いつのころからか、作意とか、作為のない写真を撮りたいと思うようになった。意図のない創作があってもいいだろうと思った。ずっと気功に親しんできたから、それを気功的写真と言ってきた。世間に認められたいとか、名を成したいとか、それがかなわないと知って諦めた代わりの、ぼくなりの撮り方なのかもしれない。そしてその撮り方は、欲がない分、肩の力が抜けて、とても気持ちのいいものだった。気功的写真だなと、自己満足してきた。
かと言って、ぼくにはまなざしはなかったんだろうかと、今朝庭で撮りながら思った。なにかに惹かれてレンズを向けるとき、そこに自分が映っているような気がした。たとえば今日は、背の低い枯れた植物の無骨で醜い様が気になった。夜中に降った雪を頭に乗せているような姿が、ほほえましかった。無骨だけれど、惹かれた。そのとき、これはぼくだな、と思った。いつも心の中にぎくしゃくと醜い顔を持っているぼくだ。それを自分では十分に知り尽くしている。ただ表沙汰にはしないだけの話だ。心が醜い者でも、それなりに一生懸命生きている。無骨な植物の冬の姿は、まさに、ぼくだった。
写真家のまなざしは、なにも外にばかり向ける必要ない。自分の内へ内へと、深く入り込んでもいいだろう、と気づいた。私小説から取ったのか、自らの作風を私写真などと言った著名な写真家がいるけれど、同じものなどまっぴらごめんだ。ぼくにはぼくのまなざしがある。写真はほんとうは、言葉にならない内面をこそ表すのだ。ああ、大風呂敷を広げて、これで少しさっぱりした。
けれども、なんのために撮るんだろう。雑誌に載るわけでもなく、写真集のためでもなく、ただ撮ることがつづく理由はなんだろう。そうか、詩だ。poetとしての写真があってもいいのだ。写真集を出版してくれた龜鳴屋の主人がいつか言っていた。詩集なんて売れるもんではないんだと。売れない写真は、詩になろう。深く深く、詩になろう。