ふたりの写真展「なないろ」の会場で、八木倫明さんがアイリッシュフルートを奏でてくれた。倫明さんはケーナ奏者だが、聴かせてもらうのがこれで二度目になるこのフルートの音色の方がぼくは好きだった。曲目は「木霊」。木にも霊があるのだろうかと、タイトルの逸話を聞いただけで心が騒ぎ出した。会場のギャラリーは天井の低い鉄筋の小さなスペースだから、どんなに小さな音でも心地よく響いてくる。それがプロの音楽家の、しかも心を込めた演奏なのだ。細胞にまで染みてきてもなんの不思議もなかった。
倫明さんが、ご自身と曲とのつながりを簡単に話してくれた。キース・ジャレットのピアノが一切入らないアルバムの中の一曲だそうだ。音楽にも馴染みが薄いぼくはその名前しか知らないのだったが、即興で奏でるというキース・ジャレットの「木霊」が倫明さんに乗り移って、今ここに復活しているのだと思うと、味わいがいっそう深くなる。
優しいと言うだけでは深まりがない。深いと言うだけならあまりにあいまいだ。もう言葉を紡ぐ必要を感じなかった。アイリッシュフルートの音が静かな波となって、まぶたの中に広がる闇の世界を満たしていった。写真愛好家だからか目を閉じると普段はビジュアルが浮かんでくることも多いが、音楽につつまれていると、不思議と闇だ。それも安心と安らぎの闇。ここに生きているということが安心なら、このまま死んでもいいというような、そんな絶対的な安心だ。闇はだから、好きな世界だ。
倫明さんの人柄も手伝うのか、奏でる音楽に強制的に迫ってくるものがなにひとつ感じられない。自己主張は、それが好ましいものかどうかは場合に寄るだろうが、ぼくが音楽を聴く時はご免こうむりたいと思う。けれど演奏者がその音楽に溶け込んでいることは必要だろう。ぼくが撮るとき、被写体の中に溶け込みたいと思うのと、同じことかもしれない。
倫明さんを通して、木霊が聞こえてきたんだろうか。時間が一気に短縮されたような不思議な感覚になった。時代を遡ると言うと、すこし大袈裟な感じもするが、気分はまさにそうだった。大体が、時間などというものがほんとうに存在するのだろうか。今ここが大切だ、などと、スピリチュアルな旅をする人たちが口を揃えて言うけれど、今という瞬間を切り取ってしまうことこそ、自分と世界を分離することにならないだろうか。音楽家は、素敵だ。時を越えている。空間さえ必要ない。空間そのものなんだろう。ぼくは倫明さんやキース・ジャレットの世界をどれほども知らないけれど、たった数分のこの曲に酔いしれた。漂った。遡った時の中で、不確かな記憶の中で、いつまでもいつまでも漂っていたかった。