kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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『禅』
 映画『禅』を観た。主人公の道元禅師が生きた乱世の鎌倉時代は今の状況にとても似ているのだと、原作者で製作総指揮の大谷哲夫駒沢大学総長が書いている。二十一世紀はたしか心の時代だと叫ばれていたはずだ。まずはその十年がそろそろ過ぎようとしている。心の時代とはなにを指して言ったんだろう。凶悪犯罪は後を絶たず、高級官僚は私利私欲に走り、経済が傾き出せば企業は社員の生活など眼中にないかのように振る舞っている。心は、どこにあるのだろうか。人心が乱れた鎌倉と、やっぱり同じ今なのか。

 道元は、怨霊に苦しむ時の執権北条時頼を、命を賭して諌めた。「あなたは救われたいと願いながら、なにひとつ捨てる勇気がないのだ」。固執する権力などに縁はなくても、だれもがなにかにしがみついているのかもしれない。ぼくの執着はどこに向いているか。それを手放さないで、楽になりたいと願ってはいないか。そのことと、心の時代はどこかでつながっていないか。現代人が失ってしまった大切なものを、かりそめの癒しやブームのような霊性で果たして取り戻せるのだろうか。


 道元の生涯がもちろん映画の主題なんだろうが、ぼくは史実に登場しない人物に惹かれた。いわば庶民の代表だ。遊女おりんは、怠惰な夫松蔵を見限り、乳飲み子を失い、道元に帰依して自分の内なる仏に出会う道を選んだ。物乞いする松蔵に剃髪を手渡し旅立って行く。松蔵はそれとは知らずに、「なんだこんなもの」とばかり中空に投げ捨ててしまった。物に目を奪われる人の性はいつの時代も変わらないだろうが、それは人により選択するものがちがうだけなんだと、そのシーンを見ながら思った。おりんはすべてを捨て心の平安を選び、松蔵はそれを物で解決しようとした。

 世の中がどんなでも、なにかを選び取ろうとする選択は、個人の意志にあるだろう。「ただ坐りあるがままの真実の姿を見ることこそ悟りなのだ」と言った道元の仏道を、真似事ならまだしも、ぼくが選ぶことはたぶんないだろう。けれど、捨てることなら、少しずつでも真似してみたい。これから先、何かを得ようとする必要はないし、得ているものを持ち続けることもない。そう思うだけで、いくらか気が楽になる。

 大谷総長は、「道元の行き着いた世界は言葉では表すことのできない非言語の世界。それはかつて日本人が持っていた世界で、心の豊かさに通じる」とも書いている。ただ坐り、あるがままを見つめるのか・・・。


 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり  
                               道元


 道元は五十四歳でその弁道の生涯を閉じた。ちょうど今のぼくだ。偉大な禅師と比べることもないけれど、ただただ恥ずかしくなる。


| 19:05 | 日々のカケラ | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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