kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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深い写真
 
 「表現の行方」をテーマにした『風の旅人』公開トークからぼくが受け取り、受け取るだけでなくこの先も育てて行きたいものを、一度この体内に植えつけておかなければならないと、強く感じている。あれから一週間ほどが経った。毎日、これからのぼくと写真の行方をどうしようかと想像して、頭から離れない。それこそがトークのひとときに参加して変わった、最も大きな出来事かもしれない。

 トークには、写真家の細江英公さんと森永純さんのおふたりに、中藤毅彦さん、有元伸也さんの将来有望な若手が加わり、田口ランディさんが、ならではの彩りで場を深め、編集長の佐伯剛さんが方向を探りながら進行役を務めた。

 思い出すと、細江、森永という偉大な写真家を評したランディさんの「文学的に」と前置きした話が、まず蘇ってきた。ランディさんは『薔薇刑』を取り上げて、「細江さんは三島由紀夫になっていた。三島は撮られているのではなく、うっとりと三島自身を見ていたんだよ」と、核心を突くように言い放った。森永さんについては、「泥河や海を見ているのではなく、いつの間にか同じ粒子になってそれに融け込んでしまっている。そうなんだよ、融け込んで撮っている」と、確かそんな調子で内容だった。それらはランディさんの言葉というより、わきあがるひらめき、直感のようなものだったにちがいない。作家の言葉が場の波を変え、波のひとつがぼくの中にも押し寄せてきた。被写体との関係を見事に言い当てられた写真家は、それを実感している風ではない素振りだったが、その妙が、本物の表現者としての品位と風格を三人から引き出している気がした。


地べたの菜っ葉は蝶のように舞う

 被写体に限らず、相手に対峙する、などという姿勢があるけれど、それくらいでは撮るという行為がもたらすかも知れない境地には到底及ばないと、ぼくも感じてはいる。理解しようとする、などはもってのほかだろう。見つめて、見つめて、さらに見つめる。そうすると、見えないけれど、それぞれに見合った、ならでは、というような関係が生まれるのではないだろうか。深く体験したこともないぼくにはそれはまだ想像上の話でしかないけれど、満月の霊峰白山の頂に佇んでいる瞬間の、言葉ではないあの融けるような感覚をつい思い出してしまう。

 細江さんは鏡だったのか、それとも三島由紀夫に同化していたのか。撮影の瞬間を思い出しながら「おおっ、もっと、もっと、という感じだった」と、簡潔でだからこそ響いてくる短い言葉で語れば、森永さんは「海が揺れ出し、その上を歩けるのではないかと感じることがある」と、まさに体験した者にしかわからない深い言葉で振り返った。そうだ、深い、としか言えないけれど、本当に深い体験が、写真を撮る、という行為の奥底にはあるのだろう。それをこそぼくは感じてみたいのだと、今確かに思っている。

 何をやっても長続きしないぼくが、大したテーマもなくここまでの三十年を写真と共に生きてきた。それが自分でも不思議だ。ただ好きというだけではないものが、ぼくと写真の間にもあるような気がしている。深い体験に基づく深い写真というものが、きっとあるにちがいない。




























| 10:54 | 写真 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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