「もしも人間がいなかったらこの地球はとても美しい星だったかもしれない。けれども、同時にその美しさを讃える存在もなかった」。
これは、「今、めぐり愛」の中で葉っぱ塾のヤギおじさんが、かつての教え子が書いた話だと紹介してくれたものだ。薄暗い会場ですこしまどろんでいたぼくの目がこの言葉に反応して見開いた。讃える。ぼくにはまったくと言っていいほど縁のなかった言葉だ。人間の果たす役割のひとつは、讃えること、なのかもしれない。いろんな場面で文句の多かったぼくが、もしもその批判や非難の代わりに称讃することを覚えたら、いったいなにがどう変わるだろう。素直に讃える人になってみたいと思った。
思えば写真を撮ることは、被写体を讃えることかもしれない。だったらうれしいのだが、ぼくにはまだよくわからない。でも秘密の原っぱと呼んで、そこでひとり遊びを楽しんでいるひとときは、小鳥や虫や草花や、空や大地と、ぼくは讃えあっている気がする。
大阪からもどった翌朝、なにやら元気のなさそうなアコが気になり、ついいらぬひと言をもらしてしまった。「アコ。カノンに話しかけてるか」。乳飲み子を抱えた新米ママは、無言でひたすら授乳を繰り返しているふうに、ぼくには見えた。疲れてきたんだろうか。経験のない男にはわからない苦労があるだろう。けれども自ら選んで産んだ子に愛情を注がないでどうするんだと、そんな批判がましいことをぼくは思っていた、かもしれない。そのひと言を聞いて、アコはますます元気がなくなり、無口になった。まったくいらぬおせっかいだった。こういう時こそ讃えることが大切なんだと、言ったあとで気づいたぼくだった。
言葉をさらに言葉で補おうとするのは愚の骨頂だろう。なんの効果も期待できなことぐらいぼくにもわかる。だからあとは、ただ静かにしていた。ジジイなどはそばでそっと見守っているぐらいでいいのだろう。そう、それとなるべく、讃えながら。
今朝はアコの肩を揉んでやった。気持ちがいいと喜んだ。肩井をぎゅーっと押してやる。肩甲骨はがしという、整体の講座で習った技も披露した。最後は気功で学んだたんとんたたきだ。「アコ、よくやってるよ」と言葉のない称讃も忘れずに。
「おとうさん。アコね」と、とつぜん言い出した。「話しかけてみたらね、カノンのこと人間だとわかった。そしたらすごく安心できたよ」。妙なことを言う娘だ。でもわかるような気がした。日に日に成長する赤ん坊だが、いつも壊れそうな存在でもあった。話しかけても返事があるわけでなく、泣いていることの意味もなかなかつかめないようだ。まるで腫れ物にでもさわる気分のアコだったのかもしれない。
「あら、今度はおっぱいか。ちょっと待ってねぇ」と、アコが話しかけている。なんだよ、アコ。心配かけやがって。幸せだなあ、娘がいて、孫娘がいて。もうジジイはこれで十分だ。あとは讃えることを、なるべくなら忘れないでいたいものだ。