石川県内の日本熊森協会のメンバーが集まって、10人ばかりのささやかなひとときを過ごした。新入会員の歓迎会というのが名目で、ぼく以外はみんな古顔だと思っていたのにそうでもなかった。自己紹介からすると、どうやら半数近くが最近加入した人たちだ。わずか2、3人の活動で息をつないでいたのが、ここへ来て一気に増えたんだろうか。この調子で早く100万人の会になればいい。
韓国では組織化されていない100万人の庶民が自らの意志でキャンドルデモを敢行したばかりだ。国民が大統領までも動かしてしまう。ひとりひとりに良識はあっても、日本人はなぜ大きな波となって動かないんだろうか。いや、ぼく自身がほとんど動かないひとりだった。
石川支部長を務めている明美さんは、うどん屋ですと自己紹介したあと、木の実が不作の年には町のどんぐりを山に運んではクマの食料の足しにしてきたと、その思いを熱く語ってくれた。一匹の子グマを守れなかったと涙を浮かべて話す科学者もいた。ほとんどの方が自然や動物が大好きだと言い、クマを守ってあげたいと言った。石川県に棲むクマを守れるのは石川県民しかいないと、熊森協会会長の森山まり子さんが言ったそうだが、ここにいるメンバーがその旗頭になるということのようだ。
熱っぽく語る人の輪の中にいると、ぼくは落ち着かなくなりすこし戸惑ってしまう。組織立って動くことが好みじゃないことは自分でも承知しているけれど、これはほとんど病気なのかもしれない。同じ志を持っているというのに、手をつなぐという段になると、どうにも尻込みしてしまう。何かに立ち向かう、ということが出来ないんだろう。やっぱりいつも中途半端なぼくだ。
ぼくが本当にしたいことはなんだろうか、と考えてみた。奥山の最上位に位置するクマの絶滅を防ぐことは大切だし、次代を生きる子供たちにより良い環境を残していきたい。だが、それがしたいことなんだろうか。尽きるところは、ぼくはぼくの人生をとことん味わい尽くしたい。そんな思いがただあるだけだ。何かを守るということは、それで自分の気持ちがいいなら続ければいいことで、でもそれだけで人生を生きたとは、ぼくにはどうしても思えない。情けない気もするが、そういう人間なのだ。
朝の散歩の道すがら、あまりに美しい青の紫陽花に惹かれて近寄り、その下に座ってのぞき込んだ。雨露がひとしずくまるで宝石のように垂れている。美しい、ほんとうに美しい。撮りながら、静まり返る身体の中の感覚に酔いしれた。そのとき思った。今こそ、ぼくは最大の喜びを感じている。これこそ、ぼくが生きているという感覚なのだと思った。
何かを、たとえば地球を守るとか言う人がいて、実際に行動している。そこに喜びがあるからこそできるだろうと、ぼくは思う。責任とか義務とか、道徳とか倫理とか、人情とか優しさとか、変革とか改善とか、そんなもののために動いて、心を砕いて長続きするとは思えない。喜びがあるからできるのだと、ぼくなら思う。
ぼくには熊森協会を論ずる資格などないけれど、喜びがある人とそうでない人の雰囲気の違いならいくらかはわかる、つもりだ。10人のその集まりには、それぞれの震えるような喜びの予感がした。喜びの表現はちがっても、近い将来、それが連鎖反応のように広がってゆくのだ。だがぼく自身はそこでどうしているのだろうかと、自分のことだけがどうしても見えてこなかった。100万人の中にはいろんな人間がいるのだ。ぼくみたいなのも、当然いていいのだろう、と思ったりした。