kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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帰途
    帰途

           田村隆一


 ・・・・・・
 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 ・・・・・・
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる







 友人が送ってくれた詩を何度も読んでいる。詩は、簡単ではないけれど、だれにもわかるような簡単な言葉を、今は必要としていない。なにひとつ響いてこないのだ。それくらいなら、何度も読んで、噛み砕きしながら、濁り切った氷の塊を溶かして行くかのように、まだ見えてもいないこの迷いを洗いざらい放り出してしまいたい。

 人の涙にある哀しみは、やがていつか、かならずや癒えていく。大した経験もない者が言ってどうなるものでもないけれど、そうでなければ生きてはいけないだろう。だったら哀しみは、ひとときのものになる。死ぬまで忘れないことがあったとしても、同じ大きさで深さで生涯哀しめるはずがない。人間とはきっと、その程度のものだ。だから、哀しめばいい。とことん哀しみ、涙するあなたに、だからぼくも真摯に立ちどまる。

 そして、なぜ、帰途なのか・・・、

 帰途、涙で見えない帰り道、血にまみれた帰り道、

 かたくなで暗くて、だけどなぜかあったかい・・・、

 帰途を見守るまなざしでもあるように






























| 22:15 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
事物の深みの中へ

  1975 Shinjuku

 きょうで世界が終わるとしても、人のすることは限られている。いつもとおなじようにパソコンを開き、画面から言葉を拾い出す。Twitterにルドルフ・シュタイナーの言葉を紹介するアカウントがあって、ときどき見ている。たとえば、 @R_Steiner_jp「事物の隠された意味を知らなければならない。事物の深みの中へ降りて行き、そのつど、新しい生命力をそこから汲み取ることができなければならない。その力が人間の中で死んでしまえば、結局は外界の諸事物もまた、生命を促進できなくなる」。

 シュタイナーに興味を持ったのはもう二十年近くも前のことなのに、事務所の本棚に関連本が何冊も並んでいるだけで、ここまでほとんど開くことがなかった。シュタイナーという方には、優れた功績を遺しながら専門分野という枠がない。医学、教育、きっとほかにもいろいろあるのだろうが、よく知らない者には述べる資格もない。ただ遺された世界の根底には、人間なら是非とも関わっていたい深く気高い霊的な精神性が息づいているのだと感じている。

 我が子たちを外国にあるシュタイナー学校に入れることなど現実離れしたものでしかなかったが、読んで少しの知識を得ては、それを使って幼かった子どもらと遊んだものだ。まっ白な画用紙に左右対称の絵を描きながら、子どもらは楽しかっただろうか。「事物の隠された意味」を知らないこの親に、いったいなにができただろうか。振り返ると、成人した子らへの申し訳ない思いでいっぱいになる。

 孫を持つ世代になって、未だに「事物の深みの中へ降りて行く」ことを知らない。だから「新しい生命力をそこから汲み取る」こともできていないのだろう。そして、「外界の諸事物もまた生命を促進できなくなる」。

 先人の珠玉の言葉を、全体像も知らずにほんの一部をなぞったところで、大したことにならないことはいくらの凡夫にもすぐにわかる。けれど、感じてみたい、「事物の深みへと降りて行く」ことを。どうすればそれがかなうのか。事象事物の中で生きているしかない今を、せめて生きながら見つめるのだ。「隠された意味」があってもおそらくこの生涯で知ることはないだろう。ただ「生命を促進」する、その一部として、我が子や孫たちと手を取り合って共に見つめていたい。






























| 10:51 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ケ・セラ・セラ

 「私はなりゆく」もの、という捉え方を自分に与えるのは、よくよく考えて、至極安易なことかもしれないと思った。なりゆく、という視点は動かせないとしても、ケ・セラ・セラの側面ばかりを見ていたのではどうにも片手落ちだろう。せっかく生まれ落ちた人生を、適当に済ませていいわけがない。

 ほかに必要不可欠なものがあるとしたら・・・

 出て来ない・・・

 目を閉じて、出て来るのを待つしかないだろうか。

 過去の記憶を呼び起こす。いろいろな出会いがあって、今を迎えていることは確かだ。大体がこの親の下に生まれたことじたいが世の出会いのはじまり。物心がついて自分で選び取ることを覚えたが、親の影響が善くも悪くもあるだろう。おやじのようにはなりたくないと、選んできたものが根本にある。それなのにおやじのようでもあることに気づくと、なりゆくことにも、なにか法則じみたものがあるのではと思いたくなる。

 なりゆくとは、変化し、いつもその過程にあること。生きていることはプロセスにすぎないということか。否、すぎないのではなく、プロセスこそが大事なのだ。「私はなりゆく」ものであり、なりゆく過程こそに、もっとも神経を使うべきなのだ。なるようになるさ、と言えるのは、なりゆく方向や姿勢を定めた者にのみ許されているのではないだろうか。



 結局このままでは、死ぬまでの限られた時間に、自分のことも、人生も、そして世界のなにも理解しないままに終わるだろう。あまりに対象が壮大すぎて、手に負えない。この広大無辺な中をなりゆくのだから、せめてできるかぎりは遠くを見ていたい。遠くの世界、遠くの自分。そこにどんな姿を想像しているのかを自分自身に問いかけながらの、なりゆくものでありたい。

 友人が操るヨットに何度か乗せてもらったことがある。不思議な話だが、動力を使わないヨットが風に向かって進むことができるのだ。説明を聞いて力学上の理解はできても、実際に動くには、経験や感がどれほど大きな力になっていることか。海の男の日焼けした顔を思い出すと、このひ弱で青白い心持ちがなんとも頼りないものに思えてくる。

 生きていることを大洋に浮かぶヨットにたとえるなら、時に荒波に翻弄され沈んでしまうこともあるにちがいない。ただそうなる前に出会う数限りない事象を捉える力というものが、航海に出るなら必要だろう。人生は、残念ながら、気づけばすでに海の上だった。出航するもしないも、なにもわからないままに、またはなにもわからない親の言葉に従い、自分を操り出していた。

 出合いとはありがたいものだ。出合いを重ねて、操る技を身につけることができる。出合いとは恐ろしいものだ。言いなりになっていたのでは、望んでもいない所へ連れて行かれる。そして未来の出合いとは、もしかするとある程度は選び取っているのかもしれない。風をついて進むことができるヨットのように。

 だから遠くを見るのだ。右へ左へと近場では蛇行を繰り返しながらも、あの海の男は遠くを見つめていたではないか。せめてなりゆく方向を定めよ。ひ弱なお前でも、それくらいならできるだろう。ケ・セラ・セラと歌うのは、まだすこし先の話になりそうだ。




























| 13:23 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
私の孤独

「孤独と一緒だから寂しくない・・・」



 Ma Solitude / Georges Moustaki 











| 23:35 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
環境


 
 飢餓や貧困に苦しんでいることも、のほほんと平和ボケした日本で自分だけの小さな幸せを守っていることも、だれもが生まれ落ちた環境の中で生きているという点では同じだ。だれか少数の人が環境を飛び出すことがあったとしても、飛び込んだ新しい環境の中でまた生きていくしかない。環境を替えることはできても、環境は簡単には変わらない。受け入れるとか受け入れないの問題ではなく、与えられた環境で生きるしかないのだ。環境の比較に、意味があるだろうか。それよりは、自らが立つ場所で、自らを分析し、明日はどう生きるかと見つめるのだ。その環境でしか経験できないものがあり、その環境でしか創れない自分がある。環境のせいにはするな。どんなに生ぬるい日本だとしても。






| 22:55 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
虚しい一日
 ときどき不思議に思うのだけど、ミクシィに並ぶ日記や最近追加されたTwitterのようなおしゃべり機能を見ていると、世の中の人っていつもこう元気なんだろうかと、思わずふさぎ込んでしまうほどの気持ちになる。虚しい、という感覚だろうか。取り立ててはっきりとした理由があるわけでもないのに、家族や周りの様子のちょっとした変化に反応して、ときどきそうなってしまう。虚しいというのはあまりいい気分ではないけれど、虚しくなったらそこにいるしかないわけで、いつかまた回復するのを待っている。虚しい、空しい。中味がカラッポだということだ。世の中も、自分自身も。

中宮堂・北弥陀ケ原。白山にまたひとつ好きなポイントができた。

 けれども、虚しいという一字は、ぼくの大好きな虚空という言葉にも含まれている。虚空はいい。何もない空間、そら、と広辞苑にある。何もないということこそ、もっとも安らかな境地にちがいない。「一切の事物を包容してその存在を妨げないことが特性とされる」そうだ。なんのことだかよくわからないけれど、虚空という響きに包まれているだけで落ち着いてくる。虚空蔵菩薩は、「虚空のように広大無辺の福徳・智慧を蔵して、衆生の諸願を成就させる」という。これと言ってかなえてもらいたい願いごとがあるわけでもないけれど、その菩薩の胸に抱かれて眠っていたい気持ちになる。そんな願いも、かなえてくれるだろうか。

 虚しいという気持ちが、なんだか、そんなに悪いものでもないと思えてきた。どうせ世の中はカラッポなんだと厭世的になるのではなく、自分のカラッポさに気づいて、カラッポな自分をゆるしてどこまでも広げて行けばいい。どこまでも広がって、やがて虚空に融けてしまえばいい。そうかきょうはうれしくも、虚しい一日だ。






| 07:49 | 心の森 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
愛とは
 

 司式の牧師さんの言葉が深く心に残った。「愛とは感情ではありません。愛は意志です」。結婚する若いふたりへのこれから歩き出す旅のはなむけの言葉を聞きながら、ぼくのこれまでの人生は感情に左右されることが多かったと、思わず振り返ってしまった。だが面白いことに、人は年を取るにつれ、感情に振り回されることさえ面倒臭くなるのかもしれない。相変わらず雑多な感情があふれてはくるけれど、ああまたかと、感じてあとは捨て置くことが多くなった。感情などどうせ一時的なものに過ぎないのだ。そんなぼくは畏れ多くも思うのだ。愛も感情でいいじゃないか。とことん感情で愛し合い、それでもやがて感情だけでは成り立たないことをだれもが知るにちがいない。その時どうするかのちがいがあるだけだ。ただ思い出せばいい。愛にはまだまだ余地があることを。意志の力で大きくも深くもなって行くのだ。育むことができるのだ。





| 22:31 | 心の森 | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
小さなものは小さなままに
 朝の散歩の途中で気になったものを撮っている。ぼくの趣味のひとつにすぎないけれど、だれも気にならないものが気になるのだから、これが結構面白い。道ばたのそれも柵の蔭になっているツユクサが目に留まった。持っているのは“等身大レンズ”と呼ぶことにした標準だけだから、ピントの合う範囲でどんなに近づいても画面の中では点のようにしか写らない。それが物足らなくてどでかい180mmのマクロでのぞいたりもしたが、近ごろは、小さなものは小さなままがちょうどいい。小さなものを拡大できるのも写真の面白さのひとつにはちがいないけれど、それではどうにも今の気分に合わない。見えているそのままの方が、より存在感を感じてしまうほどだ。



 撮り終えてまた歩いているうちに、ふと思った。小さなものが小さなままでいいんだから、ぼくはぼくのままでいいんだと。およそ生き物というものは成長してそれなりに大きくなるのだけれど、親が子に過度の期待をかけるように、人間にだけは通常の度合いを越えた成長が望まれたりする。魂の成長を望んでいる人もいるくらいだから、人間の欲望というものには切りがない。ふと、また思った。人間は魂も含めて、ほんとうに成長しなければならないんだろうか。成長を望むと、いつか、苦しくならないか。ぼくは成長することより、できるなら平和な心でいたい。望む心は平和を乱す元にならないだろうか。

 苦しんでいる人に、あなたはあなたのままでいいんだよ、とささやくと、楽になることがある。なぜだろうか。変わろうとするから、自分ではないものになろうとするから、成長したいのにそうならないから・・・。理由などいくつも挙げられるだろうが、ぼくにはひとつだけ忘れたくないことがある。だれもがそのままでいいのだと思うけれど、それに関わらず変化も成長も自然な営みとしていつも起こっている。この世に変化しないものなど存在しないだろう、ということだ。ぼくは、このままのぼくでいい。ただ忘れないで、見ていよう。昨日と今日と、そして明日のぼくのちがいを。存在しているから感じられるにちがいない、自然な営みとしての成長を。

 ぼくは、ツユクサだ。




| 19:32 | 心の森 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
気分屋
 ランディさんが「ネガとポジ」についてブログに書いていた。ほんと素敵な方だ。サバサバしていて、ウジウジしたぼくにいつも清々しい風を運んでくれる。

 昨晩から、なぜだかわからないが、急に気分が下りはじめた。否、正確にはなぜかわからないのではなく、心の中をこまかく見つめればなんとなくでも理由は出てくる。ただそんなことは面倒くさくて、落ちる気分に任せていたいだけだった。

 エミサリーのひとときに、ユージンが言った言葉を思い出した。それは「本当の自分に出会ったら、それこそ歓喜にあふれて力がみなぎるものだ」というような内容だった。ふ〜ん、そんなもんか・・・と、ぼくの中の返事はそれ以上なにも出てくるはずがなかった。ぼくは心底歓喜に満ちたことなどないし、生命力がみなぎっていると感じたこともない。本当の自分に寄り添うなどと言いながら、本当の自分を本当には知らないということだ。なんだかいろんなことがバカバカしくなるときがある。今がそのようだ。本当の自分に出会って歓喜にあふれているような人を何人か知っているが、近ごろはあまり近づきたいとは思わない。



 ランディさんの最後の言葉を拝借すると、「ネガでもポジでもどっちでもいいの?」という問いかけに、「どっちでもいい。大きな問題じゃない。ポジティブだけの奴なんて異常だ。そんな気持ち悪い人間になっちゃいかん。バランスだよ、バランス。陰転じて陽となり、陽転じて陰となるってね。転じるまで、とことん落ち込めばいいし、落ち込むまでとことん突き進めばいい。同じ状態を維持するのは無理だ。人間の身体は自然で、脳も自然の産物で、自然というのは変化するものだからね」と、なんとも明快だ。

 ぼくは気分屋だから、これで結構波がある。顔にも出るし、態度も急に悪くなる。そんな時は極度のネガネガ人間だ。長い時には二日も三日もそれを引きずっていたものだが、近ごろは年のせいか引きずる元気もない。生命力の欠如だろうか。ネガでもポジでもどっちでもいい、というより、そんなこと面倒くさくて感じていたくもない、という感じ。ネガという気分になることにさえやる気がないのだから、これじゃ生きてることにもならないぜ。

 不思議なもんだ。こんなブログのページでも、自分の気持ちを吐き出すと、いくらか気分が晴れてくる。排泄とおんなじだ。排泄された文章を読まされた人はたまらない。申し訳ないかぎりだ。

 窓を開けて空を見上げようか。青空が言っている。ネガでもポジでも、やる気がなくても、なんでもいいさ。きょうのお前で、それでいい。さてと、今の気分とつきあったら、サッサと飯でも喰ってやれ。




| 09:04 | 心の森 | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
好意とか善意とか
 好意とか悪意とか、人には心や気持ちがある。それを元に行動もしている。自分の思いに忠実になればなるほどそれが原動力となって、行為や言葉として外に表れることになるのだろう。そんなことを思っていると、好意にも悪意にも、かなり一方的な側面があるような気がする。

 試しに好意を広辞苑で引くと、親切な心、好きな気持ち、親愛感などとある。好意を無にする、好意に甘える、好意を寄せる、好意を持つ、などと、好意という気持ちの周りで人は行動したがる。悪意はどうだ。他人に害を与えようとする心、わるぎ、わざと悪くとった意味、とある。悪意を抱く、悪意に満ちた、とはよく聞く言い回しだ。わざわざ意味を調べるほどのこともなかったが、好意にも悪意にも、やはりそれを持つ人の一方的な匂いが漂っている。

 もうひとつ善意という言葉が浮かんできた。善良な心、他人のためを思う心、好意、などとあった。好意に似ているけれど、いくらか雰囲気がちがって感じられる。他人のためを思う分だけ、一方的な匂いが薄らいでいるようだ。すると、好意も悪意も、自分のためにあるような気がしてきた。対象を思いながら、実はその思いで自分を満たそうとしているに過ぎないのではないか。言うならば、自己のためだ。



 面白い。これはぼくにとって、実に面白い発見だ。ときどきに出会った女性に好意を持つことがある。そろそろいい加減な年になっているのだから大したことにはならないのだけれど、恋心にも似たその好意にはとても押し付けがましいところがありそうだ。相手を思っているようで、実は枯れてゆく自分を満たしたいだけなのだとわかる。

 殺人事件の審判では、殺意の有無が量刑を左右しているようだ。同じ行為でも、その意志があったかどうかと問うている。それも思えば不思議なことだが、行為が偶発的突発的なものなら、ある程度はゆるされる、ということか。一方的な思いがないなら刑は軽くなる、ということか。

 どんな思いも、大義名分を振りかざし、自己のために向けていることが多いのだとしたら、他人を思いやるということがどんなに尊いことだったかと、ハッと目が覚める。ぼくには、深い哀しみを知っている友がいる。重度の障害児を抱え、安まる暇もない日々を送っている。そして彼女の哀しみは、周りの人たちへの深い思いやりともなって表れる。その深さはきっと、好意や悪意、善意とかを越えたところにあるのだろう。その優しは、人が本来持っている本能のようなものなんだろう。一方的な思いが多すぎる世の中で、それこそが本物の心だ。自己中の極みを行っているぼくへの大いなる戒めになる。

 


| 07:21 | 心の森 | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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