kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| | - | - | - | posted by スポンサードリンク |
写真家の条件





 「撮る対象が写っているというよりか、自分がいいかげんにやれば自分も写らないということを思うんです。一生懸命やれば、そこに必ず自分がいる。対象ではなくて、そこに自分が写っているんです。自分に返ってくる。だから、本当にこわいことです」(森山明子『石元泰博 ― 写真という思考』より)

 石元泰博のこの言葉の真意には、よく言われる「写真には自分が写ってしまう」という安直な言葉など瞬時に吹き飛んでしまう、写真に対する畏怖にも似た感慨が含まれているだろう。対象はおろか今のお前では自分など決して写らないぞと警鐘を鳴らしてくれたのだ、と感じている。

 この頃近所の里山を歩きながら、撮る場合の見つめるとはどういうことなのか、そればかり考えている。たとえば雪上に残る動物たちの足跡をじっと見つめてみる。雪の一片さえも逃さないで目を凝らしていると、ある瞬間、見つめているはずの自分というものが消え失せていることに気づいた。自分の感情、想像、思考から離れ、言葉や概念というものから遠ざかっていた。代わりに対象の足跡が単なる風景のひとつで終わらず、鮮やかに浮かび上がってきた。見える世界の生をイキイキと感じている、というように。

 などと言葉にしてしまうと、どうにもウソっぽい。それもこの感覚はほんのしばらくのことだった。それでも確信に近いものが今も残っている。一生懸命見つめ続ければ、限りなく対象に近づくことができる。絵を描く場合に限らず写真を撮ろうと思えば、自分という存在が消えてしまうほどに見つめること以外道はないのだろう。そのことを「自分に返ってくる」と、石元泰博は言っているのではないのか。

 写真とは、とても不思議なものだ。十分に見つめ(そのつもりになって)、鮮やかに目に映り出した風景を切り取り、一枚、多くても二枚だけ慎重に撮り、やおら対象から立ち去る。その時、妙な心残りを感じている。時間にすればその場に佇んでいたのはわずか数分に過ぎない。それで見つめる行為を終わらせていいものかと、思わないではいられなくなる。ほとんどが瞬間で終わってしまう撮るという行為を成すために、徹底して見つめること以外にも、まだ大切なものがいくつかあるのだろう。対象が発する何ものかと瞬時に呼応する眼力、鋭い野生の直観、またはこの身体の深奥で脈打っている生エネルギーの爆発的な発露と交換。

 石元泰博は、「ある日ある所にいる自由」が写真家の条件だと考えていた(前掲書)。どういう意味だろうか。ある日ある所に自分という存在を置き、自分というまなざしが対象と向き合う。この凡夫では到底及ばない領域で対象との交換が営まれているのだろう。「ある日ある所にいる自由」とは、どこにいるのも自由だという勝手気ままなものでなく、どこにあっても己の態度如何で深みに入って行けるという自由なのだ。逆説的に言えば、撮るためには当然ある日ある所に存在していなければならない。そして与えられた目の機能以上の眼力で見つめ抜き、自らの意思で定着しなければならない。そうでないなら、もはや写真家ではあり得ない。「本当にこわいことです」。

































| 13:08 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
スポンサーサイト
| 13:08 | - | - | - | posted by スポンサードリンク |
Comment








Trackback
この記事のトラックバックURL: http://kazesan3.jugem.jp/trackback/919
<< NEW | TOP | OLD>>