kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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純粋
 この世に生まれてきたとき、ぼくは雪よりも白い心を持っていた。感情などという人間臭いものに振り回されることのない、ふうわりと空に浮かぶやわらかな雲のような赤ん坊だった。というような記憶があると、むちゃくちゃ面白いだろうなあ。今の自分の変わり様に気づく度に、きっとびっくりの連続だろう。

 純粋という言葉が中学生のころから好きだった。大学時代につけはじめた日記にも、よくその二文字を書いたものだ。いつの間にか心の隅っこに押しやっていたけれど、今も純粋な世界に憧れている。純粋を広辞苑で引くと、完全なこと、とある。邪念、私欲がなく清らかなこと、ともある。調べたこんな意味では、ぼくが描いている純粋のイメージとはすこし違うような気がしていた。ぼくの、純粋。それは、ぼくの中に存在している、ほんとうのぼくのことだったのだと、今ならわかる。ただ、その存在は確かに存在しているようなのに、これまで一度も自分で確認できたことがない。なんとなくいるような気がする、だけなのだ。


 赤ん坊のころなら、まだその純粋な存在とぼくはいつも共にいたかもしれない。けれども幼いころからおふくろに脅かされ、小学校では友だちをいじめ、恐い上級生からは逃げ回り、いつの間にか駆け引きを覚え、万引きを繰り返した。心にいろんな色を塗り始めたのはいつからなんだろう。いまではときどき真っ黒だったりする。それでもついに純粋を忘れなかったのだ。自分で自分を、ほめてやってもいいかもしれない。

 五十を過ぎてまだ純粋に憧れている、と言ったら笑われるだろうか。少年野球の監督をしていたころ、「見ろよ、夕陽だ、きれいだなあ」と言ったら、「そんな青春ドラマみたいなこと言わないでよ」なんて子供たちは白けてしまった。でもあいつら、いつの間にか虹と遊ぶようになったんだ。案外ゆっくり語り合えば、どこにも同じような奴がいるかもしれない。

 純粋。とにかく、いいやつだ。ぼくがどんなになっても、いつも逃げないでそばにいてくれる。きっと、いつまでも。



| 21:54 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
大切だよ
 音楽の授業で使ったあの音叉は、周波数が同じものだったら共鳴して振動する。それと同じことが、人の心にも起こるのかも知れない。声は周波数で表すことができるだろうが、思いや感情は測れない。けれど、心は通う、と言う。同じ言葉を発すれば、同じような心持ちになってしまうことだってありそうだ。感情が共鳴するとしたら、ちょっとこわい。不用意な言葉は、使わない方が賢明だ。

 昨晩このkazesanに書いた記事の「ぶっ壊す」とう言葉はぼくがはじめに言ったわけではないけれど、同じ言葉を確かにここに記した。言霊などと言うまでもなく、言葉が力を持っていることは誰もが経験しているだろう。言葉で深く傷つきもすれば、支えてくれる言葉だってある。だからだろうか、ぶっ壊すという言葉を使ったぼくの中がすこしざわついてしまった。あの政治家と共鳴してしまったんだろうか。

 憂鬱な一日になってしまうのかと思っていたら、朝タイムリーにとても素敵な話に出会った。ぼくにはまさに天の助けになった。友人のブログ「アンナプルナと樹」に紹介されていたものだ。少し長くなるが、全文を転載した。




*****


世界一風変わりなセラピスト


二年前、ハワイに住む一人のセラピストの話を聞いた。
その人は触法精神障害者
(訳注:刑法罰に問われたものの、精神障害を理由に
不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと)
の病棟に収容されていた人たち全員を、 誰一人診察す
ることなく癒したそうだ。
その心理学者は患者のカルテを読み、自分がどのように
してその人の病気を創りだしたのかを理解するために、
自分の内側を見たのだそうだ。
彼が自分自身を改善するにつれて、患者も改善したという。

最初にこの話を聞いたとき、都市伝説だと思った。
自分自身を癒すことによって他の誰かを癒すなんてことが
どうやってできるだろう?
最高の自己改善の達人であったとしても、どうやって触法
精神障害者を癒すことができるだろう?

私には理解できなかった。
論理的な話ではなかったので私は受け入れなかった。

しかし、一年後に同じ話をまた聞くことになった。
セラピストはホ・オポノポノというハワイの癒しの
プロセスを使ったのだという。
初めて聞くものだったが、忘れることができなかった。
もしその話が本当なら、私はもっと知らなければならなかった。

私は「完全な責任」とは、私の言動に対する責任は私にあると
いう意味だと前々から理解していた。その向こうのことは、自
分の管理を離れていると。
ほとんどの人たちは完全な責任というものを、そのように考え
ているのではないかと思う。
私たちは自分の行いに対して責任があるのであって、他の人の
行いに対してではない。精神病の人々を癒したハワイのセラピ
ストは、私に完全な責任についての
進化した新しい観点を教えてくれることになった。

彼の名はイハレアカラ・ヒュー・レン博士。
私たちは最初の電話でたぶん一時間は話しただろう。
彼にセラピストとしての仕事の全貌を語ってくれるようお願いした。
彼はハワイ州立病院で4年間働いたことを話してくれた。
触法精神障害者を収容していた病棟は危険なところで、心理学者は
月単位でやめていき、職員はよく病欠の電話をかけてきて、
やめていく人もいたそうだ。人々がその病棟内を歩くときには、
患者に攻撃されないように壁に背中をくっつけて通ったらしい。
それは生活するにも働くにも訪ねるにも心地よい場所ではなかった。

レン博士は一度も患者を診なかったのだそうだ。
彼は診療室を持って患者らのファイルに目を通すことには合意した。
それらのファイルを見ながら、彼は自分自身に働きかけた。
彼が自分自身に働きかけるにつれて、患者に癒しが起きはじめた。

「2、3月後には、以前は手足を縛られていた患者たちが、
自由に歩くことを許可されていました」と彼は言った。
「多量の投薬が必要だった人たちは、投薬をやめつつありました。
そして退院の見込みのなかった人たちが退院していったのです。」

私は畏敬の念に打たれた。

「それだけではありません」彼は続けた。
「職員が仕事に来ることを楽しみ始めたのです。
常習的欠勤や退職は消え去りました。
患者は退院していくし、職員全員が仕事に来るようになった
ので、最後には必要以上の人数の職員が残りました。現在、
その病棟は閉鎖されています。」

ここで私は問わなければ気がすまなかった。
「それらの人々に変化をもたらすような何を、あなたは自分自身
の中で行っていたのですか?」

「私は彼らを創りだした自分の中の部分(パート)を癒していただ
けです」と彼は言った。

私には分からなかった。

レン博士は説明した。
あなたの人生への完全な責任とは、あなたの人生の中の全てが??
単にそれがあなたの人生に存在しているというだけの理由で?
?あなたの責任なのだと。
文字どおりの意味で、全世界があなたの創造なのだと。

ヒャー。これはなかなか納得できるものではない。
自分の言動が自分の責任だということと、私の人生におけるあら
ゆる人の言動の責任が私にあるというのは全く別の話ではないか。
それにもかかわらず、実際のところは、もしあなたが自分の人生
の全責任を負うならば、
あなたが見たり、聞いたり、触れたり、その他どんな方法であれ、
あなたが経験する全てがあなたの責任なのだ。それはあなたの人生
の中にあるのだから。

これはつまり、テロリストの活動、大統領、経済?
?あなたが経験していて好きではないこと?
?を癒すのは、あなた次第だということである。
言ってみれば、それらは存在してはいないのだ。
あなたの内面からの投影である以外には。
問題は彼らに関するものではなく、あなたに関するものであり、
それを変えるには、あなたはあなたを変えなくてはいけないのだ。

このことは把握するのも難しく、ましてやそれを受け入れて実際に
生きることはもっと難しいとわかっている。
非難のほうが、完全な責任よりもはるかに簡単である。
しかし、レン博士と話すにつれて私は気づき始めた。
彼にとっての癒し、そしてホオポノポノにおける
癒しとは、あなた自身を大切にすることなのだと。
あなたが自分の人生を改善したければ、あなたは自分の人生を
癒さなければならない。
もしあなたが誰かを癒したければ
?たとえそれが精神障害を持った犯罪者であっても?
あなたはそれを、自分自身を癒すことによって行うのだ。

どのようにして自分自身を癒すことに取り組んでいたのかと
私はレン博士にたずねた。患者のカルテを見ていたときに、
彼は具体的には何をしていたのだろう?

「私はただ『ごめんなさい(I'm sorry)』と 『大切だよ(I love you)』を
何度も何度も言い続けていただけです」と彼は話した。

それだけ?

それだけ。

あなた自身を大切にすることが、あなた自身を好転させる最も
素晴らしい方法であり、あなた自身を好転させるにつれて、あ
なたはあなたの世界を好転させるということが判明した。

これがどのように機能するかの簡単な例をあげてみよう。
ある日、誰かが私を不愉快にさせるメールを送ってきた。
過去そういう時には、私は自分に感情的な反応を引き起こす
ものについてワークしたり、あるいは意地悪なメッセージを
送ってきた人に理を説こうとすることで処理したものだった。

今回私はレン博士のメソッドを試すことにした。
私は「ごめんなさい」と「大切だよ」を声に出さずに言い続けた。
特定の誰かに向かって言ったわけではなかった。
私はただ愛の精神を呼び起こし、この外側の状況を創り出した自分の中を
癒そうとしただけだった。

一時間もしないうちに同じ人からメールが来た。
彼はさっきのメッセージについて謝罪していた。
私は謝ってもらうために外側に何も働きかけをしていないこと
を覚えておいてほしい。
私は返事すら書いていなかったのだ。にもかかわらず、
「大切だよ」と言うことで、私はどういうわけか彼を創り出し
ていた自分の内側を癒すことができた。

その後、私はレン博士が開いたホ・オポノポノのワーク
ショップに参加した。彼は今では70歳で、優しい祖父のような
シャーマンと見なされていて、ほとんど隱遁生活を送っている。
彼は私の著書『The Attractor Factor』をほめてくれた。
私が自分を向上させるにつれて、私の本の波動が上がり、
人々が本を読むときに
皆それを感じるだろうと彼は語った。要するに、私が向上すると、
私の読者も向上するということだ。

すでに売られて外に出ている本についてはどうなんですか?
と私はたずねた。

「それらの本は外にあるのではないよ。」彼が持つ神秘の智慧に
私はとても驚いた。
「未だにあなたの中にあるんだ」

つまり、外なんてないということだ。

この高度な技術を、それが値する深さとともに説明しよう
としたら、本が一冊書けるだろう。
あえて言うなら、あなたがあなたの人生の中のどんなものでも
改善したいのなら、見るべき場所はただひとつ、あなたの中である
、ということだ。

「あなたが見る時は、愛をもって見るように」


*****



 これを読んで、ぼくの心の中の構造がわかった気がした。いつももやもやとして、得体の知れない何かがうごめいている。それはこの世の中への反発だったようだ。だれもかれも自分勝手なやつばかりだと、雑多な報道にふれる度に感じていたものがゴミの山のように溜まっていた。このぼく自身が気ままで一番自分勝手な人間だということも忘れて。

 たとえば、気に入らない政治家が新聞に載っている。それを気に入っている読者も当然いるわけで、気に入らないというのは政治家そのものではなく、ぼくの心の中にある問題だった。気に入らない政治家を、ぼくは自分の中に自分自身で作り出している。そしてその幻想にも似た政治家を声なき声で毎日攻撃しているというわけだ。これではもやもやと心は濁って当たり前、だった。

 自分の外にある対象をたとえば改善しようとしても、それは叶わないことだと、ぼくは知っていたはずだ。それでも、たとえ努力で終わってもいいのだと思いながら、改善しようと試みつづけている。そんな図式が見えるようだ。
 
 でも待てよ、と今日はすこし清々しい気持ちになっている。自分の心の中の幻想に、「ごめんね。大切だよ」と話しかけるまでもなかった。心の構造か仕組みかを知ってしまっただけで、もうリラックスしはじめていた。まったく単純なものだ。紹介した話の真偽はぼくにはわからないけれど、そんなものかも知れないと思うだけで十分だった。声に出して、I Love You などと言いつづけるなんて好みじゃないからできそうにないけれど、そんなお前も大切なんだよ、となら、静かにいつもささやいていられる。自分の外界とばかり思っていたものが、もしも自分自身のことならば、そうだ、いつも自分を大切にするだけでいいのだ。政治家を責める代わりに、責めているぼくの心を何度でも静かに見つめればいい。大丈夫だ、大切なお前だよと。少なくとも、不遜なものとの共鳴は避けられた。いや、ぼくの中の不遜が少し消えて行った、ということか。

 もしもだ、日本中の人の心が、その心で作り出している哀しみや怒りをやさしいエネルギーで包み込み大切だよとでも言ってあげることができたなら、この国になにか大きな変化でも生まれるだろうか。そんなことがあるのなら、生きている間に一度ぐらいは見てみたい。



| 21:18 | 心の森 | comments(6) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ぶっ壊す
 時事にも世間にも政治にも疎いぼくの言うことだからいくらでも笑ってもらって結構だが、今の自民党の政治だけはそろそろ一度終わらせた方がいい。あまりに人間的におかしな人物が多すぎる。

 日教組はがんだ、ぶっ壊すと、政治家が口にするのか。中山成彬前国土交通相のことだが、ぶっ壊すという表現の不適格さを感じていないその程度の政治家がいるから、子供の世界までがそうなってしまうんだ。どっちががんだ。マスコミもマスコミだ。事の真相を突き止める努力もしないで、バカな政治家の動向ばかりをつぶさに報じてそれがニュースだとしている。政治家にただ利用されている。まったくこれも信用できない。

 ぼくは先に書いた通り、ほんとうにバカな政治家と同じくらいバカな世間知らずでノンポリで、これで歴としたおとななのかと自分でも笑いたくなる程度の人間だが、ただひたすら人間の表情も撮ってきた者として感じていることがある。あの麻生太郎首相の笑顔だ。あれはまるっきり子供の笑顔だ。ついに総理になったぞと、ただうれしくてしようがない笑顔なんじゃないだろうか。


 マガジン9条を読んで、なぜそう感じたのかがわかった。「安倍晋三前首相と福田康夫首相が辞める時、2度とも事前に打ち明けられたのに、善後策も講じないで一番先に自分が手を挙げた。幹事長の職責が分かっていない人だ」というあるコメントも報道されていたそうで、おそらくこんなにも自分本意の政治家も珍しいんじゃないだろうか。数々の差別発言しかり、およそ庶民の感覚のカケラもない人だろう。それが、「集団的自衛権の憲法解釈見直しを」とまた言っているのだ。この国の将来をこんな人に任せたくはない。

 かと言って、同じく経済優先が前提としてあるだろう民主党がいいとも思わないけれど、とにもかくにも、政権交代を主張しようと思う。かつて細川護煕さんの日本新党が政権について野党に下ったはずの自民党だったが、民意に反していつの間にかまた返り咲いてしまったことがあった。死んでも死なない自民党だが、今回は木っ端みじんに砕けてもらったほうがいい。それこそ、ぶっ壊れてほしいくらいだ。

 あくまでも、麻生さんのように子供じみたぼくの言うことだ。どうぞ笑って欲しい。それでも思い出すことがある。もう数年も前に鳩山由起夫さんを取材撮影させてもらった時のことだ。ほんの一時間ほどの間に、あの方は、愛、という言葉を何度か使った。政治家が愛を語る時代なんだといくらか驚いたが、とても新鮮なものを感じた。せめてそれを頼みにしようと思う。



| 21:10 | 日々のカケラ | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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