kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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新しい心
 生意気盛りなぼくだったころ、わかりもしないで、人生とは、などと考えるのが好きだった。今は考えることがすこし面倒臭くなっている。生意気はあまり変わらないけれど。

 整体の岡島瑞徳さんが亡くなられてひと月ほどが経っただろうか。もう十年近くも前の話になってしまったが、気功や整体にとても興味があった。それで岡島さんを師と仰ぎ、月に一度大阪で開かれていた初等講座に通ったことがある。奥の深い世界だった。深すぎてぼくには手も足も出ないと、一年であきらめた。当時北陸からいっしょに参加していた友らはその後もずっと精進して、今では小さな教室なども開いているようだ。

 岡島さんの口から飛び出す言葉は、的を得ている、とよく思ったものだ。ただひとつひとつがどう関連するものか、それがぼくにはさっぱりわからなかった。整体の指導も手を抜かず、知りたいと思う誰にもていねいに教えてくださった。ただ実技だからメモなど取っている余裕はないし、しかも初心者の一度や二度の体験で身につく技ではなかったのだ。

 けれども岡島さんの豊かな世界を、きっと何人もの受講生が受け継いだにちがいない。野口晴哉さんから岡島さんへ、岡島さんからまた何人かへ。そんな道がきっとつづいていくんだろう。ぼくはその路傍の石ころのようなものだろうが、それでもいまだに続けていることがある。たとえば活元とも呼ばれる自働運動は背骨揺らしとして習慣になっているし、鳩尾を柔らかくする脱力運動だって得意技のひとつだ。おふくろやヨシエどんはぼくのぎこちない肩甲骨はがしが気持ちいいと楽しみにしている。


 そして何よりぼくは、岡島さんの生き方をこそ学びたいと思っている。共に学んだ福井の友、林暁さんがメールで配信している個人通信に紹介していた岡島語録の一節だ。

 「体を健全にするには生命の働らきを信頼するだけでいいのです。溌剌と生きるには、生きるのは自分であり、運命をどう活かすかは自分の問題なのだ、と覚悟することです。そして不平や不満で心を濁らせず、感情を平成に保つだけでいい。外から偶然やってくるように見える運命というものも自分の裡から発したものであり、それ自体が自分が浄化され高められるためのステップとして、それを必然化してゆくのです。悲しかったら泣けばいい。涙が出なくなるまで泣くべきなのです。泣き終ったら生き始めればいいのです。口惜しかったら口惜しがればいいし、怒るときは怒ればいい。そして終ったら新しい心で生きるのです。それも、以前より、より楽しく、より深く、より素直に自分らしく生きるのです」。(会報誌「ユイ」'89 第28号)

 より楽しく、より深く、より素直に。自分を生きる覚悟さえあれば、そして新しい心を何度も何度も持てるのだと、それを知ってさえいれば、あとは体の続く限り思う存分生きればいいのだ。これでもう十分だ。他に人生のなにを知る必要があるだろう。四の五の言うのはもうやめよう。

 岡島さんは思う存分生きて、今頃はどちらにいらっしゃるのだろうか。より味わい深いご自身を感じる世界だろうか。いつかみんな、そこへ行く。忘れっぽいぼくのことだ。覚悟の中に、そのこともまた加えておきたいものだ。



| 10:18 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
役者の気持ち
 演劇の舞台を撮ったことがあるが、自分が舞台にあがることになるとは夢にも思わなかった。演出家を招いて、しっかり稽古までしている。演劇と言っても、ほんの数分の寸劇、スキットだ。スキットと言っても、演出家のアドバイスが加わるといくらの素人集団も劇らしくなる。ぼくがもらったのはなんとおかあさん役。生意気盛りな中学生の娘と野球少年の息子がいて、貫禄たっぷりな夫とおっとりとしたお義母さんとの五人暮らし。どこにでもありそうな庶民の家庭を舞台に、ヴァーチュー(美徳)を使うと家族関係やその雰囲気がどう変わるのかと、それが物語の主題になっている。

 なんでも楽しんでしまうのが唯一取り柄のぼくだから、出演も即OKだった。ところが、アドリブだけで適当に楽しむつもりだったのに、ヴァーチューズ・プロジェクト「雪の花」の仲間たちは何度もミーティングを重ね台本まで作ってしまった。一度ぐらいは稽古が必要だろうと参加すると、そこには演出家がいて、どうやら本格的だ。大変なことになった。ぼくはセリフを覚えるとか、楽譜通りに奏でるとか、とにかく正確に表現するために努力する気になれない。うまくやろうとすると、失敗ばかりで面白くないからだ。あ〜あ・・・、動き出した舟から下りることはもうできなかった。


 稽古では、どうも過剰な演技になっていたようで、「わざとらしく女性っぽくしなくていい」とまずはアドバイスその一。そんなあ〜? 男が普通におかあさんを演じるなんて土台無理な話だと反発したくもなる。それをグッとこらえて続けると、今度はおかしくてしようがないのかおなかを抱えてみんなが笑う。いったいぼくはどうすればいいんだ、と汗が吹き出してくる。

 不思議なもので何度かやっていると雰囲気がつかめて、面白くなってきた。そこへズバリ的確なアドバイスだ。「だれに向かって話しているのかをしっかり意識してしゃべること。そうすれば自然に心がこもって雰囲気が出る」。なるほど。(困っている息子に向かって今は話しかけているのだ)。そう思ってやってみると、なんと、思いやりが生まれるではないか。演技には違いないが、おかあさんの気持ちになっているぼくがいた。

 人生劇場という言葉がある。演劇だけじゃない。生きている日々そのものが片時の舞台で営なまれている劇なんだと、その言葉は伝えたいんだろうか。いつかはだれの舞台にも静かに幕が下りる。それがわかっていながら、悩み苦しみ喜んで、泣いて笑って、毎日の演技にどっぷりと浸かっている。演技のはずが、これは演技なんだと忘れてしまうほどに熱演している。どうせ熱演するなら、自分の時々の役柄を知り、全うしたいものだ。今このひと言を、どんな心持ちの誰に向かって話そうとしているのか。それを知っている人でいたい。セリフはまだ完全に覚えていないというのに、気持ちだけはすっかり役者になってしまった。

*****

●この寸劇を観たいみなさんのために。
ヴァーチューズ・プロジェクト全国フォーラム『こころの力を感じ合おう』
さらに詳しいお知らせは下記のチラシをダウンロードしてご覧ください。
チラシ表 チラシ裏




| 09:12 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
余生
 無造作に畳の上に転がっている本の題名が目に留まった。『月収100万円わたし主婦です』。ヨシエどん、こんなもの読んでるのかあ。苦労かけてるなあ。外は青空だというのに、心模様はしんみり。長女と長男という育った環境も手伝ってか家計のことにはほとんど無頓着なふたりだったが、天は良くしたもので、三人の子がいるうちは仕事も順調だった。一番下の息子が巣立って行った今年から、仕事量も報酬も急に減り出している。もしもぼくが相変わらず忙しくしていたら、それで困る若いカメラマンもいるかもしれない。なにしろ、地方都市の同業者の数など限られている。順番に忙しく、そして順番に終わって行くのだろう。


 暇になって時間を持て余しているだけでは芸がない。ときどきそんなことを感じながら、定年退職してもう十年ほどにもなるおやじと暮らしているが、過ごし方はそれで本人が気持ちいいならどんな風でもいいんだろう、とも思っている。さてと、ぼくはどんな余生を過すのだ。いや、余生と言うにはいくらなんでもまだ早いだろう。けれど、気分はきっと似たようなものだ。余生だと思えば、力も抜けて、ゆったりと時々を過せるだろう。

 ヨシエどんを静かに見守っていたい。ここまでの三十有余年、ぼくのことをただ静かに見守ってくれた人への、それが恩返しになるかもしれない。ただ贅沢はいらないよね。明日のパンがあればいいから。ヨシエどんが焼いてくれるパンは、ほんとうにおいしい。




| 11:46 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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