沖縄からもどってすぐの二日間は、ヴァーチューズ・プロジェクトの活動に参加した。いつもなら旅の余韻に浸っていたいところなのに、今一番大切にしていることで過ごしたかった。
ヴァーチューという言葉を、この小さなブログの場でいくら声高に(いや大文字で書こうが)、いったい何人の人の心に届くだろうか。美徳という響きは古くさく、現代には馴染みが薄いだろうか。
昨日は富山で、ヴァーチューズ「雪の花」の集いがふたつも開かれ、いよいよ福井から他県へと飛び火することになった。「雪の花」のメンバーは、今ではぼくの大切な仲間だ。富山にも同じように大切な友が何人もいて、ぼくの中で別々の世界にいたその大切な人たちがついに一堂に会したのだ。車座になって並んだみなさんの顔を眺めながら、きょうは記念すべき一日だなと、しみじみと感じた。
会の中で、リーダーのるみ子さんはダライ・ラマ法王の言葉を引用して言った。
「法王によると、現代は無宗教の人が世界の半分ほどもいるそうです。でも宗教に代わるものは必要ないのでしょうか。宗教心は必要だと法王は言います。ヴァーチューがその一翼を担えれば」と。
特定の宗教に入信しようとは思わない。だが、宗教心は必要だろうと、ぼくも感じている。わざわざ宗教心と言わなくてもいいのだけれど、たとえば、人と接する時になんらかの気持ちが常に動いているのだから、そこに確かな指針が欲しくなることはないだろうか。
人を恨んだり妬んだり、嫌ったりするとき、不平不満ばかり出て来るとき、そのままでいることを気持ちいいと言える人がいるだろうか。人は、本当はどんな心持ちでいたいのだろう。そこに指針となるようなものがひとつあれば、心は平安へと向かわないだろうか。さまようのは心の常だが、帰るやすらぎの場所があるなら、どれほど大きな宝物になるだろう。
会に参加した方が、「美徳の言葉を声に出して使うのは気後れしてしまう」と感想をもらした。その気持ちはぼくにも十分にわかる。美しい言葉は、きれいごと、うわべ、たてまえ、というような雰囲気をもって聞こえるのかもしれない。とても自分では使えそうにない、と思ってしまう。
数年前の話だ。音楽家の友人ツヨキとふたりで、ときどきコラボレーション活動をしていた。ツヨキは自作の横笛やピアノやギターを練習もしないで奏でてしまうから、ぼくにはどこか天才肌に見えたものだ。彼は演奏の合間に観客に向かってよく話もした。その内容は、生きる上での大切な心構えのようなものが多かった。あるときストレートに言ってしまったことがある。
「ツヨキの話はどこか坊さん臭くて、ときどき逃げ出したくなることがあるよ」。
今にして思えば、まったく失礼な話だ。だが彼は、ぼくのどんな言葉もいつも冷静に受け止めた。
「そうかい? でも、ぼくの心にあるそのままの言葉だよ。ぼくはそんなふうに暮らしているから」。
返ってきたその言葉を、ときどき思い出すことがある。ぼくは、口にする言葉そのままに生きているだろうか。心が伴った言葉を発しているだろうか。ありがとうと、一日に何度でも言うけれど、心から感謝していることがいったいどれほどあるだろうか。
美徳の言葉を気恥ずかしく思い、使うことに気後れしてしまうとき、そこにはなにがあるんだろうか。この世に完璧な人間がいるとも思えないが、完璧な人なら、美徳の言葉になにを感じるんだろうか。
心から話す言葉。いや、心で話す言葉、だろうか。ヴァーチュー、美徳とは、そういうものなのかもしれない。ヴァーチューズ・プロジェクトとは言葉ではなく、それを発する心を養うことなのかもしれない。だからるみ子さんも言ったのだ。宗教に代わるものだと。
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