kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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表層と深層と

 


 日野啓三『台風の眼』は風変わりな小説だった。自伝的でありながら脈絡がなく、それでいて地下では深く通じている物語、とでも言えば、少しは理解してくれたねと、氏は微笑んでくれるだろうか。氏の言葉を借りればこうなる。

 意識の表層と深層との明確な境界があるわけではないけれども、表面的な意識で単にまともに生活していただけの時は、多分脳波はなだらかに安定しているのだろうが、刻々と流れ去ってゆくだけのように思われる。逆に何らかの仕方で深層にじかに触れた時――多くは不安と憂愁の時、そのときが言葉の深い意味で、現在すなわち現に在ることであって、だから同じように心ざわめくどのいまとも通底している。時計と暦の時間ではどんなに遠い過去のことであっても、つねに現在となる。現在とは刻々の数秒間のことではない。そのときそのとき露出した深層の震えが、通常の知覚と意識を越えて、現に在る状態を形づくっている。

 よく丁寧に暮らすとか言うけれど、言葉の意味は理解できても、どう暮らせば丁寧なのかよくわからない。しかも丁寧に暮らせば、それで深く暮らしたことになるのかも。命を捧げるとか賭けるとかと、時折聞くけれど、同じようにわからない。命そのものを深く見つめる努力もしないで、それを賭けることに捧げることに、どんな意味が生まれると言うのか。

 大した経験もない者がこうして乏しい言葉を連ね出すといつもため息まじりの虚しさに包まれるばかりだったのに、今はいくらかちがう気持ちでいられる。生きてきたここまでのほとんどの凡庸な時間を捨て去り、「多くは不安と憂愁の時」という「現在」を蘇らせるなら、それなりでしかないけれど、十分にそれなりに現に在る生を生きてきたのだと、思える。

 哀しみの底深くに隠れている、たとえばともしびはほのかに燃えながら、それを見つめることで人は人として行けるぎりぎりの深層まで辿り着けるかもしれない。そこではすでに個の壁が消滅し「言葉の深い意味で」開かれた世界を覗き見ることができる。哀しみから眼を反らし、表層の享楽に耽ることで刻まれる現在を紛らわしていたのでは、本当に生きているとは言えないのだろう。

 自らに戸惑いながらそれでも信頼し、内から溢れ出す言葉で綴る物語も、見えない血や肉までも描こうとする絵画も、道はちがうけれど「何らかの仕方で触れる深層」を目指していた。日野敬三が、磯江毅がその深層を垣間見たのかはわからない。垣間見ようとした生き様が現にただ在るばかりだ。そしてそれこそが命を捧げる姿のひとつなのだと思わせてくれる。

 どうやら少しはこれで生きられる。表層を見透かす気になれる。



































| 20:50 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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