kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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悩ましい日々の糧

砂の紋様 2012 珠洲鉢ヶ崎にて


 あれからもう、四年になる。『風の旅人』に出合い、そのホームページ上で編集長の佐伯さんと何度か言葉を交わした。否、教えを乞うた。三十年あまりも撮り続けながら、あのとき初めて写真が持つ奥深さを感じた。それでいよいよ能登を撮りはじめる気になった。能登には何度も取材で出かけ、人や風景を撮り、横で話も聞いたりしていたが、いつも表面的な描写で済ませていたようだ。つまりは肉薄する意思も意識もなかった。地方の媒体の取材なんて、その程度で十分だった。だが今ならそれがあるとでも言うのだろうか。サイトに残されている文章を改めて読んでみると、佐伯さんの言葉がとてもよく理解できる。いくらかでも成長したんだろうが、理解できるようになった分だけ、深まっていない自分がより明確に見えてくる。

 写真を撮ることで、自分が生きることとしたい。その思いは昔から変わらずにある。撮る対象に向き合うまなざしはでも、深まっているだろうか。その何を撮るつもりなのか、わきまえているだろうか。とてもイエスとは言えない。

 たとえば、人間の価値をどこに置いているか。それを写真ではなく、言葉にすることができるか。写真には言葉は無用だ、などという写真家もいるだろうが、そういう方はおそらく伝えるべき己の言葉を持っていないのかも知れない。見て感じてもらえたことがあなたへのメッセージ、などと聞くと、荒涼とした砂漠を思い浮かべて寒気がする。無味乾燥した内面は、わかりやすい簡単な言葉で武装するしかないだろう。ずっとそうだったから、よくわかる。言葉を紡ぐためには、対象に静かに肉薄するまなざしが不可欠だ。その意識がなくては、撮ったところで世界のなにがどう変わるものでもないだろう。

 被災地に出かけようと何度も思った。大津波に襲われた直後のあの三月に一度気仙沼などを訪ねただけで、結局はそれ以上のことができないでいるのは、その力がないことを知っていたからだろう。まなざしの力、読み取る力、感じる力、受容する力、そしてその場に共にいる力。それらが決定的に欠けている。

 ボランティアとして駆けつけることもせず、ましてや撮ることもしないで思い悩む日々は、それでもそれなりに価値があった。今は悩ましい時なのであって、白黒を選り分けるようなわかりやすく単純な時代ではないだろう。悩ましい者だからこそ、悩ましい時代を見つめることができる。そのまなざしで撮るつもりなら、案外可能なことだろう。

 表現する者にとっての言葉の話だった。悩ましい者はこうして思い悩んだままにこぼれる言葉を大事にすればいい。意識の奥深くにある見えないものに、そうして少しづつでも近づければいい。すべては撮るために、撮ることで生きるために。

 などと言葉に任せて並べてみると、うすっぺらな自分の内面に残ったあの哀しみがまた蘇ってくる。なんというこの四年の日々。まるで撮ることのために、すべての出合いと別れが用意されていたかのようだ。見えるものしか撮れないけれど、思い出やら記憶やら、見えないものが束になって支えてくれている。どうやらこれもひとつの力になるようだ。







































| 17:03 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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