若いころから枯れてゆくものに惹かれては、撮ってきたけれど、このごろその度合いがますます強くなってきた。惹かれる、というより、むしろ、枯れてゆく者として親しみを感じているのかもしれない。
花の盛りはもちろん美しいけれど、薄汚れてきたころの、すこし疲れたような花を見ていると、なんとも言えない味わいを感じてしまう。その味わいをひと言で表すことなどとてもできないが、そのとき、美しさを越えた、崇高なまでの、思わず祈りたくなるような気持ちにさえなる。
だがぼくは、祈りとはなんなのかを知らない。祈りという響きに憧れさえ感じているのに、祈りの意味を知らないのだ。祈るとは、どうすることか。だれに祈るのか。なにを祈るのか。祈ると、どうなるのか。それらすべてのほんとうのことを知らないぼくは、だからほんとうには祈ったことがない。
枯れてゆくものを見つめていると、ごくろうさんでした、とささやきかけたくなる。そしてなぜだかわからないけれど、また歩き始めることができる。ぼくはそのとき、なんとも言えない強烈な存在感を感じているのだろう。枯れてゆくものは、もうなにひとつ主張していないというのにだ。
枯淡という言葉がある。俗気が取れ、淡々として、しかも深いおもむきを内に宿していることだろうか。宿しているものは、けして見えないのだ。宿しているから、培うことができるのだ。枯れてゆくものには、そういうおもむきがあるのかもしれない。
ぼくも、そろそろと、枯れていく日々だ。自分で自分のおもむきなど感じることはできそうにないけれど、せめてこの平凡な毎日を噛みしめていたい。残された人生の日々の、今日という日はいつも初日で、だから新しい。枯れてゆくことの中にこそ、鮮烈な命を静かにわしづかみしている手応えがある。枯れてゆくものは、だから、ほんとうに生きているとも言えるのだ。できることなら、その生きている間に、祈りの意味を知りたいものだ。