kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

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地球服
 「本当のあなたへ帰る旅」とも呼んだアート・オブ・リビング・セミナーで、地球服という言葉が使われた。この肉体ばかりか、頭を使って考えることも、心の深くで感じることも、すべて地球服と呼ぶこの地上で暮らす方便だ、というわけだ。本当のあなたが、この地上に一着しかない地球服を着込んで、地球の生命体として体験を積んでいる。そんなふうに考えると、それぞれの体験がどんなものであろうと、含まれている価値はほかと比べようもなく、唯一それを体験している本当のあなた自身にとってのみ、意味が生まれるものだ。地球服という言葉を聞いて、それがぼくの今の理解だ。

 今でも毎日思いをはせる、天上にあるだろう友の存在は、しかしこの世で出会いふれあったころの面影がちかごろ急速に薄らいできた。別れてからまだ、わずか二年と七ヶ月しか経っていないというのに、だ。どういうことだ。ぼくが薄情なせいだろうか。記憶や思い出に温もりだけが残り、起伏の激しかった感情や見えていたはずの形の一切が消えていく。微笑む写真を見ても、ほんとうにこの友と過したのかと、自信がなくなってしまうほどだ。これは、死別の当座に優るとも劣らない寂しさかもしれない。

 そしてふと、あれは友の地球服だったのかと、懐かしむ気持ちが生まれた。孤独の淵に下りてはいつも泣いてばかりだった。表向き明るくつとめる姿がいじらしく、はがゆくもあった。やさしすぎた性格から人の言うことばかりに耳を傾け、自己を見失うこともしばしばだった。泣いて笑って、また泣いて、泣くことで内に溜め込んだ熱いうねりを解き放っていた。ほんとうに、懐かしい。あれが友の地球服だった。



 だれもがみんな、片時の地球服を着込んでいる。ぼくも妻も、子らも孫も、おやじもおふくろも。心通わせる友、ただすれ違うだけの通行人、空を飛ぶ航空自衛隊のパイロットも、薬品の瓶を投げる環境保護団体のメンバーも、殺人を犯す人も殺される人も、今朝の公園をひとり黙々と掃いていたあの人も、だれもが、片時の人だ。

 けれども、問題がそれで解決しているわけじゃない。地球服を着込んでいることがわかったところで、ぼくは本当の自分に帰れたのか。否、その前に、帰りたいと思っているのか、帰る必要があるのか、さえわからない。いまのぼくは、確かに片時のぼくだ。それは間違いのないことだ。その気になれば、この服を脱ぐことは簡単だ。無理に脱がなくても、日々少しずつ脱いでいる。きょう襟のボタンに手をかけ、明日はふたつめのボタンを外すのだ。地球服を脱ぎながら、本当のぼくが見えてくるなら、それはそれで結構なことだが、今はまだなにもかもが不確かなままだ。

 梅雨時の青空がことのほか爽やかに広がって、田んぼの稲に波立つ風が天上の友の微笑みを運んでくる。あれは、ほんとうの自分に帰った友の、微笑みだ。不確かなぼくを、確かな思いやりで包んでいる。この地球服の存在を忘れてしまいそうなほどだ。



| 12:49 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
閉じてゆくこと


 山道を歩いているときのことだった。水たまりに映っている木立が気になり、撮ろうとカメラを構えた。のぞいたファインダーの中でピントが合っていたのは木立ではなく、水に沈んで泥まみれになっている枯れ葉や折れた小枝だった。重厚という言葉が似合うモノトーンの風景は、墓場のようでもあった。なのに、花や女性のような美しさではないけれど、ぼくの奥深くでうねるような、美をそこに感じた。それを美と形容していいのかぼくにはわからない。ただ、これまで感じたことのない、透明感のある美しさだった。そのものは濁って水中に埋もれていただけなのに。

 一枚、二枚と撮りながら、そのときはっきりとした思いが浮かんできた。「閉じてゆくこと」。しばらく「撮るということ」を念頭において撮っていたからだが、ぼくが今撮るということは、閉じていくことなのだと気がついた。なんとも寂しい気持ちになった。ぼくという人間が終わってゆくのだ。ずっと長生きしていたいと思っているわけではないけれど、閉じることを感じてみると、言葉にならない、哀しみのような、切なさのような、感情ではない、淡く確かな、熱く冷たい、ぼくの奥深くに眠っていたような波が静かに、急に、またうねりはじめた。それからというもの、表向きはなにひとつ変わらないぼくのなにかが、泥の中に埋もれてしまった。

 ところが、天の計らいだろうか、アート・オブ・リビング・セミナーのひとときに「創造のプロセス」が取り上げられ、そのとき、まるで初めて気づいたように気づいたことがある。人生には四季にも喩えられるサイクルがあり、それがそのままプロセスでもあった。たとえば、お腹の中に宿った胎児の時代が冬なら、誕生はまさに春を迎えた瞬間だろうか。成長して躍動する夏の季節、実り多き人生だったと天を仰いで振り返る秋、そしてそのあとは・・・。マーシャが言った、また冬に戻るのだと。それは天国に舞い戻ることばかりではない。創造のサイクルは、人生の中にたったひとつがあるのではなく、いくつもいくつも、大きく小さく、四季を廻っている。

 今ぼくが閉じてゆくのだとしても、それは自然の流れだった。抵抗して流れを乱すより、軽やかに流れに乗ることができたなら、哀しみはまだあるだろうか。ひとつの幕が下りる。または舞台は暗転し、それが冬の時代なのだ。いまぼくは秋を終えてゆくのだから、その準備をすればいい。秋の風はどこかうら悲しいけれど、一年のうちでもっとも濃厚で味わい深い気がする。その重たさを、これからは脱ぎ捨てて行こう。

 思えばこの二、三十年の日々は、まさにぼくの夏だった。とても素晴らしかった夏に、今夜は乾杯だ。やがてくる冬を、ぼくはどこでどんなふうに暮らしているだろうか。それが地上界でも天上界でも、ぼくの豊かな創造のプロセスだ。静かに深く過ごしてみよう。




| 20:53 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
サボテンの花
 サボテンが咲いた。友人が贈ってくれたものから挿し木を重ねて、これが三代目だそうだ。親はいつの間にか枯れてゆき、こんなところにも命が受け継がれているのかと思うと、ことのほか美しい。「ひと晩咲いて終わるのよ」とヨシエどんが言っていたのに、昨日の夜咲いて、今朝になってもまだ咲いている。根付いて三年目か四年目で、はじめてつけた花だ。あんまりきれいだから、背景もあつらえて窓のやわらかな光で記念撮影してやった。はじめて撮るサボテンのポートレートだ。そして、開いてからずっと声をかけている。「きれいだよ、ほんとうに美しい」。



 アート・オブ・リビング・セミナーの中で、この実際に声を出すことの大切さをユージンが何度か強調していた。あれは祝福する時間でのことだった。もっとも嫌いな、または不得意とする人を思い浮かべ、その人に向けて心をこめて祝福の言葉を送るのだ。「あなたを祝福します。あなたの未来の時間に愛の真実があふれますように」。同じようにつづけて、何人もの人に祝福の言葉を送った。するとどうしたことか、ぼく自身のいつも傷だらけの心が和らいでいくのを感じた。人を批判の目で見ることが多いぼくは、心の所々が痛んでいる。その傷が、癒えて行った。あんなに優しい気持ちになれたのは、何年ぶりのことだったろうか。
 
 ユージンは言った。「自分に聞こえる程度でいいから、声に出して祝福することが大切だ。自分の声を自分の耳で聞くのだ」と。声にも波があるから、その振動が耳を通して体に伝わるんだろうか。祝福の心は、まず自分自身を包み込んでくれるようだ。つづくユージンの言葉が面白かった。「祝福はスピリットの流れに乗って天から届くもの。声に出して、自分がその流れを伝えるパイプになる。だからまず自分自身が祝福されるのだ」。そうかもしれない。そうかもしれないが、話がそこまで行くと、ぼくはいつもそんなものだろうという程度で納めてしまう。ぼくにわからないことを鵜呑みにしたくないだけなんだろうが、それでもいつも大きな安心につつまれている。人は生まれてきたというそのことだけで、すでに祝福されているのだと、理由もなく確信しているぼくだ。

 サボテンを両手でつつむようにして、また声をかけた。いま花開いている君を祝福するよ。ほんとうに美しい。ありがとう。その声がまるで、ぼく自身のことを言っているように聞こえた。サボテンが、もしかすると、ぼくにそうささやいてくれたんだろうか。





| 09:23 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
サンクティフィケーション
 明日搬入の個展の準備をしようと思っていたら、今朝はうまい具合に早朝から目が覚めた。まだ薄暗いうちに家を出た。そうだ、久しぶりに参道を歩こうと思いついた。心に浮かんだアイディアにはなるべく忠実でありたい。小鳥たちさえまだ起きていない境内をゆっくりと歩いた。もしも人生にこの静寂がなかったら、ぼくは気が狂ってしまうかもしれない。日中のドタバタは、この短い静寂で採算が取れてしまう。まさにこれが、エミサリーの伝えるサンクティフィケーションだと思った。

 サンクティフィケーションと瞑想は似て非なるものかもしれない。自分の中心に入って行くことに変わりはないだろうが、サンクティフィケーションには決まった形がない。それぞれが本当の自分に自分の中心を合わせることができれば、それで事が足りてしまう。難しいことはなにひとつない。静寂を拠り所にして一日を始めればいいのだ。眠りの前に静寂につつまれ、一日を振り返ればいいのだ。そうしてそれぞれ十五分ほど過して、自分の外の荒波に呑まれないようにすればいい。呑まれていた日は、それに気づいていればいい。覚醒とは無縁の話だろうが、スピリットの流れに寄り添い、生命とともに暮らしを創造することを、エミサリーはもっとも大切にしている、とぼくは感じている。



 参道の灯りが真新しい物に変わっていた。今日まで気づかなかっただけだろうか。磨りガラスがはめ込まれている。なんとなく洋風な気がして落ち着かなかったが、気になるのは暗いこの時間帯だけだ。これまでのぼくはいろんなところで思い込み、決めつけ、自分の正義を振りかざしてきた。それも目立たぬように臆病に、そして強情に。北海道やアート・オブ・リビング・セミナーの余韻が残っているせいか、囚われが少なくなっているのがありがたい。どうせまたいつか元に戻っているのだろうが、せめてサンクティフィケーションだけはつづけよう。マーシャもユージンも強く勧めていた。

 しらやまさんに参ったおかげか、八時間を休まずに、ほぼ準備を整えることができた。展示写真は七十二点、すべてに「撮るということ」についての思いを書き込もうと、静寂のままにメモを取った。一枚一枚を時間をかけて見つめているうちに、何度か居眠りをしてしまった。目が覚めると、言葉が浮かんできた。面白かった。けれどもどうやら、撮るということへの確かな答えは見つからなかった。ぼくにはまだこの先も、つづきがあるのだろうか。静寂を友にして。




桝野正博「撮るということ」






| 18:06 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
感謝のコツ
 感謝することの大切さをよく耳にするけれど、人間は、否、ぼくは、なぜ感謝を忘れてしまうんだろう。そして、さらに突き詰めれば、なぜ感謝が必要なんだろう。荒れ狂う感情を抑えるためだろうか。感謝でもしなければ、この世はますます憎悪に満ちて、荒み切ってしまうからだろうか。だがそれでは、感謝とは対策を講ずるための一手段に過ぎないではないか。

 感謝は、しようと努力するものではなく、自然にわき上がってくるものだと、ぼくは思っている。だからだろう、いつも感謝が足りない。

 アート・オブ・リビング・セミナーの中でも、ユージンとマーシャが何度も感謝の大切さを説いた。感謝が多い人ほど幸せになる、というわけだ。その通りだろう。反論の余地はない。だがしかし、感謝が何よりも先に来る人を尊敬しながら、ぼく自身にはそれは至難の技に思えてしまう。まったくもって情けない人間にはちがいないけれど、わき上がってくることが滅多にないのだから仕方がない。



 そんなぼくにも、ユージンが教えてくれた感謝するコツは、なるほど、と思わず頷いてしまう優れものだった。「なんでもいいから持っているものを手にしてください」との呼びかけに、ぼくはメモに使っているペンを持った。安価で書き味抜群のお気に入りだ。「それでは、それがなくなったと想像してください」。簡単にイメージできた。思いついたことを書き留めようにも、もうこの手にはペンがないのだ。そう思った瞬間、手にしているペンからじわりと熱いものが流れ出した。思わずペンに向かって、「ありがとう」とつぶやいた。熱いものが体に広がって行くのがわかった。

 3年前のあの夜を思い出す。ユコタンが死んだ夜だ。ひかりっ子くらぶのこの相棒と、ぼくはよくケンカをした。そんなときはいつも、めんどうくさい、別れてしまえと思ったものだ。それなのに、もうこの世に相棒はいないのだと思った瞬間、体からありとあらゆる力が抜けていった。心も体もからっぽになって、病院への道をただふらふらと歩いた。それからの日々で、ユコタンがどんなに大切な友だったのかと思い知った。失うまでわからない、ぼくは大うつけ者だった。

 同じ過ちはおかさない、それが亡き友へのせめてもの恩返しだと思ったはずのぼくは、すっかりその誓いを忘れている。ペン一本の話ではない。今ふれあっているすべての人のことだ。どのふれあいも、いつか、もしかすると今すぐにでも終わってしまうものだ。それを知っていて、感謝できない、ということがあるだろうか。

 ああ、でも、なぜ感謝が必要なんだろう。なぜ幸せにならなければならないんだろう。草花のように、田んぼで孵るカエルのように、当たり前のようにして、なぜ人は生きていられないんだろう。感謝が足りない人間には、どうやら人生の深淵は見えないようだ。




| 22:15 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
天使の学校
 誰が言ったものか、外国での参加者のひとりがアート・オブ・リビング・セミナーのことを天使の学校だと喩えたそうだ。天使にも学校があるのかぼくには想像もつかないけれど、そうなら、参加者は年齢や職業などにかかわらず、全員が同級生ということになる。一応はサポートスタッフとして準備段階から参加したぼくにとって、これはなんともうれしい話だ。今回は予想をはるかに越えて三十人もの方が参加してくれた。その全員が大好きだ。だれもがみんな同級生だ。

 もしも地上のぼくたち人間が本来は天使なのだとしたら、今の、この見える姿とはなんだろうか。人間とは、いったいどんな存在なんだろう。講師のマーシャとユージンは、この体や心やマインドのことを「地球服」と呼んだ。誰もが世界でたった一着しかない地球服をまとっているのだ。愚鈍なぼくも世界に名だたる天才も、それは単なるひとつのタイプにすぎない、ということになる。

 心は愛を、マインドは真実を、そして体は生命力を表現するものだと、ユージンが言った。それが人間のデザインだとも。ぼくは、そのデザインを活かして生きてきただろうか。エミサリーに出会って、もう十五年が過ぎている。愛からも真実からも、なぜか意識的に遠ざかっていたいぼくだった。言葉でストレートに表すことにある種の抵抗があった。今でもそれは変わらないかもしれない。それでも今回ばかりは、いくらのぼくも素直になって、静かにいくらか変化を感じている。

 四日間のセミナーの最後に、マーシャとユージンは会場の中央で抱き合い、互いの存在を称え合っていた。その姿を見て、ぼくはこのセミナーの成果がどんなに大きなものであったのかを想像した。どうやら関わった誰もが開催の継続を希望していたようだ。次回までの数年間に、ひとりひとりの暮らしの舞台でその成果が磨かれるのだ。楽しみだ。



 十五年前、「森の中で太極拳」などという謳い文句で『自然生活』(野草社)にセミナー開催の告知記事が載っていた。気功を始めたばかりのぼくは、気持ちの良い合宿に参加するぐらいのつもりで申し込んだ。どうせならソロツーリングだと250ccのバイクを飛ばしたが、会場の奈良の大倭紫陽花邑は金沢からではとても遠かった。肩で風きり(と見られていたようで)、しかし実際にはドタバタと乗り込んだものの、雰囲気は想像もしないものだった。白装束の笛吹きがいて、なにやらおかしな坊主がいて、妙に落ち着いた陶芸家や主張する歌手や、おまけにおせっかいなまでの姉さん気取りの女性がいたりと、やがて四十歳にもなろうとしていたぼくだが、それまで出会ったことのない風体の人ばかりに見えた。それがどうだ、今では無二の親友だとさえ感じている。

 不思議なものだ。天地のエネルギーだ、いのちはひとつらなりだ、などと聞いたこともない言葉が飛び交い、チンプンカンプンの三日間だった。あのときすぐにでも帰りたいと思ったのに、残る決断をして、それが今につながっている。日本にエミサリーを紹介した五百木邑子さんは当時癌に侵されていたが、物ともせずにセミナーの開催に向けて立ち上がり、そして天国へと還られた。最後に涙を流して洋美さんと抱き合っていた姿が鮮やかに蘇ってくる。その洋美さんのご子息が今回の参加メンバーのひとりだった。マーシャとユージンが体を合わせた間にも、そうした先人たちの思いが幾重にも重なって込められていたにちがいない。

 ドラマ地味たおかしな集団に紛れ込んだものだと、いつも気恥ずかしさが先に立つぼくだったが、今ではそれもなつかしい思い出だ。そして、ほんとうに、うれしい。日本のエミサリーが、いま息を吹き返したのだ。











| 22:28 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
The magical design of Life (4)
 マーシャからのコメントの最後は「The magical design of Life」という言葉だった。それをそのまま日記の表題にしたのは、セミナーに入る前にその意味を自分なりにイメージしてみたいと思ったからだ。通訳の一部を担当してくれるマユミさんは「生命の神秘」という日本語を当てている。マジックと言えばすぐに手品や魔法を思い浮かべてしまうが、不思議な、魅力的な、という意味もある。magical design のmagical は、むしろこちらの方だろう。そして、デザインだ。すっかり日本語になっているから深く考えたこともなかったけれど、設計、計画、夢、希望、道、進路、などといろんな要素が含まれているような気がする。

 The Art of Living Seminar の art の意味もなかなかに興味深い。それを単純に芸術としてのアートにしてしまうと、まったく見当違いなことになってしまう。もっとも暮らしや人生をアートとして遊んでしまえるなら、それもいいかも知れないが。これまで通訳を担当したコアメンバーのユキヲに art の意味を聞いたことがある。なんでも「古い英語には神の計画という意味があるようだ」とのことだった。人生や生命、はては暮らしの隅々までが、神の計画として描かれているのだとしたら、これはちょっと隅に置けない話かもしれない。

 この話にはつづきがあって、art が神の計画なら、その計画を人間が実行することを science というのだと、ユキヲは言った。ぼくはなんだかすごくわかったような気がしたものだが、残念ながら人の意識など油断しているといつの間にかあらぬ方向を向いてしまうようで、何年ぶりかで今、この話を思い出している始末だ。



 「生命の神秘」。その言葉の表面だけをなぞっていても大したことにはならないが、もしもそれを感じることができたなら、ぼくのこれからはかなり楽しみなものになる。ランディさんがぼくの写真に「世界にイエスと言っている」という身に余る賛辞を贈ってくれた。ほんとうにそんな写真を撮れる人になりたいと思うけれど、今のままじゃとても無理だと観念するしかない。だが、この「生命の神秘」というものがほんとうに自分のものになったなら、とそれを想像するだけで体の細胞が急激に分裂し出すような興奮を覚える。

 この十年ほどの間、よく耳にする言葉がある。内なる神、ハイヤーセルフ、光、サムシンググレート、本当の自分、魂、などなど。見える身体のことについ目を奪われてしまうぼくだが、人間は本当は見えない存在なんだと、どの言葉も言っている。ぼくにもそれは十分にわかっているつもりだが、でもなぜかそれをそのまま受け入れる気になれない。言葉を唱え思い込みで生きるのではなく、自分の感覚としてそれを身につけなければ、結局は他人の人生や言葉をなぞっているだけなのでは、という気がしてしまう。

 マーシャは言った。「是非一緒に生命の神秘を探索する旅に出かけましょう」と。そして「それが、本当の自分に目覚めるということです」とも。だれかの言葉を借りたり、高次のエネルギーを浴びたりするのもひとつの道だろうが、ぼくにはそれでは物足りない。自分の感覚で探し求める態度こそが、ぼくの道だ。否、求めても辿り着かないかも知れない。むしろ探索する旅がそのまま、目覚めている状態のひとつなのだと、ぼくは思ったりする。きっと、そうだ。そのことを、The magical design of Life と言うのだ。

 いずれにしろ、十五年前にマーシャに出会った瞬間から、ぼくはこの世に本当の意味で生まれ、本当の自分に目覚める旅を始めている。それがぼくひとりの単独行で終わってもすでに十分に豊かな実りを感じているけれど、互いに刺激し合う仲間がふえるのはなんとも言えずありがたい。art と science の旅がますます面白くなりそうだ。


アート・オブ・リビング・セミナー






| 20:32 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
The magical design of Life (3)
 どうしてこんなにも熱心にこのセミナーに関わっているんだろうと、自分の心を感じてみた。大きな理由のひとつは、他ではけして出会えなかった深い友がいるからだ。日常的なふれあいがあるわけでなく、メールのやりとりさえしていないけれど、もしも人生の岐路に立ったなら、またはこれ以上ないピンチに陥って助けが欲しいと思ったなら、ぼくはこの友を頼るだろう。その名は、ヨシユキ。野倉の自然の中で淡々と暮らしている陶芸家だ。奥さんとふたりで冬には閉じてしまう山の喫茶店も開いている。その友の話をここにも転載させてもらった。

 野倉の風景(撮影・ヨシユキ)



*****

  エミサリーへのお誘い

                茶房パニ 佐々木義之

 僕が初めてエミサリーに出会ったのは,1994年、奈良の大倭紫陽花村と言うちょっと変わったお宮で行われた、日本で初めてのエミサリーのセミナーでした。自分の人生の大きな出会いの一つで、そこでの体験が、今でも自分の生活のベースになっている様です。セミナーは、自分の気持ちに正直になって話をしたり、行動ができる場所として意識的に作られています。そのため、参加者が少しづつ素直に自分を表していける様になり、お互いにその姿に触発され勇気づけられて、全員がスパイラルを描きながらありのままの自分に近づいて行ったような感じがしました。
 
 僕は、川崎で生まれ育ったのですが、当時は公害の町であり、家の近くはネオン輝く夜の町で、家の中では夫婦喧嘩が絶えませんでした。子供の頃からそんな現実に違和感をおぼえ、ちょうど自分の前ですべての人が演技をしているように見え、現実はお芝居であり、何処かにお芝居をやめた舞台裏の様な全く違う現実があるのではないかという妄想を抱いていました。親に対して、また世間に対して”ウソだー”と感じながら、自分も一生懸命自分の役を演じているような感じがしていました。

 それが、エミサリー、正確にはユージンとマーシャに出会いセミナーを受けて行くと、お芝居をやめて話す事のできる人に初めて出会ったような感じがしました。自分を演じないで表せる事に夢中になり、今まで溜め込んできたモノを笑いや涙と共に表に出してゆく快感を体験し、ありのままの自分でいる事で得られるやすらぎを知りました。

 今、世界は大きく変わろうとしています。又変わらなくては、人類の未来はない事もはっきりしてきました。地球の資源を大切に使ったり、自然を保護したりする事はもちろん大切ですが、こうしなければならないと頭で考えて行動をするより、本当の自分に気がついて行くことで自分の命と同じように他の命も尊重し、大切にしていくのが当たり前になっていくと思っています。今まで幸せになる為に外に向かって開かれていた意識の方向を内側に向け本当の自分に気づいていくことが、この時代を乗り越える鍵だと思っています。

 ユウジンとマーシャは、韓国の済州島で韓国の人達と新しいエミサリーの拠点となるコミューン作りに取り組んでいます。すぐ隣の韓国でこのような動きがある事をうれしく思い、今回のセミナーの相談をした所、気持ち良く引き受けてくださいました。エミサリーのセミナーは5年ぶり、ユウジンとマーシャのペアーでは15年ぶりのセミナーになります。是非この機会をお見逃しなく。              

                               

アート・オブ・リビング・セミナー








| 18:54 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
The magical design of Life (2)
 アート・オブ・リビング・セミナーの内容を事前にお知らせすることは、とても難しいかもしれない。15年前に初めて日本で開かれて以来すべての機会にぼくは参加する幸運を得たけれど、毎回ちがった感覚を体験してきた。むしろ体験の中味を伝えようとしても、その内容はとても個人的なものだ。同じセッションを過しても、人それぞれの感覚を得るにちがいない。そしてそれこそが、天与の贈り物とも言えるかもしれない。マーシャはコメントのほかに、韓国でのセミナー参加者の推薦文を送ってくれた。このスン・リーさんの場合がこうだった、というに過ぎないが、どなたかの参考になるといいのだけれど。




*****


Seminar Testimonial from Siun Lee
(Participant in October 2008 seminar by Yujin Pak & Marsha Bogolin)

スン・リーさんからの推薦状
(2008年10月のユージンとマーシャのセミナーに参加)


 I am a professional trainer and lecturer and offer seminars to universities, corporations and public institutions, and have participated in countless other seminars. This seminar was the finest seminar that I’ve ever participated in. I came to wonder if there will ever be another seminar that will surpass this. When I read a previous participant’s testimonial that it was the best seminar ever in their life, I had my doubts and wondered how many seminars they had taken. Yet after doing this seminar, I couldn’t resist giving similar testimony to others about it. Furthermore, I want to say that “I went to heaven and came back.”

 私の仕事は、大学や企業や公益法人などでトレーニングしたり講演したりすることで、これまでにも数え切れないほどのセミナーに参加してきましたが、このセミナーが一番すばらしかったです。これ以上すばらしいセミナーが一体あり得るのか、と思うくらいです。 このセミナーに参加する前に、すでに参加された方々の書かれた推薦文で、「これまでのセミナーの中で一番よかった」とあるのを読んだときには、正直あまり信じていませんでしたし、これを書いた方々がどのくらいの数のセミナーに参加した上でそう言っているのだろう、と思っていました。けれども、自分自身でこのセミナーを体験するに至り、同じようなコメントをせざるを得ません。更に付け加えれば、「私は天国に行って戻って来た」と申し上げたいと思います。


 One reason for this was something that most seminar facilitators do not understand, namely pneumaplasm (the energy of spiritual love and blessing). A beauty of setting and environment that I had not experienced anywhere else… Throughout the seminar we the participants felt a constant “something” enfolding us beyond any material surround. Because the facilitators and staff are individuals living what they teach in their lives, much more was demonstrated and conveyed beyond the content of the seminar. Even during the breaks the participants were deeply sharing about the content and examples of application in real life. Happiness, humor and laughter overflowed. I strongly recommend all of you to participate in this finest of seminars.
Siun Lee (Communication Coaching Center, President; NLP and Enneagram Trainer)

 このセミナーがすばらしい理由のひとつは、スピリチュアルな愛と祝福のエネルギーに満ち溢れていることです。多くのセミナーのファシリテーターたちは、このことを理解していないようです。会場のセッティングや環境にも微に入り細にわたり気配りがいき渡っていて、こうしたことはこれまでのどのセミナーでも経験したことがありませんでした。セミナー期間中ずっと、私たち参加者は物質的レベルを超えた“何か”に終始優しく包まれていた気がします。ファシリテーターもスタッフも、自分たちが教えていることをそのまま自分たちの人生において実行している人たちなので、セミナーの講義で語られた内容以上のものを得る機会に恵まれたと感じます。休憩時間中にも、参加者たちは三々五々集まって講義の内容について話し合ったり、自分の日常にどう生かしていくか議論したりしていました。幸福とユーモアと笑いが満ち溢れ、私を圧倒しました。私は、すべての人にこのすばらしいセミナーに参加することをお勧めします。

スン・リー(コミュニケーション・コーチング・センター代表、NLPトレーナー、エニアグラム講師)




アート・オブ・リビング・セミナー







| 18:29 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
The magical design of Life (1)
 出会いこそ人生の宝物だと思っているが、ぼくの出会いの中でこれほどまでに大きな贈り物になったものはこれから先にももうないかもしれない。その人の名は、マーシャ・ボゴリン。アメリカはコロラド州に本部を置くコミュニティ、エミサリーのメンバーのひとりだ。マーシャはいま、パートナーのユージンとともに済州島に移り住んで、韓国の仲間たちとスピリットの新しい流れを展開している。

 マーシャとユージンを招いて来る6月4日からの3日間にアート・オブ・リビング・セミナーが開かれ、ぼくはそのサポートスタッフとして関わることになった。わずか20人程度を定員とする小さな会がいきなり日本に革新的なムーブメントを起こすわけではないけれど、参加者ひとりひとりには、一大センセーションを巻き起こす可能性が十分に秘められているだろう。その素晴らしさを言葉で伝えることなどぼくには到底かなわないと思い、マーシャに興味のある人に向けてのコメントを求めた。それが、数日前に届いたこれだ。ぼくは心から願っている。このコメントを読まれた方の中からひとりでも多くの参加者が生まれ、そしてそれぞれに崇高な出会いがありますように。

*****

Our Message to Seminar Participants in Japan
日本でのセミナーに参加される方々へ

 One of our greatest joys is drawing forth the unique gift each one came on earth to bring. It is the awakening of your true potential, like a precious gem you may sense within you, but often keep hidden or forget. We love to bring to remembrance the power and nobility inherent in each one, and to help people break through restrictions that have confined them for years.

 私たちの大きな喜びのひとつは、それぞれがこの世界に生まれ出るときに持ってきた、その人にとって唯一無二の贈り物を一緒に探し当てることです。それが、本当の自分に目覚めるということです。それは自分自身の中に、もしかしたらあるのかもしれないと思いながら、忘れられたり隠されたりしていた宝石を見つけ出すようなものです。ひとりひとりに生まれつき備わっているパワーと高貴さを思い出していただき、長い間つながれていた鎖のような様々な制限から解放され飛躍するお手伝いをすることは、私たちにとって無上の喜びです。

 As more people awaken to this, the innate harmony and creative action of Being spreads, inviting more to join this movement of spirit. My husband and I moved to Korea two years ago because we sensed something is ready to emerge in Asia that is vital to the awakening on this planet. Both of us have felt a special essence of this emergence each time we have visited Japan.

 If you feel called by this invitation, we look forward to meeting you in person and discovering together the magical design of Life.

 より多くの人が目覚めると、生命体が本来持つ調和と創造が拡がり、この魂のムーブメントにより多くの生命体を呼び寄せます。ユージンと私は、この地球という惑星における目覚めのプロセス上何かとても重要なことがアジアで起こりつつあるという予感がして、2年前に韓国に移住してきました。私たちは二人とも、日本に来る度にこの意味において何か特別なものを感じます。

 この文章を読んで呼ばれているような感じがするという方、セミナーでお会いできることを楽しみにしております。 是非一緒に生命の神秘を探索する旅に出かけましょう。


 マーシャが送ってくれたユージンとのツーショット。マーシャを撮ったときこんな言葉が返ってきたことがある。「マサヒロ、レンズを通してあなたに愛を送っていたのよ」。この時もきっとそうしていたにちがいない。だからいつも、こんなに素敵に絵になる人だ。




ユージン・パク
韓国生まれ。幼少時にブラジル、次いでカナダに移住。韓国生まれで初めてイギリスのオックスフォード大学からローズ・スカラーを授かる。20代で青少年野外活動推進計画にてアウトドアのシニア・ガイドとなる。自己鍛錬と人生の目的、真実への飽くなき探究心がエミサリーへと導く。 1986年よりエミサリーのコア・スタッフとなる。10年間エミサリー・インターナショナルの理事を務める。また、同時期スピリチュアル面の教育とリーダーシップ部門を率い、変容をもたらす数多くのプログラムを企画・構成・開催する。20年以上の経験を持つ類まれなるスピリチュアルなリーダーであり、国際的なスピリチュアルな教師である。最近新しいリーダー育成教育プロジェクトを立ち上げるため韓国に帰国する。

マーシャ・ボゴリン
1973年よりスピリチュアルな意識の向上を目指して鍛錬し、エミサリーのコミュニティーで暮らす。夫君であるユージンと共にエミサリーの世界に広がるネットワークを通じて、多年に渡りリーダーシップの育成に携わる --- 変容を促し、日常をスピリチュアルに過ごす訓練やスピリチュアルなリーダーシップを育成するワークショップの企画・開催など。 マーシャのセミナーの開催地は以下の通り---アメリカ合衆国、カナダ、南アフリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、日本、そして韓国。 マーシャの大きな喜びのひとつは、参加者一人ひとりの生命体としての真実の美を引き出し、その人の人生の目的を達成する手助けをすることである。1992年からアジアで頻繁にセミナーを開催するようになり、夫君のユージンと韓国に移住したことで、アジアでの活動が新しい局面に入り、更なる進歩を遂げるものと思われる。



アート・オブ・リビング・セミナー



| 17:57 | アート・オブ・リビング・セミナー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
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