kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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 子どもの目だから透き通っているのではないと思う。まだ幼かった彼の目を見るにつけ、いつもそれを感じた。混ざりけがなく、まっすぐに見つめていた。つぶらな瞳という形容がとてもよく似合っていた。人間は忘れるからこそ生きてもいられるが、忘れない方が好ましいものもおそらくあったにちがいない。その目がいつもそう教えていた。いったい何を忘れてしまったのか。

 四人の孫がいる。それぞれに、愛おしい。そして孫よりもなお、この頃は彼らを産んだ娘たちや懸命に生きようと足掻く息子が愛おしい。忘れ去ってしまったものは今さらどうしようもないけれど、子や孫がいる。彼らが見ているものを想像してみるというのはどうだろうか。老いながらでも、いくらかは透明度を恢復した瞳を持つことができるかもしれない。

 写真を撮る上で不可欠な要素をあげるなら、少なくともマスノマサヒロとしては、まずはこの瞳か。瞳が濁っていたのでは話にならない。内なる心象に有象無象がどんなに入り乱れていようとも、この目に色眼鏡やフィルターを取り付けるわけには行かない。それでは対象を見つめたことには決してならないだろう。さらには五感で獲得した材料をもとに考えるという力が必要だ。あるがままを見つめる視点を固持するためには、対象の何があるがままであるのかと察知する洞察力、またはあまり好きな言葉ではないけれど、感受性とか知性とか。それらを濁りなきままに、一流と言われる写真家たちは気負わずに天性のものとして持ち続けているにちがいない。

 幼い孫たちが少しずつ歪んで行く日常を想像できる。若い親たちの悩みながらの子育ても、すでに経験済みだからよく理解できる。だからと言って、濁る必要はないのだ。世の中には、辛酸をなめながら生き続けることで瞳は濁るものだと思われている節がある。それがおとなになることだと、ほとんどのおとなが思っているだろう。だが本当にそうだろうかと、いつも疑う目を持たなければ人生は惰性に陥ってしまう。濁りはたぶん、諦めることで麻痺することで成立してしまう症状なのだ。

 彼の名は、太宇と書いて、たうと呼ぶ。はじめて聞いたときはなんと妙な名前だと呆れてしまったが、今では、そのままで宇宙を感じさせてくれるからか、とても気に入っている。つづく孫たちの名がまたいい。明空(みく)、弥天(みあ)。次女の子は、花音(かのん)。どれにも広がりを感じる。と、ここまで書いて、もしかすると広がりなのではないのかと思い出した。忘れていたもののひとつは。

 遠く広く、しかも深く見つめようとする目。どうやらそれが彼の瞳に感じたものだった。人は、生きて耐えながら、実はその目をさらに磨くことができる生き物ではないのか。あらゆる経験はそのためにあってもいいだろう。






































| 17:32 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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