己丑(つちのとうし)の元旦の朝がめぐってきた。朝の来ない夜はないのだからふしぎなことでもないけれど、当たり前のことでもないだろう。
日付の変わる時刻に、ことしもヨシエどんを誘って白山さんに初詣に出かけた。西暦の正月には詣らないぼくたちだから、せめて月暦の元旦には神に手を合わせようと去年からはじめ、習慣にしようと思っている。水気を含んだ重たい雪が闇の空から降りてくる。「でもそんなに寒くないね」。どちらからともなく交わす会話に、普段とは少しちがう雰囲気が感じられる。誰もいない深夜のお宮さんには、言葉にならない、いや言葉にしたくない雰囲気がある。表参道に入る一の鳥居で立ち止まり頭を下げた。先にどんどん歩いていたヨシエどんも、それに気づいて深々とお辞儀をした。
何段あるんだろう。長い階段の参道には何人もの踏み跡が残ったすこし汚れた雪が積もっていた。歩きにくい。もう十年以上も履いている長靴は底が磨り減って滑るのだ。手をつないで登った。「ずいぶん早く歩くんだなあ」。このごろ運動不足のせいか、それとも人生をゆっくりと歩きたいせいか、ヨシエどんに引っ張られながら歩いた。
誰もいないと思ったら、人影がふたつ降りてきた。あったかそうなダウンを着込んだ青年たちだ。すれ違う瞬間に互いに目を向け合ったけれど、どちらもあいさつはしなかった。「あの人たち、どうも初詣という雰囲気じゃないね」。わざわざ話題にしなくてもいいようなことを話した。
拝殿と白山の遥拝所の二カ所に参拝した。心の中にも言葉を唱えるようなことはしなかったが、ここまでの日々をこうして暮らしてこれたことへの感謝の気持ちを伝えたかった。菊理姫様が微笑んで迎えたくれたような気がした。人を寄せ付けない雪深い白山が浮かんできた。今年も静かに始まった。
山門を出ると、またひとり、青年に出会った。今度は向こうから会釈した。軽くあいさつを返す。とそのとき、青年がゴム草履だけの素足なのに気づいた。ジャケットさえ着ていない。大して寒くないと言っても、この冷たい雪の上を、どういうつもりなんだろう。ふしぎな人だ。そして、ハッとした。もしかすると、国の習慣にならってお正月を祝いに来た外国の人かもしれない。日本以外のアジアの国々では、今も昔ながらに月の暦で暮らしているそうだ。彼らはきょうこそ、新年を迎えているのだ。まだまだ復興していない四川省でも、ミャンマーでも。だから我家でも。そしてきっとあのゴム草履の青年も。
長靴は下りではますます滑ったけれど、中はとてもあたたかかった。それがなぜだか、すこし悲しかった。