医王山づいている。昨日は見晴らしのいい覗へ、今日は大池平まで歩いた。いくら低山とは言え、冬の山にはとてもかなわない。二日続きの春の雪が気軽に冬の気分を体験させてくれた。大沼(おおいけ)の周りは水分をたっぷりと含んだ新雪につつまれ、ひとりたたずむ静かなひとときは、まるでプライベートなサンクチュアリにいる気分になった。そうしていることが、ぼくにうってつけのとても自然なことに思えた。
友が、『暮らしの手帖』の記事から、素敵な言葉を贈ってくれた。ロシアの辺境の村でマトリョーシカを作っている夫婦の話だった。夫が木で人形の形を作り、その一つ一つに妻が絵を描いていく。マトリョーシカを知らないぼくはさっそくネットで検索。こけしのような入れ子人形で、手作りならではの温もりが幾重にも詰まっていそうだ。その妻の言葉だった。
「教会で祈るより、自分たちの暮らしや仕事の中で祈ることが必要であり、救いではないかと思うようになりました。マトリョーシカ作りは、今ここにいることへの感謝と祈りだと気付いたのです」。
読んですぐにうれしくなった。告白すると、ぼくは祈りの意味がよくわかっていない。わかっていないけれど、祈りという響きには憧れている。人形作りが祈りなら写真を撮ることも祈りにならないだろうかと、単純に思ってしまった。
ぼくはどうやら、『風の旅人』の編集長が言うような写真家にはなれそうもない。独自のまなざしを持ち、そのまなざしで世界を見つめ撮ることに憧れてはみたものの、そして毎日のように撮ってはいるものの、どうも肝腎のまなざしと言うほどのものを持ち合わせてはいなかった。だが写真愛好家ぐらいならなれるだろう。なにより写真が好きだ。そしてできるなら、撮ることにすこしの意味付けが欲しいと思っていた。せめてもの心構えというやつだ。好きなだけではどうにも味気ない。だからこの祈り、ちょっとばかりうれしい出会いだ、などと言っているようでは重みがなさ過ぎるだろうか。
祈るように撮ることができたらうれしい。シャッターを切る度に自然界が呼応して歌い出すかもしれない。すると撮るばかりでなく、次にぼくは踊り出すのだ。バカなことを想像しているものだが、なんとなく今の気分にぴったりかもしれない。
小枝に留まった雪が音を立てて湖面に落ちる。あちこちで波紋が広がり、映りこんでいる木々が揺れる。この当たり前の現象を観ながら、ぼくは何かを感じている。だから撮りたくなるのだろう。カメラを持っていれば誰もが撮りたくなるかもしれない。せめてぼく独自のフレームで切り取ろう。それも祈るように。これは天がぼくに与えた聖なる切り撮り遊びなんだ。大いに満足して、帰り道は大声で歌ってやった。「ありがとう〜♪ありがとう〜♪」。まったく呆れた写真愛好家だが、とりあえず気分は最高だ。静かな山道にやまびこが返ってくる。「ありがとう〜♪ありがとう〜♪」。