kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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ケ・セラ・セラ

 「私はなりゆく」もの、という捉え方を自分に与えるのは、よくよく考えて、至極安易なことかもしれないと思った。なりゆく、という視点は動かせないとしても、ケ・セラ・セラの側面ばかりを見ていたのではどうにも片手落ちだろう。せっかく生まれ落ちた人生を、適当に済ませていいわけがない。

 ほかに必要不可欠なものがあるとしたら・・・

 出て来ない・・・

 目を閉じて、出て来るのを待つしかないだろうか。

 過去の記憶を呼び起こす。いろいろな出会いがあって、今を迎えていることは確かだ。大体がこの親の下に生まれたことじたいが世の出会いのはじまり。物心がついて自分で選び取ることを覚えたが、親の影響が善くも悪くもあるだろう。おやじのようにはなりたくないと、選んできたものが根本にある。それなのにおやじのようでもあることに気づくと、なりゆくことにも、なにか法則じみたものがあるのではと思いたくなる。

 なりゆくとは、変化し、いつもその過程にあること。生きていることはプロセスにすぎないということか。否、すぎないのではなく、プロセスこそが大事なのだ。「私はなりゆく」ものであり、なりゆく過程こそに、もっとも神経を使うべきなのだ。なるようになるさ、と言えるのは、なりゆく方向や姿勢を定めた者にのみ許されているのではないだろうか。



 結局このままでは、死ぬまでの限られた時間に、自分のことも、人生も、そして世界のなにも理解しないままに終わるだろう。あまりに対象が壮大すぎて、手に負えない。この広大無辺な中をなりゆくのだから、せめてできるかぎりは遠くを見ていたい。遠くの世界、遠くの自分。そこにどんな姿を想像しているのかを自分自身に問いかけながらの、なりゆくものでありたい。

 友人が操るヨットに何度か乗せてもらったことがある。不思議な話だが、動力を使わないヨットが風に向かって進むことができるのだ。説明を聞いて力学上の理解はできても、実際に動くには、経験や感がどれほど大きな力になっていることか。海の男の日焼けした顔を思い出すと、このひ弱で青白い心持ちがなんとも頼りないものに思えてくる。

 生きていることを大洋に浮かぶヨットにたとえるなら、時に荒波に翻弄され沈んでしまうこともあるにちがいない。ただそうなる前に出会う数限りない事象を捉える力というものが、航海に出るなら必要だろう。人生は、残念ながら、気づけばすでに海の上だった。出航するもしないも、なにもわからないままに、またはなにもわからない親の言葉に従い、自分を操り出していた。

 出合いとはありがたいものだ。出合いを重ねて、操る技を身につけることができる。出合いとは恐ろしいものだ。言いなりになっていたのでは、望んでもいない所へ連れて行かれる。そして未来の出合いとは、もしかするとある程度は選び取っているのかもしれない。風をついて進むことができるヨットのように。

 だから遠くを見るのだ。右へ左へと近場では蛇行を繰り返しながらも、あの海の男は遠くを見つめていたではないか。せめてなりゆく方向を定めよ。ひ弱なお前でも、それくらいならできるだろう。ケ・セラ・セラと歌うのは、まだすこし先の話になりそうだ。




























| 13:23 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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