kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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切り撮りあそび


 切り撮りあそびを楽しんでいる。世の中のなんの役にも立たない遊びだが、ぼくにしてみれば、老後があるならその退屈そうな日々を生きる支えにもなりそうだ。たとえばまっ白な春の雪の上に落ちた影を切り撮って、ひとりで満足している。自己満足と言うやつだ。どうせなら自己陶酔まで昇華するといいのに。影は、実体よりずっと面白い。影だけ見ていると、いろいろに想像してしまう。血管のようでもあり神経のようでもあり、でもどちらも見たことがないのだから、いい加減な想像だ。たとえば水面の波紋を切り撮る。これは動いているのだから、この瞬間はこの瞬間にしかない。うまく行ったからと言ってどうと言うこともない遊びだが、これも満足の一枚になるとうれしくなる。それにしても切り撮った外には限りのない風景が広がっているのだと気づくと、この遊びにもいくらか意味が生まれた。ファインダーの中の風景は生きているぼくがこの目で見たものだ。忘れないでいよう、この風景を。ほかにはどんな意味もいらない。それだけで十分に遊ぶ価値がある。







| 21:07 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
祈るように
 医王山づいている。昨日は見晴らしのいい覗へ、今日は大池平まで歩いた。いくら低山とは言え、冬の山にはとてもかなわない。二日続きの春の雪が気軽に冬の気分を体験させてくれた。大沼(おおいけ)の周りは水分をたっぷりと含んだ新雪につつまれ、ひとりたたずむ静かなひとときは、まるでプライベートなサンクチュアリにいる気分になった。そうしていることが、ぼくにうってつけのとても自然なことに思えた。

 友が、『暮らしの手帖』の記事から、素敵な言葉を贈ってくれた。ロシアの辺境の村でマトリョーシカを作っている夫婦の話だった。夫が木で人形の形を作り、その一つ一つに妻が絵を描いていく。マトリョーシカを知らないぼくはさっそくネットで検索。こけしのような入れ子人形で、手作りならではの温もりが幾重にも詰まっていそうだ。その妻の言葉だった。

 「教会で祈るより、自分たちの暮らしや仕事の中で祈ることが必要であり、救いではないかと思うようになりました。マトリョーシカ作りは、今ここにいることへの感謝と祈りだと気付いたのです」。

 読んですぐにうれしくなった。告白すると、ぼくは祈りの意味がよくわかっていない。わかっていないけれど、祈りという響きには憧れている。人形作りが祈りなら写真を撮ることも祈りにならないだろうかと、単純に思ってしまった。



 ぼくはどうやら、『風の旅人』の編集長が言うような写真家にはなれそうもない。独自のまなざしを持ち、そのまなざしで世界を見つめ撮ることに憧れてはみたものの、そして毎日のように撮ってはいるものの、どうも肝腎のまなざしと言うほどのものを持ち合わせてはいなかった。だが写真愛好家ぐらいならなれるだろう。なにより写真が好きだ。そしてできるなら、撮ることにすこしの意味付けが欲しいと思っていた。せめてもの心構えというやつだ。好きなだけではどうにも味気ない。だからこの祈り、ちょっとばかりうれしい出会いだ、などと言っているようでは重みがなさ過ぎるだろうか。

 祈るように撮ることができたらうれしい。シャッターを切る度に自然界が呼応して歌い出すかもしれない。すると撮るばかりでなく、次にぼくは踊り出すのだ。バカなことを想像しているものだが、なんとなく今の気分にぴったりかもしれない。

 小枝に留まった雪が音を立てて湖面に落ちる。あちこちで波紋が広がり、映りこんでいる木々が揺れる。この当たり前の現象を観ながら、ぼくは何かを感じている。だから撮りたくなるのだろう。カメラを持っていれば誰もが撮りたくなるかもしれない。せめてぼく独自のフレームで切り取ろう。それも祈るように。これは天がぼくに与えた聖なる切り撮り遊びなんだ。大いに満足して、帰り道は大声で歌ってやった。「ありがとう〜♪ありがとう〜♪」。まったく呆れた写真愛好家だが、とりあえず気分は最高だ。静かな山道にやまびこが返ってくる。「ありがとう〜♪ありがとう〜♪」。







| 18:21 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ヒトの二面性
  「動物的な存在」と「文化的な存在」というヒトの二面性に迫る。番組欄の案内に惹かれて、『サイエンスZERO』を見た。ある種の性格は遺伝子に関わっていること、雄としての男の闘争本能についてなどとても興味深い内容だった。惜しむらくは限られた時間では深まりようがないのだろう。

 番組の中で、世代別の殺人の比率を表す統計が紹介されていた。人口100万人あたりの数を分析したもので、文化の違いを越えて世界中の国が同じパターンを示していた。これをユニバーサル・カーブと言うそうだが、20代の男性が突出して多く殺人を犯しているものだった。

 コメンテーターの話は、数の多い精子が数の少ない卵子をめぐって争うという生物共通の原理が人間に作用している影響だろうというものだった。男には負けたくないという気持ちがあるからだろうと。確かにぼくにも劣れてきたとは言え、そんな気持ちが宿っている。ところがだ、その世界共通のパターンから抜け出した国がひとつだけあった。この日本だ。1950年代にユニバーサル・カーブだったものが、このわずか50年で年代別の差がなくなっている。



 
 男が男でなくなったのだろうか。番組では社会や文化の影響で大きく変動もすると言っていたが、果たしてどんなふうに社会が変わってきたのか、残念ながらそれを究めるところまでは行かなかった。草食化しているという若い男性の、これもひとつの裏付けか。

 さらに興味深いデータが紹介された。一瞬のことだったので数字はあいまいだが、人口100万人あたりの殺人の数は、日本はわずかに6人ほどでもっとも少ない国のひとつだった。最多は600人を越えていたような気がする。マスメディアは毎日のように繰り返して殺人や凶悪犯罪を報じているから、それを見聞きする国民はうんざりするか麻痺してしまいそうになるけれど、世界にくらべれば、この国はほんとうはとても安全な国のようだ。

 人間は動物的な生き物で、文化的な存在でもある。だからだろうか。地球環境を守ろうと唱えながら、行動はチグハグだったりする。多額の金でCO2の排出量枠を買い取ったかと思えば、用もないのにドライブに出かけろと高速道路を安価で開放している。人間社会は、ほんとうにややこしい。


| 07:45 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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