kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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大地よ




 ランディさんが紹介していた「大地よ」という詩のことに、ときどき思いを寄せてみる。作者の宇梶静江さんのこともアイヌもこともなにも知らないのに、この詩にあるような、大地の痛みについて考えたくなる。

 久しぶりに山を歩いた。白峰は大嵐山。いくつか見所があって、年に一度、この季節だけでもと歩きたくなる。まずは水芭蕉だ。例年より一週間ほども遅れての開花。音を立てて沢を下る雪解けの水は冷たくて透明で、どれほどの滋養を含んでいることだろう。地球という大自然の営みの、沢は血管のようでもあり、すると里山こそが営みの根っこだろうと思われる。白虎谷のブナ林が見事だった。風まで緑。吸い込む新鮮な空気を身体に満たしては、樹上を見上げた。空に伸びる木々に抱きつき、耳を当てた。そうすれば水を吸い上げる音が聞こえるのだという。静かに感じてみると、これがそうだろうかという微細な振動のようにして、木の息吹きが聞こえる気がした。

 一日言葉を発することもなく、山に居た。平日なんだか週末なんだか、世の中とは縁遠くなるばかりだが、「大地よ」の詩をまた思い出しながら佇んでいると、自然との新しい縁がいくらかでも生まれたように感じて、ホッとした。おまえにも痛みはあるのかと尋ねても、返事は返ってこなかった。大地に痛みがあるなら、やっぱり人間の仕業だろうか。人が入るということじたい山には必要のなさそうなことだが、どうだろうか。人にも自然とのつながりの中でできることがある。その大きなひとつが、祈り。ああ、やめておこう、祈りだなどと、日々真剣に祈ったこともない者が口にするべき話じゃない。佇んで、ただ静かに手を合わせてみるばかり。

 大地が揺れて、海が揺れて、そのことと人間が本当に関係しているものか、だれからも教わらなかったけれど、かと言って否定することはない。こうして地上に在るということが、人もその一部であることの証だろう。万を超えたたくさんのいのちが、大地と揺れ、海と揺れ、流れて壊れて、消えていった、まるで大地に溶け込むようにして。祈らねばならない、祈りつづけなければならない、つながりのわけを知るまでもなく、遺された者のそれこそが努めとして。


































| 15:02 | 白山 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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