kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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わたしたちは、生まれた
 千晶さんとの映像つきコンサート「あめつちのしづかなる日」が久しぶりに開かれた。会場は明石教会。十字架の下にDVDに編集したぼくの写真が映し出され、それをはさんで千晶さんと友人の順子さんがライアを奏で、歌った。会場毎にそれぞれの雰囲気が醸し出されどれも素敵な会になったと自己満足しているぼくだが、教会というのはまた特別だった。祈りのエネルギーで満ちあふれているのかと思うほどで、なんだかすべてが神々しく見えた。

 コンサートは千晶さんのソロではじまる。このごろは決まって言うセリフがある。「あめつちのしづかなる日。わたしたちは、生まれた」。いつも同じ言葉を聞いてきたぼくなのに、この夜ばかりは心の隅にまで響いてきた。そうだ、ぼくたちはこの世に生まれてきたんだ、となぜか、そのあたり前のことがすごく重要に思えた。生まれて、生きて、死んでゆくのは誰もが同じだが、とにかく今、それぞれの場でみんな生きているんだ。生きているだけで、すごいことだと思った。


 よく人は、生き甲斐を持てという。『生きがいの創造』という本まであったし、ぼくも読んで感じることが多かった。夢を持てとも言うだろう。ぼくも夢のないやつは最低だと思っていた。けれどもほんとうに生き甲斐や夢が必要なんだろうか。それがなくては生きていけないだろうか。むしろ、そんなものを求めて、求めて、そして見つけられなくて、人は苦しみ、自分を蔑み、あげくの果てには死を選ぶ者までいるんじゃないのか。ほんとうは、生まれたことがすごいことで、なにもしなくても生きているだけですごいんだと、神々しい会場で神々しい人々を見つめながら感じていた。

 もしも、なにもすることがなかったとしても、人はときどきになにかを感じている。感じることができればそれで十分だと、ぼくは思うようになった。プラス志向? マイナスで結構だ。人生など浮き沈みがあってこそ面白い。向上心? 今に満足していないからだろう。向上心には切りがない。慾と同じだ。愛を顕わす? 言葉で言うな。生きていることが、そのままで愛だ。人はなにをどんなふうに感じてもいい。感情をコントロールすることなどできるはずがない。ただ、感じている自分を感じることができたなら、それで十分に生きているのだと、ぼくなら思う。

 生きてゆくのに、必要なもの。それは自分自身だ。生き甲斐や夢を持ちたいやつは持てばいいが、人に勧めたり強制することはない。ほんとうは、生きている自分自身がいるだけでいいのだ。あとはなにもいらない。死ぬまでの間、生きている。どう考えてもすごいことだと、ぼくなら思う。わたしたちは生まれてきた。または命を授かったのだ。




| 21:11 | 日々のカケラ | comments(10) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
讃える存在
 「もしも人間がいなかったらこの地球はとても美しい星だったかもしれない。けれども、同時にその美しさを讃える存在もなかった」。

 これは、「今、めぐり愛」の中で葉っぱ塾のヤギおじさんが、かつての教え子が書いた話だと紹介してくれたものだ。薄暗い会場ですこしまどろんでいたぼくの目がこの言葉に反応して見開いた。讃える。ぼくにはまったくと言っていいほど縁のなかった言葉だ。人間の果たす役割のひとつは、讃えること、なのかもしれない。いろんな場面で文句の多かったぼくが、もしもその批判や非難の代わりに称讃することを覚えたら、いったいなにがどう変わるだろう。素直に讃える人になってみたいと思った。

 思えば写真を撮ることは、被写体を讃えることかもしれない。だったらうれしいのだが、ぼくにはまだよくわからない。でも秘密の原っぱと呼んで、そこでひとり遊びを楽しんでいるひとときは、小鳥や虫や草花や、空や大地と、ぼくは讃えあっている気がする。

 大阪からもどった翌朝、なにやら元気のなさそうなアコが気になり、ついいらぬひと言をもらしてしまった。「アコ。カノンに話しかけてるか」。乳飲み子を抱えた新米ママは、無言でひたすら授乳を繰り返しているふうに、ぼくには見えた。疲れてきたんだろうか。経験のない男にはわからない苦労があるだろう。けれども自ら選んで産んだ子に愛情を注がないでどうするんだと、そんな批判がましいことをぼくは思っていた、かもしれない。そのひと言を聞いて、アコはますます元気がなくなり、無口になった。まったくいらぬおせっかいだった。こういう時こそ讃えることが大切なんだと、言ったあとで気づいたぼくだった。


 言葉をさらに言葉で補おうとするのは愚の骨頂だろう。なんの効果も期待できなことぐらいぼくにもわかる。だからあとは、ただ静かにしていた。ジジイなどはそばでそっと見守っているぐらいでいいのだろう。そう、それとなるべく、讃えながら。

 今朝はアコの肩を揉んでやった。気持ちがいいと喜んだ。肩井をぎゅーっと押してやる。肩甲骨はがしという、整体の講座で習った技も披露した。最後は気功で学んだたんとんたたきだ。「アコ、よくやってるよ」と言葉のない称讃も忘れずに。
 
 「おとうさん。アコね」と、とつぜん言い出した。「話しかけてみたらね、カノンのこと人間だとわかった。そしたらすごく安心できたよ」。妙なことを言う娘だ。でもわかるような気がした。日に日に成長する赤ん坊だが、いつも壊れそうな存在でもあった。話しかけても返事があるわけでなく、泣いていることの意味もなかなかつかめないようだ。まるで腫れ物にでもさわる気分のアコだったのかもしれない。

 「あら、今度はおっぱいか。ちょっと待ってねぇ」と、アコが話しかけている。なんだよ、アコ。心配かけやがって。幸せだなあ、娘がいて、孫娘がいて。もうジジイはこれで十分だ。あとは讃えることを、なるべくなら忘れないでいたいものだ。



| 16:37 | 日々のカケラ | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
今、めぐり愛
 めぐりあうことを、めぐり愛と書きはじめた人がいる。闘病の詩人吉武祥子さんだ。闘病と書いたけれど、病気とは闘うものかどうかをぼくは知らない。祥子さんを見ていると、およそ闘っているという感じがしない。それを人生の友としている詩がいくつもあるから、やっぱり闘いではないのだろう。病を友とする生き方に共感し、人間の友も大勢集まってきた。めぐり愛とはだから、愛が集まり、集まった愛がひとつになって大きくもなり、また深まってもゆく壮大な人間物語でもあるようだ。愛はときに形になっても現れる。一昨日の大阪で開かれた「今、めぐり愛」という大掛かりなイベントが、そのひとつの形だった。

 「今、めぐり愛」は、去年の奈良での「めぐり愛」につづく第2弾で、主催の中心的な存在になった上村ひでみさんがその奈良で祥子さんにめぐりあい、実現した。

 めぐり愛のひとときに、いつも愛に飢えていながら表立った愛を嫌っているようなぼくは、やっぱりいつものようにどこかぎこちなく腰が据わっていなかった。なにごとも肚に落ちないでは本物ではないだろう。ぼくというちっぽけな人間は、集まった愛の周りでうろうろしているばかりで、本物とはおよそほど遠い存在だった。

 大阪・天満橋

 イベントに関わったスタッフはなんと50人あまり。会場の大阪から遠く離れた石垣島や鳥取など他府県からの参加も多かった。10ヶ月に及ぶ準備期間がもたれ、その間に仲間は増えていったようだ。そのことこそ、めぐり愛ではなかったか。イベントは最後に実を結んだ果実か花で、そこに至るまでのふれあいの日々こそ得難い宝物なんだと、愛のまわりでうろうろしながら感じていた。

 300人近くの観客も含め大勢の人が集まったからと言って、その日ばかりの出演者がめぐりあう人数は限られている。ましてや自分からは積極的に動けないぼくだ。恥ずかしいのでも面倒なのでもないのに、なぜだろうか。気になる人がいても、近づくことさえできない。それでもめぐりあう人には、めぐりあう。写真集などを展示販売したkazesanブースの担当をしてくれた初々しい女性がふたり。輝く笑顔がまぶしくて、並んで立っていると、ぼくは邪魔者にさえ思えてきた。インターネットでつながっていた仲間から、ふたりの方が声をかけてくれた。ぼくにも自然に笑みがこぼれる。やっぱり心が喜んでいる。これもめぐり愛、なのかもしれない。

 さてと、思い出せば、数限りないほどにふれあった瞬間がよみがえってくる。どれもぼくらしいものばかりだ。ときどきの心模様まで思い出せる。めぐりあうとは、人と人のことばかりではない。自分自身とのめぐりあい、というものがある。新しいだれかに出会うとき、思わぬ出来事に遭遇するとき、影からそっと声をかけられるとき、それらすべての瞬間に自分自身にもめぐりあっているのだ。だからめぐり愛はいつも今にあるんだと、それが今回のテーマになっていた。

 「今、めぐり愛」スタッフ。(ヤギおじさんから勝手に拝借)



| 15:09 | 日々のカケラ | comments(6) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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