同業者のゲンさんがたずねてくれて、ひさしぶりに写真の話をした。25年も撮りつづけながら、金沢辺りじゃ写真を語り合う相手もなくてさびしい限りだ。
ゲンさんは、金沢で撮り始めてまだ1、2年の少し年食った新人だ。ユコタンの幼なじみということもあって、ほんの少しだが編集者などを紹介したことがある。手広く仕事をしているわけではないぼくは、なかなか後進の力にはなれない。それでも迷ったときの話し相手ぐらいならできる、というわけだ。
ゲンさんは最近の情報誌の仕事を見せてくれた。写真を言葉にするのは難しいけれど、浮かんでくる言葉をなるべく慎重に選んで感想を伝えた。
「これらの写真には魂が入っていないと思う」。なんとも大胆な発言だ。魂などは、ぼくが一番使いたくない言葉だ。なぜそれが出てきたんだろうか。大体が、ぼく自身の写真に魂など入っているのか。あまりに生意気な感想じゃないか。けれども、いくら感じても、それしか言葉が浮かばなかった。
魂で撮る、という方法があるなら、ぼくが教えてほしいくらいだ。否、確立した方法などあるわけがない。結果として、魂が入った、ということがあるだけだ。よくわかりもしないで、そう思う。
撮ることは見つめることからはじまるのだろうが、自分の目で、というほどの目をいったいどれほどの人が持っているだろうか。見たまま感じたまま、などという表現をときどき耳にするけれど、見たり感じたりするためには意識された主体が必要なのだ。顔についている目に何かが映っているだけでは、見つめることにはならない。見つめるとは、自分で考えることだ。考えてもわからないことだらけだが、それでも考えないでは、見つめられない。考えると言っても、そこに言葉があるとは限らない。見つめる主体の生き方のようなものがまず必要なのだ。
などと、きょうになってまた偉そうなことを書いている。まったく書いているだけだ。へなちょこカメラマンのぼくを頼りに来てくれたゲンさんに、少し偉ぶってみたかったのかもしれない。
クリヤヨガに精通している友が送ってくれた話がある。
魂という言葉にとらわれてはいけない。わたしが、と一人称で話すとき、それもまた魂の言葉ではないのか。
魂、それがぼく自身だとしたら。
見つめるということの中や、撮るということの中にも、魂が存在していることになる。ただそれは、いつでも、というわけには行かないだろう。魂として見つめることが必要になってくるに違いない。だとしたら、それはきっと、祈りのようなものだ。祈りとは、と問われても、答えを持たないぼくが魂に近づくことは叶わないけれど、自分の目、というものがその手がかりになるのだと、なぜか確信のようにして思う。眼を大きく見開いて、透明な水晶体にますます磨きをかけるのだ。
道は遠いのだろうか。案外すぐそこにゴールがあるような気もするが、もともと人にはスタートもゴールもない。写真なら、生かされて、撮っている、その過程があるだけだ。魂かぁ。そばにいるだろう魂に、とりあえず、どうぞよろしくと伝えよう。見つめるまなざしを、ぼくはこのぼくの人生で持ちたい。それもきっと、魂の言葉にちがいない。