kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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Hotel kazesan
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三国、鯖江とつづいて今夜は津幡で車中泊。近隣の町ばかりだが、酒を飲めばもう帰れない。車は移動するばかりが役目じゃない。こうして横になり、静かな夜のひとときをプレゼントしてくれる。いい時間だ。気ままな人生を歩くためには、まず気ままな夜を演出する必要がある。夜は大切だ。昼間外に向いていた意識を取り戻せるのは、夜だ。しかも計画されていない気ままな夜であることが大切だ。今こそ生きている。人生とは、計画通りには行かない。先を見てなんになる。気ままな今だから、とらわれのない自分にも出会えるのだ。世の中は予定で成り立ち、人は未定で生きている。星降る新月の夜空を小さな車の窓から眺めていると、未定の今をどこかで計画してきたような気にもなる。予定とは生まれて死んでゆくことで、その間の日々はすべて未定で結構だ。
| 23:00 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
電気の働きに満ちた宇宙?
 『風の旅人』に興味深い連載記事がある。「電気の働きに満ちた宇宙?」というタイトルがついている。星空を見上げてただきれいだなあと言っているだけのぼくに、この記事のすべてを理解することは並大抵のことではないけれど、そんな中途半端な理解でも、これはなかなかに面白い。引力や重力が宇宙のシステムの重要な役割に担っている、というのが今の権威ある宇宙論で、それをぼくたちは何の疑いもなく、と言うより、疑うどんな力も持たずに、そんなものだろうと信じ込んでいる。宇宙のしくみがどんなでもそれが直接暮らしに影響しているとも思えないのだから、大して気にもならない、というのがぼくの正直なところだろうか。

 ところがだ。この連載にはある意味がある。たぶん。

 編集長の佐伯剛さんがところどころに書いているものを読んでいると、自分の目を持たない現代人は大勢の流れに乗るだけで、無難に、そして巨大なものに巻かれて暮らしているのだと、鋭い分析を突きつけられているような気がしてならない。信頼するものを持たない個々は経済優先のご時世にどうしようもなく翻弄されている。常識の範囲内にいれば、とりあえずは安心していられるのだ、と。


 宇宙がこれまでの定説をくつがえしてもしも電気の働きで営まれているのだとして、それがわかったら、人類はなにか変われるだろうか。天動説でなく、ほんとうは地球が回っているのだとはじめて知った人類は、そのとき変わったんだろうか。否、変わる変わらないの話ではないだろう。真実を知ってゆく過程があって、その大きな転換点にいた、というに過ぎないのかもしれない。

 しかし、専門家が言っているから、というだけで、ぼくたちはどれだけの偽りの中で暮らしているだろう。偽りが言い過ぎなら、間違った情報の中で、ということだ。メーカーは自社の商品を売らんがために、科学者に商品に使う素材の分析を依頼するというではないか。そこから都合のいい結果のみを公開し、だからこの商品は素晴らしいのだと強調する。無邪気な大衆はありがたがって買い求めているというわけだ。コーヒーが赤ワインがビールが体にいいなんて、わざわざ誰が研究するものか。

 それと宇宙と、なにか関係があるのか。大ありだと、ぼくは思う。無限に広がる宇宙も、小さな商品も、ひとりの人間となんらかけ離れたものではないだろう。何のどこを見つめているのかが、暮らしを営む上でいちばんに大切にしたい事柄だと思うから。

 彗星が汚れた雪玉だという定説を、次々と発見される新しいデーターがくつがえしてゆく。月のクレーターが衝突でできたものだという定説では説明できない大部分が、電気の働きから見ると、ことごとくあたり前のこととして実証されてしまう。それなのに、権威は、なぜかしがみついている。大衆はそんな権威を盲信している。面白いでしょ? 宇宙のしくみを読みながら、人間社会のしくみを考えるなんて。ぜひご一読を。



| 11:41 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
魂が撮る
 同業者のゲンさんがたずねてくれて、ひさしぶりに写真の話をした。25年も撮りつづけながら、金沢辺りじゃ写真を語り合う相手もなくてさびしい限りだ。

 ゲンさんは、金沢で撮り始めてまだ1、2年の少し年食った新人だ。ユコタンの幼なじみということもあって、ほんの少しだが編集者などを紹介したことがある。手広く仕事をしているわけではないぼくは、なかなか後進の力にはなれない。それでも迷ったときの話し相手ぐらいならできる、というわけだ。

 ゲンさんは最近の情報誌の仕事を見せてくれた。写真を言葉にするのは難しいけれど、浮かんでくる言葉をなるべく慎重に選んで感想を伝えた。

 「これらの写真には魂が入っていないと思う」。なんとも大胆な発言だ。魂などは、ぼくが一番使いたくない言葉だ。なぜそれが出てきたんだろうか。大体が、ぼく自身の写真に魂など入っているのか。あまりに生意気な感想じゃないか。けれども、いくら感じても、それしか言葉が浮かばなかった。

 魂で撮る、という方法があるなら、ぼくが教えてほしいくらいだ。否、確立した方法などあるわけがない。結果として、魂が入った、ということがあるだけだ。よくわかりもしないで、そう思う。


 撮ることは見つめることからはじまるのだろうが、自分の目で、というほどの目をいったいどれほどの人が持っているだろうか。見たまま感じたまま、などという表現をときどき耳にするけれど、見たり感じたりするためには意識された主体が必要なのだ。顔についている目に何かが映っているだけでは、見つめることにはならない。見つめるとは、自分で考えることだ。考えてもわからないことだらけだが、それでも考えないでは、見つめられない。考えると言っても、そこに言葉があるとは限らない。見つめる主体の生き方のようなものがまず必要なのだ。

 などと、きょうになってまた偉そうなことを書いている。まったく書いているだけだ。へなちょこカメラマンのぼくを頼りに来てくれたゲンさんに、少し偉ぶってみたかったのかもしれない。

 クリヤヨガに精通している友が送ってくれた話がある。

 魂という言葉にとらわれてはいけない。わたしが、と一人称で話すとき、それもまた魂の言葉ではないのか。

 魂、それがぼく自身だとしたら。

 見つめるということの中や、撮るということの中にも、魂が存在していることになる。ただそれは、いつでも、というわけには行かないだろう。魂として見つめることが必要になってくるに違いない。だとしたら、それはきっと、祈りのようなものだ。祈りとは、と問われても、答えを持たないぼくが魂に近づくことは叶わないけれど、自分の目、というものがその手がかりになるのだと、なぜか確信のようにして思う。眼を大きく見開いて、透明な水晶体にますます磨きをかけるのだ。

 道は遠いのだろうか。案外すぐそこにゴールがあるような気もするが、もともと人にはスタートもゴールもない。写真なら、生かされて、撮っている、その過程があるだけだ。魂かぁ。そばにいるだろう魂に、とりあえず、どうぞよろしくと伝えよう。見つめるまなざしを、ぼくはこのぼくの人生で持ちたい。それもきっと、魂の言葉にちがいない。

| 14:41 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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