kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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「いのちの作法」を観て





 記録映画『いのちの作法』の上映会を開いている。今日が二日目。朝の上映中に隣の受付の間でこれを書いている。三日間で十四回上映する日程を組んだものの、その甲斐もなくお客の入りはなんとも低調だ。告知に問題があったのか、それともこの手の映画に関心を持っている人が元々少ないのか、などと今後のためにも原因を探っておこう、とはでも思わない。人から人へ届くべきものは、上げる声の大きさで決まるはずがない。数少ない鑑賞する方々といくらかでも会話してみると、十分に何かを感じておられるのが伝わってくる。この分だと半額にしてもらった映画料さえ支払えないかも知れないが、その時点でまた対策を考えるとして、今はただ上映会のご縁で出会う方々と過ごしていたい。

 『いのちの作法』の舞台は、岩手県の山あいの寒村。映画の解説には、「昭和三十年代、豪雪、貧困、多病多死の三重苦を乗り越え、全国に先駆けて老人医療費の無料化と乳児死亡率ゼロを達成した」とある。住民の生命を最優先に尊重するという類いの言葉なら、今どきの日本の政治家や行政の主導者なら誰もが口にしているだろう。だがこの映画は、そんな空疎な言葉を操るだけでなく、五十年も前に「生命尊重の理念」を掲げた村長の実践と遺志を受け継ぐ若者たちが主人公となって、実際にその理念を生きている物語だ。その中のひとりが映画の終盤に淡々と話す言葉が印象的だ。「便利とか効率を求めたら、ここには何ひとつありません」。そして無いからこそ、住んでいるひとりひとりがお互いを大切にしている。否、そうしなければ、村そのものが消えて行くのだ。「こんなにエネルギーのある人たちが住んでいる村を日本は本当に切り捨ててしまっていいんですか?」と、誰に問いかけているのか、静かに痛烈に…。

 初日にいの一番に鑑賞した一企業の社長でもある友人がう〜むと腕組みをして首を傾げながらつぶやいた。「この映画のようには簡単にはできないよなあ」。その意味を計ることはすぐにはできなかったが、何度もこの映画を観て聞いて、改めて感じることがある。それは、人が生きるという大事業はその意思を持ってこそ達成できるのではないか、ということ。満ち足りた、または満ち足りていると感じている環境で、誰が何を改善しようと動くだろうか。耐え忍んできた寒村の暮らしと、あふれる物に囲まれた街の暮らしでは、自ずと大切にする対象が違ってくるだろう。もしかすると、日本中どこにでもある同じ仕様の町町に住むことじたいが、日本人のうちに宿っていた大切な何かを蝕んできた。たとえば、身の周りの命あるものの息づかいを感じる感性とか。繊細な感性を喪失した人間に、周りを思いやり動き出すための意思が芽生えるとは到底思えない。日本という国が、その中の県が、そのまた小さな市や町の行政が、まるでフラクタルな紋様を描きながら、ただただ同じ方向を向いている。その仕組みの外へ放り出され、忘れ去られそうな人々がいて、『いのちの作法』にはその姿が鮮やかに映し出されている。外面だけの生半可な優しさでなく、これは苦悩する環境から生まれた、経済優先の道をひたすら歩んできた国に反旗を翻す、もの静かで勇壮な物語なのだ。だからだろう、簡単には真似なんかできるはずがない。生命を尊重するとは、観念などでは決してない。そうして生きるための意思と、その意思を持つべき環境が、どうしても必要なのだ。

 ランディさんの『サンカーラ』には、福島原発事故後も住んでいる森に留まった友人の話が実名で出てくる。その方の思いを知ることは、この平凡な暮らしに満足しているのかいないのか、それさえも静かに感じる機会を持とうとしない凡夫に叶うはずもないだろう。それでも読後にふと感じたことがある。放射能に汚染された森に住みつづける選択は、自らの意思で選ぶというより、選ぶしかないのだと、そればかりを感じたのではないだろうか。ランディさんは、その友人と水俣で生きる友人を引き合わせている。「あんたも、この森に、惚れられちょるんですよね」という、容易には理解の届かない言葉が交される会話から生まれ出た。

 人が住んでいる環境から愛されるということが実際にあるものなのかは、わからない。もしかすると白山に佇み包まれるあの感覚に近いのかと、想像することならできるけれど、人がその土地で生きるということの中には、人間には決して知り得ない土地との見えないやりとりがあり、それを通して培われるものが人をまた生かしているのだと、想像が広がっていく。それをこそ環境と言うのだろうか。言葉ではなく肌で土地との交流を感じられる人と人が、映画のあの寒村には住んでいるような気がする。町中に居たのでは決して届きはしない心の環境があるにちがいない。真似はできない、せめて少しでも、これが本当の日本なのだと学ぶしかないのだろう。
 
 その上で思う。3.11の後、避難所から仮設住宅の暮らしを余儀なくされる中で大勢の老人が急激に弱り亡くなっているのは、単純に変わった生活の不便さに慣れない心労が原因なのではなく、生まれて生かされてきた土地との血と汗が滲む交流を断ち切られたからではないだろうか。そして今、日本と日本人は、忘れ去りかつて持っていたことも記憶にない大事なものを、実は今も携えているのだと知り、手元に取り戻す絶好の機会を迎えているのではないだろうか。人が生きる上で、自然に包まれ、その中でふれあうことの価値の大きさがあるとして、それを失ってしまった者たちには知る由もないのだけれど。





































| 01:01 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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