kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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半島へ


 



 ようやく能登が始まる。写真家として残りの日々を過ごそうと決めてから、能登がますます頭から離れなくなった。日本列島のほぼ真ん中で日本海に突き出した半島の姿を思い浮かべるだけでこの地を撮る理由になるほど、能登の地形に魅せられている。小さな半島が勇猛果敢に大陸と対峙しているのだ。海を、対岸を、睨みつけている。金沢あたりに住んでいると能登は身近過ぎた。半世紀あまりも生きながらえ、今頃になってようやく本気で撮りたいと思い出した。なのに、来てみるといったい能登の何を撮ろうとしているのかよくわからない。この数年の間に『風の旅人』を通して知った若き写真家たちは次々とテーマを設けて取り組んでいるというのに、老いのはじめのこの中年と来たらほんに情けない話だ。ただ能登が気になるというだけでは、どうにも不甲斐ない。さりとて無理矢理何かをこじつけたところでなんだか嘘くさい。ま、いいさ、仕方がない。能登へのこの思いを、少しずつ育てて行くしか道はない。

 冬の能登はとても静かだ。まだ薄暗い松林に佇んでいると、打ち寄せる波の音が微かに聞こえてきた。雪を踏みしめる音。己の息づかいに、風が囁き絡み付く。騒々しい町の人には、この静寂の音は届いていないだろう。飛び跳ねるのではなく、染み入る音だ、身にも心にも。人は時に、沈黙した方がよさそうだ。声高に叫ぶ標語のような言葉はまことしやかに聞こえるものだが、沈黙してはじめて聞くことができる、狭間に漂うような、存在という気配には到底敵いはしない。波打ち際に近づき海を見ていると、遥か彼方へと意識が遠のいてゆく。見えない対岸へだろうか、それとも海に沈んだ同胞たちの命へだろうか。忘れてはいけない。静寂には音があり、声なき声が絶えず流れていることを。

 一昨年の『風の旅人』四十号に「のと」を寄稿した折、上大沢の間垣(まがき)を通して間(あはひ)について考えた。去年の四十三号では「生の霊(いのち)」に出逢い、見えないけれど存在し続けるにちがいない人と人の確かな絆を想った。思えばすでに歩むべき道の扉は開かれている。日常の喧噪のせいにはしたくないけれど、つい忘れている、間(あはひ)のこと、生の霊(いのち)のこと。遅まきながら『風の旅人』に出逢い、導かれるような数年だった。この先は、授かった思いを大事に大事に抱きしめて、己の足でひとり歩くのだ。この半島で耳を澄まし、目を凝らし、この世で出逢う何が本当に大切なのか、考え抜くのだ。

 高さが四メートルほどもある苦竹(にがだけ)で囲まれた間垣は、ことのほか柔軟だ。シベリアからの北西風を拒むでも避けるでもなく、柔らかに受け止めている。間垣の内側に入って感じたそよとした空気の流れこそ、外洋に突き出した半島で生きる人の姿を象徴している。何事も柔らかに加工して己の懐にあっけらかんと納めてしまうのだ。だから、能登へ。半島を歩きながら、学べばいい。

 

 































| 12:36 | 能登 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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