ヴァーチューズ・プロジェクトが提唱している「スピリットを尊重する」というときの、スピリットとはいったいなんだろうかと、これはいつも参加者に問いかけていることだ。そして問いかけているぼく自身にもそれはわからない。
スピリチュアルという言葉が、まるでブームのように氾濫している。スピリットという概念は日本人にはないものだと通訳の友人が言っていたが、ということは、スピリットの存在自体への理解はとりあえず後回しにして、その形容詞ばかりが、つまりはその雰囲気ばかりが広がっているということになる。
映画『地球交響曲』の監督、龍村仁さんもその著書の中で、スピリチュアルという言葉を日本語に置き換えるのは難しいようなことを書いていた。霊的と言ってしまうとどこか近寄り難く、オカルトではちがう世界に行ってしまいそうだし、光だ、などとわかったようなつもりになっていると、それはどこか遠くの、現実とかけ離れたものになる。結局は翻訳できずにそのまま外来語として使っている、ということか。
スピリット、それはいったいどんな存在なんだろう。言葉として使っている英語圏の人たちはどう捉えているんだろう。使っていない日本人にもあるんだろうか。魂、内なる神、本当の自分などと表現しているものと同じなだんだろうか。どれも見えない存在だ。見えないけれど、それでは使っている人たちは、感じているんだろうか。そんなことを考えていると、スピリチュアルな道というものが、なんとあいまいなものかと可笑しくなってくる。
ぼくもまた、十数年も前に、日本語で聖なる光の使者と訳すエミサリーという共同体が開くアート・オブ・リビング・セミナーに出会い、スピリチュアルな道を歩きはじめたひとりだ。その後、そこで出会った友人の大亀安美さんがオーガナイズするマイケル・J・ローズのリトリートにも参加、数年前には大枚をはたいてわざわざインドまで出かけ悟りを求めた。今は「内なる美徳を呼び起こす」ヴァーチューズ・プロジェクトにも関わっている。けれども、それがスピリチュアルな道なんだろうか。ぼくはスピリチュアルな人なんだろうか。考えれば考えるほど、そうでもなさそうな自分を知っているだけに、可笑しくなってくる。
聖なるもの、神秘、奇跡などなど、霊的な世界には、興味深い言葉があふれている。現実的な視点で生活に追われていると、そういう言葉に惹かれるということはあるかもしれない。そして求めはじめる。なにを? それがわからないから、歩き続ける。感じるということを頼りに、直感やひらめきという感覚に従い、愛という唯一絶対の安心につつまれていることを信じて。
スピリチュアルなセミナーなどはこの不景気な時代にあっても高額な参加費を要求しているけれど、どこに価値を置くかはそれぞれだ、などと言われれば、ついその気にもなってしまうものだ、とこれはぼくの経験談だ。そうして参加できる人は、ほんとうに幸せな人たちだ。そしてその幸せを周りへと分かち合うことができるなら、ある程度の目的を果たしたことにもなるだろう。
けれども、人はなぜこの世に生まれてくるんだろう。生まれて生きるとは、どうすることだろう。幼いころになんとなく感じていたことを、ぼくはこの年になってもまだぐだぐだと考えている。きっと死ぬまでそうしているんだろうと情けなくなるけれど、その大枚をはたいて出かけたインドで感じたことがひとつだけある。それは、ぼくの日常こそが、普通のなんでもないふれあいこそが、果てしのない神秘の世界の一端なんだということだった。
ひとり静かに座っていた夜の屋上に、ゆらゆらと一匹のホタルが飛んできた。そのときちょうど、見えない存在に向かって話しかけているときだったから、思わずため息まじりに見とれてしまった。宙を舞いながら光る昆虫がこの世にいる。それがとても神秘的なことに思えた。
日常に神秘があふれているなら、わざわざ神秘を体験するために外へ出かけることもない。ワンネスだ、すべてはひとつだと言いながら、彼岸と此岸を分けている霊的な人々の不思議にも気づく。数々のセミナーに参加して自分なりに辿り着いた、境地とも言えない境地がこれではすこしお粗末な気もするが、これがぼくだから仕方がない。
あれこれとセミナーに参加している相部屋の人が、セミナーの比較をはじめたことがあった。どのセミナーも結局は見つめるのは自分自身だと言っているのだから本末転倒な話にはちがいないが、ほかを知れば知るほどそうなってしまうのも頷ける。食べてばかりで消化しなければ、体は悲鳴をあげてしまうだろう。下痢でもするのが落ちだ。きっと下痢さえも浄化だと言うのだろうが。
そうだった、スピリットの話だった。
このところスワイショーのあとに三円式站とう功をしている。胸の前で気のボールでも抱えるように両手を広げ、そのまま立っているだけの気功だが、気功は内気のめぐりを調えることでもあるのだから、動かない静功ほど実はダイナミックだったりする。風水で気の良い土地を求めて人が集まれば、その気は乱れるばかりかもしれないが、自らが良い気の場になろうとする站とう功のひとときは、立っているのが自分の体を越えたなにかであることを感じさせてくれる、ぼくにはとても貴重なものだ。立っているなにか、ここに生きているなにか。それがスピリットであろうがなかろうが、ぼくにはもう大した問題にはならなかった。ただそれは、どこか遠くの知らない星にあるのでも、手の届かない永遠の彼方にあるのでもない。今、ここに息づいている、日常のこのぼくのことだ。人という存在こそが神秘なのだ、と今感じている。
日常をどう見るか。功成り名を遂げることが人生か。幸せになることが生きることか。スピリチュアルな道というものも、人生や日常をどう見るかという、それぞれの見方の延長に過ぎないのではと、今朝はそんなことも感じている。そしていつも思うのだ。セミナーなど一度も参加したことのないヨシエどんの笑顔の中に広がっているスピリットのことを。