ひと区切りとしよう。大したテーマも持たないで、よくもここまで撮ってきたものだ。そればかりは誰も知らないことだから、自分でほめてやろう。でもここからは、まだ言葉にはならないけれど、テーマかそれとも意思のような、まなざし、というものを育てたい。砂つぶはころころと、ひとつの目となってころがっていこう。

 祈り、という言葉に、静かに、それでも敏感に反応している。祈るとは、どういうことだろうか。ぼくには生涯わかりそうもないことと、残りの日々にカメラをたずさえつきあっていこう。原っぱに立ちながら、今朝はそういう気持ちになった。 






| 16:36 | 写真 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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