kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| | - | - | - | posted by スポンサードリンク |
身体感覚





 このごろ身体感覚というものに注目している。これから老いて行くばかりの体だとしても、感覚まで鈍らせることはない。女心には昔から鈍感な男だったが、体には割と敏感だった。あれは確かまだ小学生のころだった。何かの拍子に人差し指をもう一方の手のひらに向けてなぞると、触れてもいないのにもぞもぞと指の動きに合わせて感じる何ものかに気づいて、以来それとよく遊んだものだ。その何ものかの正体はこれのことだったのかと、気功に出合い理解した。人間の体は、見えない気の集合体だった。

 おやじの通院に付き合い出向く病院の待合室には、いつも人があふれている。長く待たされ数分の診察を受け、それが唯一の方策の患者も多いことだろうが、己の体を医者とは言え他人に任せ切りだとしたら、何か大きな間違いがそこにあるような気がしてならない。怪我や病気に縁のない体なんてないだろうが、体のことを健康や不健康、元気のあるなし、若い若くない、美しい醜いなどと、表層の見てくればかり気にしていたのでは、せっかく感じる体を持って生まれて来た甲斐がない。

 早朝の散歩を再開したついでに気功も復活した。途切れ途切れで、気功とはもう二十年ほどの付き合いになる。中国数千年の歴史が培ってきた気功には何千という功法があってあれもこれも身につけたくなる時期もあるけれど、昔から続いているのは、結局もっとも簡単なスワイショーと站とう功で、ようするにほとんど立っているだけ。スワイショーは両手をぶらぶら振り、站とう功ときたら立ち続けるのが仕事だ。それでも体とは本当に不思議なもの。簡単な動作を繰り返していると、脳がどんどん休まっていく。站とう功は座禅ならぬ立禅でもある。

 再開してまだひと月ほどなのに、感覚の深まりを感じてまた病み付きになりそうだ。こういう病なら大いに結構だ。三円式站とう功は立ちながら三つの気の玉を抱くもので、今朝はことに愉快だった。見えない気の玉に体ごと吸い込まれると言えば近いだろうか、そうかやっぱり体は気の集まりだったんだと感じられた。大地に融けてゆく心地もして、放っておくと一時間ほども立ってしまう。今はまだほどほどに。気功することを練功という。つまりは気のトレーニングだ。トレーニングに早急な成果を求めては行けない。日々積み重ねてこそ意味がある。それに立ってばかりいたのでは、写真が撮れないじゃないか(笑)。

 なんで身体感覚か。自分で考えるという癖を身につけようと、この一二年試みてきたけれど、考えるということがどうすることなのか、恥ずかしながら正直よくわからない。考えるためには話し合ったり読んだり調べたりしなければならないだろうが、それもどうにも長続きしない。考える葦である人間として、これからも努力は惜しまないつもりだが、せっかく考えたものを腹に落とすということが出来なければ、確たる行動にもつながらないだろう。その、落とすべき腹を作るためにも、体を調えていきたい。

 そう言えば気功の目的にも、調身、調息、調心がある。脅迫観念に駆られた健康ではなく、大自然と気をやりとりしながら体を調えることで全人的な調和へと深まって行く手もある。頭ばかりか体の全部で考える、そして撮る、生きる。この人生があと何年続くものか、などはそれほど大した問題じゃない。要は、今ここにある体をどこまで深く認識し、その体に宿る己とどこまで深く付き合えるか。写真にしても、なにもかも気がつくのが遅すぎるけれど、気がついたのだから、はじめよう。




































| 20:59 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
スポンサーサイト
| 20:59 | - | - | - | posted by スポンサードリンク |
Comment








Trackback
この記事のトラックバックURL: http://kazesan3.jugem.jp/trackback/922
<< NEW | TOP | OLD>>