kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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 奥能登の奇祭とまで言われる「酒樽がえし」を撮ってみた。撮るというより気分は見学で、能登の祭りを撮ることで写真をはじめた三十年前の自分と、なにがどう変化しているだろうかと一度感じてみたいと思った。

 あの頃は、がむしゃらにシャッターを押しつづけ、これはという見栄えのいい瞬間をフィルムに定着したかったのだろう。それで写真だと思っていた。でも今は、まったくちがうことを感じている。どんなに面白い写真が撮れたとしても、そこに後世に残るほどの価値があるのかどうか、それこそを考えてみたいと思う。

 たとえば祭りとはなんだ。どこかの商店街の人寄せが目的の祭事ならともかく、祭祀とは常世とのつながりの中で人が尽くす、日常からの日常を離れた特別な演出のひとときだろう。そしてその演出は誰に見せるのでもなく、神々と交わり遊ぶような、などと、能登の歴史も暮らしも知らないで、イメージばかりが広がって行く。多分昔の祭りはまだそうだったのだろうと。




 確かにあの頃、祭りの場で日常とはちがう人々の表情を撮りながら興奮もした。なのに、それと似たようなものに出会いながら、なぜか今空々しいものを感じている。大勢の観衆の目を意識している祭りの衆と、それらしい演技を期待している観衆とが織りなす、パフォーマンス。そこにはもう神々など存在していない。否、それも神との交歓だと言うなら、それはそれでそうなのだろうが。

 写真を撮るという行為そのものは簡単で便利になるばかりだが、残せるほどの写真となると、これはかなり難しいかもしれない。そして残してもしようがない写真など、撮っていてもしようがない、と思う。残る価値というものは、時を経ても変わらない誠が写っているものだと、撮ったこともないくせに思う。

 誠とは、誠意。演じるにも、撮るにも、必要なものだと思う。誠意を持って撮れたとしても、さらにはまだ誠意を持って表す必要がある。形ばかりを調えて、正直でなくなるなら、わざわざ写真にすることもない。酒樽がえしを奇祭とは、ぼくならとても言えない。奇妙なほどに誠を感じる人の姿は、きっと目立たない日常のどこかに隠れているのかもしれない。誠の写真がちやほやされないのと同じように。




























| 12:23 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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