千晶さんとコンビを組んでの北海道ツアーが、ようやく今日で終わる。映像と竪琴ライアの調べ「あめつちのしづかなる日」、というタイトルをつけて、気持ちだけでも広がるようなひとときにしたいと思いながら、やはりぼくは素人にすぎなかった。一週間という長丁場は自分自身を維持することに精一杯で、なんとか維持したその自分を素直に表すことしかできなかった。あめつち、などと大上段に構えるなんて、百年早い、というもんだ。
人が嫌いなわけではけしてないけれど、毎日のように人に接したり、同じ人とずっといると、それだけでぼくにはかなりな修行になった。小さなことが気になってしまう。気持ち良くいられない自分の心にため息が出る。だれもかれもがとても親切で、こんなド素人の芸に心を寄せてくれて、それが多少の負担にもなり、それでなんとか自分を保つことができた。得難い経験と言ってしまえばそれまでだが、自分のことではなく人が気になり、そしてそんなぼくというちっぽけな人間の性分を嫌と言うほどまでに感じる日々だった。ようするに心底疲れた、ようだ。
この、心底、という言葉、なかなか面白い。心の奥深い底、本心ということだろうか。揺れる心に、心そのものが疲れる、などということがあったのだ。否、それが心底疲れるということだった。鬱という状態の苦しみをぼくは本当にはまだ知らないだろうが、この数日の状態がひと月、ふた月と続くなら、そうなってしまうような気がする。心の旅、などと悠長なことを言っている場合ではなくなってしまう。しかし、心底の体験こそ、ほんとうの旅なのかもしれない、とも思う。自分自身を追いつめ、もう逃げようがなくなり、爆発するしかなくなったとき、にこそ、心の旅のステージはより深く切り替わるのかもしれない。自分を抑え、適当に解放している、その繰り返しの中で人生がなんとなく過ぎてきた。それがここまでのぼくだった。
昨日は参加者がわずか数人の会だったから、というだけが理由でもないけれど、やけくそ半分で歌を歌った。一応は参加費をいただいている有料の会で、しかも相棒が静かにライアを奏でるプロの音楽家で、こんな気ままが許されていいものか、などとは考えなかった。桝野正博という人間がここにいて、それも世界にはたったひとりしかいなくて、それが歌うのだ。それでいいじゃないか、という、なんともわけのわからない理由で歌った。
円山の麓にある「響きの杜クリニック」の洒落たホールの室内の、天上も壁もぶち破って、空に向かって背伸びする気分で歌った。まだまだ伸びやかに歌えそうな余力を感じながら、それでもこれが今の限界だというところまで自分の内を感じた。ぼくの中味は空っぽだった。体は器にすぎず、それが虚しいほどに空っぽだった。一分にも満たない短い時間の芸を人がどう感じようがぼくには関係のないことだった。ただこの虚しさをどこかに吹き飛ばしたかったのだと、今になって感じている。
癒し、やすらぎ、夢、希望。喜び、慈しみ、思いやり。支え、助け合い、寄り添い合う。人が感じる気持ちのいい世界はたしかにあるだろうが、それを目指して公言するようなことをぼくは嫌っている。簡単に言葉にしてしまうと、それはただのスローガンのように成り下がる。美しい言葉は、どこかウソっぽい。そんな気がしてしまうのだ。そんな気がしてしまうぼくを解放しなければならないとき、これからは歌を歌おう。誰もいない原っぱだけでなく、何人もの解放しきれない人がいる会場でも、雑踏の町中でも、それがぼく自身をなぐさめる意外に効果のある芸のようだ。
今日はツアー最終日。揺れる心に揺れながら、それでもかすかに感じる自分の芯をたまには思い出そう。芯以外は、片時の気ままなぼくにすぎないのだ。北海道ツアーは、もうこれが最後にちがいない。言葉ではなく、心をせめて。揺れながら。