kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記

| CALENDAR | RECOMMEND | ENTRY | COMMENT | TRACKBACK | CATEGORY | ARCHIVE | LINK | PROFILE | OTHERS |
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| | - | - | - | posted by スポンサードリンク |
「美徳の視点」閉講
 ヴァーチューズ・プロジェクトの連続講座「美徳の視点」が無事終了した。春に三十人もの人が参加してスタートし、最後となった六回目の今日は半数に減っていた。でもぼくには減ったという気がしない。美徳という言葉さえ消えてしまいそうな現代社会で、小難しそうな名前をつけた講座に十五人もの人が参加してくれたのだ。石川県ではほとんどぼくひとりだったことを思えば、この半年でなんと十五倍にもふくれあがったことになる。そのすべてが女性だということも特筆すべきだ。政界も経済界もほとんどどこの世界も男が主流を成しているのだろうが、ぼくはときどき思うのだ。この世は女性で支えられていると。

 持て余すほどの暇を持っているぼくに偉そうなことは言えないけれど、世の男性諸氏は忙しすぎるのだろうか、こういう場で出会う人はほんとうに少ない。男は人生でどんな時間を過ごしているんだろうか。もちろん仕事、趣味を越えた芸など打ち込む世界はそれぞれにあるだろうが、よりよく生きようとする女性のような、細やかな心配りをその人生に向けていないとしたら、それは一大事かもしれない。



 「美徳の視点」の参加者はひとりひとりがほんとうに真剣に自分自身に向き合った。会場の隅にポツンと座ってその様子をながめているだけのぼくだったが、みんな凄いと、いつもため息まじりだった。世の中を変えようなどと考える必要はない。そんなことはほとんど不可能に近いだろう。変えることができるのは、自分自身だ。もっと正確に言えば、自分の視点だ。自分が変われば、ほんの数メートルの周りが変わるかもしれない。それで十分じゃないか。ひとりひとりに、ほかの何ができると言うのだ。

 さてと、なんだかひと仕事を終えた気分だ。石川や富山にも、盛んな福井から美徳の視点が広がった。そろそろぼくも変わろうかと思う。美徳ではないけれど、写真を通してぼく自身の視点を持ってみたいと思う。大いなる写真愛好家として、世の男子の仲間入りをするのだ。ほかのことはなにもしないで、ただひたすらに写真の世界に打ち込んでみたい。講座のみなさんに倣って、真摯に自分と世界を見つめながら。






| 21:05 | ヴァーチュー | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ふれあいのとき
 人と人は顔を合わせて向き合って、そればかりか見えないスピリット同士でふれあって、そうしてそこでそれぞれが、必要なものに出会うのだろうか。ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン(VPJ)福井支部「雪の花」が開いた「内なる美徳を呼び起こす教育ための12時間ワークショップ」は、そんなひとときだった。丸二日間たっぷりと会場にいながらたまに居眠りしてしまう不届き者のぼくだったが、参加者ばかりか雪の花のファイシリテーターの仲間たちも、ひとりひとりがそれぞれのペースで深まっていくのが肌で感じられる、実に愉快な会だった。

 それにしても、このワークショップの名称のなんとだらだらと長いことだろう。これを聞いてすぐに参加してみたいと思う人の方が、むしろ珍しいかもしれない。ただどんなことも必要な人には必要なもので、最後に出会った参加のみなさんの涙や笑顔が会の有意義さを表していた。

 参加者には退院したばかりでネットサーフィン中にVPJのホームページに出会い参加を決めた女性がいたり、この春定年退職されたばかりの元校長先生のふーさんがいたり、いつもほんとうにバラエティに富んでいる。呼びかけても届かないもどかしさもある中で、顔ぶれを見ているといつも出会いの妙を感じてしまう。



 いつものように「スピリットを尊重する」というテーマを担当したぼくは、初日に撮ったひとりひとりの表情を今年の白山の写真の間にちりばめて、その時間に上映した。人と自然、などという言い方をして、両者を区別したり意識的に同一化したりするけれど、ほんとうははじめからいっしょなんだとふと思い、それで交互に映し出す構成にした。スクリーンにした壁に向き合い見る人の視点になってみると、どの表情も輝いて、まことにこれも自然が持つ本来の美しさだと思った。作者のぼく自身が感動してどうするんだと肚に力を入れ直したが、うす暗いのをいいことにあふれる涙をそのままにした。

 ふーさんは今、長い教員生活を振り返っている最中だと言われた。スピリットウォークと呼ぶひとりの静かな散歩では北潟湖畔の芝生に横になり大空を見上げていたそうだ。そのとき浮かんできた思いを詩に託され、最後のあいさつで披露してくれた。「素直、素直になっていく」という自分の変化に驚いている様子で、まるで青年のようだとぼくは思った。「ますのさんのあの映像の表情がほんとうによかった。人はあんなにも美しいんですね」と、うれしい感想までいただいた。

 ふーさんはここまでどんな心持ちで歩いてこられたんだろうか。「美徳の言葉を使って考えると、本質の世界に近づいて行くようだ」とも言われた。この会に関わるようになってぼくはもう三年ほどにもなるけれど、美徳を柱に据えて暮らしているとは冗談にも言えない。それでもふーさんのような方に出会うと、関わっていて良かったと心から思える。

*****

 余話。ワークショップから戻って、投稿したJANJANニュースの記事を読んだ。感想を書くだけで気になる新刊が無料で読めるのがうれしくてこれで四回ほど投稿したが、はじめてコメントが寄せられていた。残念ながらそれは批判的なもので、しかも要点がつかめない代物だった。いっぺんに不愉快な気分になったが、その原因はコメントの中味ではなく、見ず知らずの人になんのあいさつもなく土足で踏みにじられたような状況が嫌だった。顔も素性も知らない者同士が定型のフォントが並んでいるネット上の話だけを材料にやりとりしている、この無味乾燥な、まるで砂漠の砂を噛むような世界を、いったい全体どう考えたらいいんだろう。人は、顔と顔をつき合わせ、生きている姿を見せ合ってこそほんとうにふれあえるのだ。もしも距離があってそれが叶わないのなら、見えないスピリットがあるじゃないか。寄り添うのだ。ていねいに、心細やかに。kazesan、お前に言っている。

 




| 13:13 | ヴァーチュー | comments(8) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
内なる美徳を呼び起こす


 今年で三回目となる「内なる美徳を呼び起こす教育のための12時間ワークショップ」が開かれる。ぼくもスタッフのひとりとして参加する予定で、衆院選挙をはさんで批判的な言葉を口にしたばかりだから、もう一度しっかりと学習し直すよい機会にしてしまおうと思っている。

 内なる美徳を呼び起こす、と言うのだから、美徳は誰もが内に秘めている。その秘めている美徳を日頃から発揮している人ももちろん大勢いるわけで、わざわざこんな当たり前なことを学ぶ講座に参加することはないと思われる方もいるかもしれない。ごもっともな話だ。けれども、なぜこの世の中から悲惨な事件は絶えないんだろう。ぼくのようについ批判的な目を向けてしまう人もかなりな数でいるにちがいない。インターネット上に乱れ飛んでいる種々雑多な誹謗中傷など読まなければ済むことだが、そこからわき起こる負のエネルギーが増殖し、他を傷つける要因にならないともかぎらない。見渡せば、肯定的で前向きで、気持ちが高揚する気高い現象や情報も沢山あるに決まっているが、人はつい否定的なものに目が行ってしまいがちだ。そこら辺りをこのワークショップでもう一度点検し、修正すべきは即修正する、というのはいかがだろうか。

 内なる美徳を呼び起こすとは、要は自分の中味を調える、ということでもあるだろうか。今少しそうなっていないなあと思われる方は、ぜひご参加を。このワークショップは東京、福岡、沖縄などでも開かれていて、今回の福井が今年最後の機会になる。

特定非営利活動法人ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン



ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン福井支部・雪の花主催 
内なる美徳を呼び起こす教育のための12時間ワークショップ

 愛、喜び、勇気、忍耐、感謝、安らぎ、優しさ、正直さなど、こうした本来人が備えている美徳は、子どもを育てるための精神的な支えとして古くから大切にされてきたものでした。今や自殺、虐待、凶悪な犯罪など、自他に対する破壊的行為が起き続ける世の中で、本当の教育とはどうあるべきなのでしょうか。
 ヴァーチューズ・プロジェクトは、一人ひとりの心の力をバランスよく育て、人格の向上を目指しています。互いに生きる喜びを感じ合えたら、どんなに豊かな社会が戻ってくることでしょうか。そのためには比較や競争の考え方から、それぞれの存在を尊重し、価値を見出し、認め合う考え方に変えていく必要性を感じています。家庭で、学校で、職場で、あなたの周りから美徳の視点でふれあう生き方を取り入れてみませんか? 2日間のワークショップでは、ヴァーチューズ・プロジェクトが提唱する全体像をつかみ、体験学習を楽しみながら具体的な美徳生活の実践方法を学んでいきます。

ワークショップで深める5つの戦略
1 美徳の言葉を話す
2 教えに最適な瞬間に気づく
3 明確な境界線を設定する
4 スピリットを尊重する
5 同伴の技術を提供する

2009年9月26日(土)〜27日(日)
会 場   北潟湖畔荘
定 員   25人  
参加費   22,200円


【申し込み方法】参加申込書にご記入の上、下記までFAXまたはメールでお送り下さい。
ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン雪の花事務局(清水)
TEL&FAX:0776-22-7095/携帯:090-2030-0845/メールはこちらまで




| 22:45 | ヴァーチュー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
スピリットを尊重する
 ヴァーチューズ・プロジェクト「雪の花」主催の連続講座「美徳の視点」の参加者のみなさんと、週末の二日間に「スピリットを尊重する」ひとときを過ごした。日本語にもなってしまったような「スピリチュアル」という響きには親しんでいても、ではスピリットとはなんだと問われて自信を持って答えられる人となると、どうやらとても少ないようだ。先のエミサリーのアート・オブ・リビング・セミナーでも、「スピリットの流れ」というものがあって、その流れに添って生きればいいのだと学んだけれど、おそらくぼく自身も本当にはなにひとつわかっていない。わかっていないぼくが、どうやってスピリットを尊重することができるだろうか。

 スピリットと聞いて連想する言葉を、会のはじめに問いかけた。参加者から出たものは、普遍的な生命、目に見えない心、自分の中の深い部分、一番大切にするもの、命の根源、琴線にふれるもの、本来の姿、魂の柱などだった。ほんとうにスピリットというものがあるのなら、どれもきっとスピリットの側面を表しているにちがいない。ただ誰もがそれを確かなものとして実感していないだけのだ、と思った。

 ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン代表の大内博さんが翻訳した『家族をつなぐ52のキーワード』(太陽出版)の中の、「和」の美徳についての解説はこんな一文ではじまる。

 「和はとても強力な美徳で、大きな力を持っています。和とは宇宙をひとつのものとする見方です。和の美徳を実践するとき、私たちはすべての人とつながり、すべてのものとつながっていると感じることを自分に許します」。



 もっともなことが書かれていて、それくらいのことなら知識のようにしてぼくも知っていた。けれど、すべての人、すべてのものとつながっているということをぼくは時には感じながら、それを感じることを自分自身に許していただろうか。どちらかと言えば、すべてはつながっているだろうと思いながら、そのつながりを大して意識することもなく、つまりは、そんな美しい言葉ばかりを頼りにできるものかと、感じることを自分に許してはいなかった、ような気がする。

 悟った人ならスピリットの正体に出会い、それと共に生きているのだろうが、ぼくのような凡人にそれはかなわない。だがその正体を知らないからと言って、それを生きられないということではないかもしれない。たとえば、スピリットを感じることを自分に許す、というのはどうだろうか。スピリットを感じているのかもしれないという程度のことでいいのだ。疑うことなく、感じている自分をゆるし、信頼するのだ。それならぼくにもできそうな気がする。

 スピリットウォークと呼ぶ、自然と対話するひとときを持った。スタッフも思い思いに金津の木立の中を歩いた。ぼくの目にふと止まったのは、百足だった。何十本もの足をよくもまあ絡ませもせずに動かして歩けるものだ。ジッと見ていると、さらに細かく振動させている触角に気づいた。「おまえ、もしかしたら目がないのか」と思わず声をかけてしまった。触角で確かめながら進路を決めているように見えたからだ。まるでアンテナだな、と思った。

 百足の触角にアンテナの機能があるものか、ぼくは知らないけれど、人間にもアンテナが必要だと感じた。スピリットが絶えることなく流れていたとしても、それを感じるアンテナを立てなければ感知することは難しいかもしれない。否、かも知れないどころではない。きっとそうにちがいないのだ。そういうスピリットからのメセージを、ぼくは百足を通して受け取ったのだ、と思うことを自分に許すことにした。

 


| 14:56 | ヴァーチュー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
資源
 「ビデオ撮り、音声がうまくいかなかったんだね。がっかりしてくれて、ありがとう」。ヴァーチューズ仲間のるみ子さんから、そんな返事が返ってきた。えっ?と、久しぶりにぼくの心が動いた。事の顛末はこうだ。

 ヴァーチューズ・プロジェクト雪の花主催の講座「美徳の視点」の記録係に徹しようと思い、ずっと使っていなかったビデオを持ち出し2時間ほどを収録した。なるべく音もきれいに録ろうと指向性のある外部マイクまで取り付けたのが、どうやら失敗の誘因だった。一部をのぞいてほとんど全編に渡って肝腎の音声が入っていなかった。なにがあっても、もう大して気持ちが動かないぼくだったが、さすがにがっくり。出席できなかった人への教材にしてもらおうという計画が初っぱなから挫折してしまったわけだ。そのことへの、るみ子さんからの返事だった。

 返事は続いて、「その落胆ぶりからもますやんがこの講座にかけてくれた情熱を感じます。『失敗はない、それを次に生かせばリソース(資源)になる』ということで、またよろしくお願いしますね」だった。

 別に失敗の尾を引いていたわけでもないけれど、これを読んで、なんだかすっかり気分が良くなった。ヴァーチューズの仲間は、ほんとうにすごい。いつも最高の言葉を返してくれる。



 この「失敗はない、それを次に生かせばリソース(資源)になる」というのは、るみ子さんがほかにも講師をしているNLPというカウンセリングでの話だそうだ。「失敗は成功の元」とはよく言われていることだが、るみ子さんはその失敗というものはないのだと言ってくれたのだ。

 成功のために失敗がある、というのでは、成功はやはり素晴らしいもので最終目標で、常に求めるもので、などとなってしまう。なんでもうまく行けばうれしいに違いないが、ほんとうに成功することが目標でいいんだろうか。失敗は成功の元ではなく、生きて行く上での資源だと捉えたら、すこし意味合いがちがってくるような気がする。

 成功するとは、どういうことだ。ひとつ成功すれば、次の目標が生まれ、またその達成を目指して、成功への道を歩むのだろう。それを成長と言うのだと諭されそうだが、もしも成長ということが人生に必要不可欠な要素なら、失敗と言われていることをしでかした時点で十分に成長できるではないか。否、失敗ではなく、それを自分への資源として、肥やしとして、栄養として体験したのだと思った時点で、十分に器が大きくなった気分になれる。

 ぼくはもうこの年になってまで成長したいとは思わない。ましてや、今さらなんの成功が必要だろう。喜びや哀しみや、出来不出来などいろんな資源であふれた人生を、なんとなくでもいいから、自分なりに味わっていたい。そのささやかな望みがあって、なんとなくでも生きていられる。大体が、失敗ではない資源のほかにも、人生はいつも豊かな天然資源であふれているのだ。成功しようがしまいが、親がいて子がいて友がいて、空気があり水があり少しの食料がある。

 さてと、次回はビデオはどうしよう。音声の重要さがよくわかった。


| 10:46 | ヴァーチュー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
人と行為
 美徳の実践セミナーがにぎやかに始まった。全六回シリーズの第一回はこの12日にすでに終わり、今ごろ参加のみなさんはそれぞれの日常の中で、「美徳の視点」という新しいふれあいを試しているかもしれない。これからほぼ月に一度のペースで再会し、成果や失敗談を持ち寄っての勉強会が楽しみだ。

 「美徳の視点」は思いついてぼくが名づけた講座名だが、その視点とはいったいどこへ向けると効果的だろうか。

 ちょうどタイミングよく流れていたニュースで、鳩山総務相は草彅剛容疑者が逮捕されたことを受けて「最低の人間だ」と発言したことについて、「人間は人間を評価できない。私も反省して、『最低最悪の行為』と言い換えさせて頂きたい」と述べ、発言を撤回していた。撤回したからと言って、前言が記憶から消えてしまうわけではないけれど、それは今は見ないでおくとして、まさしく美徳の視点でも、この行為こそを対象にしている。見つめるべきは人ではなく行為なのだと、講座で講師のるみ子さんはきっぱりと指摘した。



 よく親は子どもに言うだろう。「いい子ねえ」。だがそれで、子どもはどんな気持ちになるだろうか。当座はまんざらでもないだろうが、言われつづけたり、それを求める雰囲気が日常になったときがこわい。いい子かどうかは、ときどきでちがうのだ。いつも変わらずにいい子でいなければならなくなったら、その評価はその子にとってどんなに大きな負担になるだろう。

 人はいつも一定じゃない。いいときもあれば悪いときもある。それでいいなじゃないか、というのが、ほとんどいつも不安定なぼくの思いだが、でも、数少ないいい状態のときに「いい感じね」とひと言プレゼントしてもらえると、それはすごくうれしいかもしれない。人そのものを褒めるのではなくその人の行為の瞬間に視点を向け、その行為を認める。ヴァーチューズ・プロジェクトではそれを「承認する」という言葉で表しているが、褒めることと、受け入れ認め承認することの間には、ずいぶんと大きな開きがある。認めることは、そこからさらに役立つ勇気をプレゼントすることでもあるだろう。

 それにしても、有名人は辛いなあ。若いころ酒に飲まれたことが何度もあるぼくは、その行為にさえ共感してしまう。人間ってみんなおんなじだなあって、おっと、これでは美徳の視点にならないか。

*****

 「美徳の視点」は第二回以降の途中からの参加も受け付けています。全回通しの参加者が二十人を越える好評をいただいていますが、定員までまだすこしゆとりがあります。参加をお考えの方は、お気軽にどうぞ。とっても楽しいひとときになっています。

美徳の実践セミナー in 石川「美徳の視点」第二回 5月17日





| 16:08 | ヴァーチュー | comments(0) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
『ゆるすということ』
 ヴァーチューズ仲間のまさみさんはルドルフ文庫というのを開いて、子どもたちに良書を開放している。本屋に限らず書棚に沢山の本が並んでいると、ついのぞき込んでしまう。ジェラルド・G・ジャンポルスキー『ゆるすということ』(サンマーク出版)が目に飛び込んできた。なんとヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン(VPJ)代表の大内博さんの翻訳だった。これは借りて読まなければ。にっこり微笑んで快諾してくれたまさみさんは、これを読んでVPJに加わろうと決めたそうだ。

 内容は、「奇跡のコース」を実践している著者が書いているだけあって、『神の使者』に似ている。その長編の一冊をなんとかながら読み終えたぼくだから、コンパクトなこの本はとてもスムーズに理解はできた、けれども、「ゆるすということ」を実践しているかと問われて、大きくうなずくのはなかなかに難しい。

 ゆるしについて、とても明快な一文があった。

 ゆるしは妊娠と似ています。妊娠は、「妊娠しているか、妊娠していないか」のどちらかです。「ある程度妊娠している」ことはありえません。これと同じで、「ある程度ゆるす」というわけにはいきません。ゆるしは完全でなければならないのです。

 まったくだ。なにをやっても中途半端なぼくには耳が痛い。妊娠を経験する女性の方がゆるしにもずっと力を発揮するだろうか。こいつはゆるすけれどあいつは絶対にゆるせない、と言っているうちは、ゆるしではないということだが、こんな箇所もある。
 
 おそらく私たちは、肉体を持っているかぎり、「裁きたい」とか「ゆるしたくない」という誘惑にかられつづけることでしょう。ですから、瞬間ごとに新しく選択しなおすことを、永遠に思い出しつづける必要があるのです。

 そして、

 ゆるしとはただ心のやすらぎだけが目標であり、他人を変えたり罰することではないと、理解する。

 さらに、

「ついに本当の敵がわかった。それは、自分自身だ」。

 ときた。

 自分を敵だと思ったことはないけれど、ぼくはいつも自分に手こずっている。というより、意志薄弱な自分を棚上げにして、そのままの自分でいることに甘んじていることが多い。そのうちやがて変わるだろうと、様子を見るのが常だ。それで困るわけじゃないが、なんとなく凌いでいる感じは否めない。ようするに、瞬間ごとの選択を怠っていることは確かだ。



 本を読んで理解することはとても簡単だ。それを肥やしにしたつもりになることも、そんなに難しくない。問題はどうやら、意志があるかどうか、かもしれない。ぼくには実践し選択する意識があるのか、ということだ。いくらもがいても妊娠は経験できない。だったら、するのか、しないのか、という完璧な選択をこのゆるしで味わってみたい気もするけれど、このままの中途半端な自分も案外楽なものだからついついそこに留まっている。

 明日は、VPJ雪の花の集まりがある。夜もにぎやかにるみ子さんのドームハウスで合宿だ。美徳もゆるしも、仲間がいると楽しくやれる。ありがたい話だ。この中途半端なぼくを正直に伝えることができる。

 本の中にこんなエピソードが紹介されていた。美徳の実践セミナー in 石川「美徳の視点」は思いのほかみなさんの関心が高く、ほぼ定員を満たした。近い将来、この地域にもいろんな素敵なエピソードがあふれるといい。
 

*****
 

 『少年を打ったもの』

 メアリーは首都から二時間ほど離れた小学校で先生をしています。彼女は怒ったりケンカしたりせずに友だちとコミュニケーションをとる方法について、生徒に根気よく教えていました。「ゆるすことが大切だ」といつも強調していたために、「ゆるしの先生」とあだ名がついたほどです。
 この学校には、手に負えないほどわんぱくな十歳の少年がいました。誰かれかまわずケンカをふっかけ、彼が行くところ必ず何かが壊されるというありさまでした。しかし、彼は自分の行動に対してまったく悪びれもしないのです。
 ところがある日、ついに担任の先生のお金を盗もうとしたところを見つかります。校長先生はここぞとばかりに全校集会を開きました。この学校の慣例では、このような場合、少年は全校生徒の前で杖で打たれることになっていました。見せしめにしたあと、放校処分になるのです。
 全校の職員と生徒が、杖打がおこなわれる体育館に集まりました。少年が姿を現したとき、メアリーは立ち上がりました。「彼をゆるしましょう」と言おうとしたのです。しかし、そのとたん、周りの生徒たちも飛ぶようにして立ち上がり、「ゆるそう!」と叫んだのです。
「ゆるそう! ゆるそう! ゆるそう!」
 生徒たちは叫びつづけ、その声は体育館全体を揺るがして響き渡りました。
 少年はみんなをじっと見ていましたが、やがてしゃがみ込み、すすり泣きはじめました。体育館の雰囲気は一変したのです。
 結局、少年は杖で打たれずにすみました。もちろん、放校処分にもなりませんでした。その代わり、彼はゆるされ、愛情をいっぱいもらったのです。その日から、彼がケンカをしたり、盗んだり、何かを壊したりして、人に迷惑をかけることは、いっさいなくなりました。
 校長先生が全校集会を開いて少年を杖で打つと決めたとき、「厳しすぎる」と考えた先生たちもたくさんいました。その校長先生もゆるされ、この一連の出来事によって、もっと愛に満ちた雰囲気を育む新しい種が、学校に植えつけられたのでした。



美徳の実践セミナー in 石川「美徳の視点」4月12日開講



| 17:54 | ヴァーチュー | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
『家族をつなぐ52のキーワード』
 親業という言葉を聞いたことがある。誰もが初めて親になるのだから、「業」とは実にうまく言い当てている。その親業をだれが教えてくれるわけでもなく、究極は人生の意味を深く知っているわけでもなく、ほとんどの親が不安を抱いて子育てに勤しむことになる。三人の子らが巣立って行ったぼくの場合はもうなにを言っても遅すぎるけれど、いったいどんな親だったんだろう。なにひとつ自信を持って子らに接した試しがない。迷ってばかりだった。ただいつも真剣だったような気はするけれど、気分任せで、どういう親であるべきかなどと考えたことはほとんどなかったような気がする。いま親として奮闘している友らはどんな心持ちでいるだろうか。他人事ながら、共感したくなる。

 「美徳の視点」という講座を企画した以上はぼく自身がそれを意識できるように務めたいと、ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパンの代表でもある大内博さん(玉川大学教授)翻訳の『家族をつなぐ52のキーワード』(太陽出版)を読んでいるところだ。

 これがなんとも示唆に富んでいて、講座に参加できなくても、親業を楽しみたい方にはぜひ読んでもらいたいと思う超お薦めの一冊だ。もしも子育て真っ最中のころに出会っていたなら、もう少しましな父親でいられたものをと、我が子に申し訳ない気持ちになってしまう。なんとなくでも世間並みに育ってくれたのは、まったくもって母親のヨシエどんの力に負うところが多い。



 親業というからには、そこにはスキルが必要になる。ぼくのように気分で向き合っていたり自分本位の愛情や正義を押し付けていたのでは、子らの息はつまり、おそらく見えない心の距離は遠くなる。そうなった関係が、成立していると言えるだろうか。だがしかし、そんなスキルの下で、ぼく自身も育ってこなかった。仕事一辺倒のおやじとヒステリックなおふくろに挟まれて、とにかく大きくはなった。今さらそれを恨んでいるわけではないけれど、親と同じことをする父親だったような気がする。虐待し命まで奪ってしまう親子のニュースを聞く度に、親業のあり方を知らない親が多すぎる人間社会なんだと思ってしまう。だからこの本を薦めたい。ここには、だれもが持って生まれた美徳を引き出すことで親子が互いに育ち合うスキルがちりばめられている。

 子どもが解決しなければならない問題に直面しているとき、たいていの愛情深い親はどんな態度を取るだろうか。「しばらくの間は子どもの話を聞き、それから、もちろんのことですが、親として自分の体験に基づいた叡智を子どもに与えます」と本は言っている。それで当座の問題が解決したとしても、だがほんとうはどういうことになっているだろうか。「これは実際、子ども自身が持っている叡智を奪うことになります。同時に、教えに最適な瞬間をつかむ絶好の機会を奪ってしまいます。道徳的なジレンマを子どもが自分で解決する機会を奪ってしまうのです」。

 ぼくは父親としてどうしてきただろう。今親業をしている友らは、どんなふうに向き合っているだろう。

 「美徳の視点」が子育てや親業の唯一確かな方法だとはもちろん思っていないけれど、迷うことが多いなら、ぜひご一読を。そして、ぜひ実践を。頭で考えることと心で感じることをバランスよくひとつにした、すこぶる確かなスキルだと思う。


美徳の実践セミナー in 石川「美徳の視点」4月12日開講

ヴァーチューズ・プロジェクト・ジャパン







| 18:56 | ヴァーチュー | comments(2) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
ゆいちゃんの美徳
 富山と福井の友らが集ったひとときに、「ゆいちゃんの美徳」を出し合った。ゆいちゃんは今大学一年生の年齢になった。ずっと寝たきりだ。おかあさんの真由美さんが片時も離れずに、ゆいちゃんと共に生きてきた。自分では食べることもできなければ、ほとんど動くこともできないのだ。見えない。話せない。音楽に刺激されて一瞬手を動かしたりするから、もしかすると聞こえているのかもしれない。だがゆいちゃんは、人工呼吸器が外れれば、身体の外へ出てゆく存在なのだ。

 そんなゆいちゃんの周りに集まる仲間たちに、ゆいちゃんの美徳を感じてもらった。「それじゃ、ますやんからどうぞ」とるみ子さんに誘われ、いっしょにいるときのゆいちゃんを想った。すぐに思いついたのは、「創造性」だった。ゆいちゃんの手を握っていただけなのに,自殺まで考えていた青年がまた顔をあげて歩き出したことがある。ゆいちゃんは何ひとつ言葉はかけないけれど、そばにくる人の中にいろんな贈り物を届けているようだ。そのことを指して、ぼくはゆいちゃんの創造だと感じた。

 ほかには、もちろん、ゆいちゃんに「愛」の美徳をプレゼントした人がいた。ゆいちゃんは愛で出来ている。「やすらぎ」と言った人もいた。「寛大」、「無執着」、「共感」、「信頼」、そして「ゆるし」。寝たきりのゆいちゃんは、こんなにもたくさんの美徳を生きているのだ。そのことにぼくは、改めて驚いた。



 「感謝」というのも出た。その方はゆいちゃんにいくら感謝してもし足りない思いを話してくれた。ゆいちゃんが感謝を生きているのかどうかは、ほかのだれにもわからないけれど、重度の脳障害を抱えながら生かされていることに、感謝しないゆいちゃんのはずがない。けれども、「感謝」の美徳を贈ったその方は、ゆいちゃんではなく、自分の感情のことを話されていたようだ。あの場のだれかがそのことに気づいただろうか。ゆいちゃんの美徳を見つめる、ということは、自分の感情を見つめるのとは少しちがう話になる。案外このちがいは大きな意味を持っていると、ぼくはそのとき思った。

 自分以外の対象の美徳を探し出そうとするとき、自分に気持ちのいいことからなら簡単に見つかるだろう。けれども、哀しい思いをさせられたり、傷つけられたとき、その相手や事柄を美徳で見つめることができるだろうか。自分の感情を見るのではなく、状況そのものを冷静に見つめることは、もしかすると言うほどにたやすいことではなさそうだ。「たったひと言の美徳で表すことなんてできない」という指摘もあった。確かにそうだ。人間をひと言で表すことなどできそうにない。それでもわざわざ美徳の言葉で見つめる意味は大いにあるだろうと、ぼくは思っている。多くの言葉で語る必要はないのだ。ひとつの美徳の中には、すべての美徳が連なってある。それが人間の形なのだ。きっとそうにちがいない。

 どんな人にも、どんな状況にも、見方を変えれば、美徳が見つかる。感情に左右されない美徳の視点が見つめる先には、必ずそれが見つかる。そして見つけることができれば、その瞬間から、自分の中にゆとりという名の新しい環境が育ちはじめるのだ。そのことを、ぼく自身もこの講座で再確認したいと思っている。



美徳の実践セミナー in 石川「美徳の視点」4月12日開講






| 22:16 | ヴァーチュー | comments(4) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
愛語
 映画『禅』の原作者で制作総指揮の大谷哲夫氏(駒澤大学総長)は、「今、なぜ禅? そして道元なのか?」の一文にこんな話を書いている。


 道元の行き着いた世界は言葉では表すことのできない非言語の世界でもありました。日本人がかつて持っていた非言語の世界は、「心の豊かさ」に通じます。そして、「心の豊かさ」は、非言語の世界を透過した「愛語」の世界に帰結するのです。「愛語」とは、道元が『正法眼蔵』の中で記したように、慈愛の心から生まれる、最悪の言語のない、優しく慈しみ深い言葉なのです。我々は、この「愛語」にこそ、現代日本の、いや世界の衰えた力を盛り返す回天の力のあることを学ばなくてはなりません。「愛語」は、真の平和への根源なのです。


 愛語。耳慣れない言葉だ。女性の耳元でささやく愛の言葉とは、大いにちがいそうだ。どちらかと言うと、ヴァーチューズ・プロジェクトが提案している美徳の言葉に似ている。福井「雪の花」の仲間たちの間で、愛語はよく話題になる。道元禅師が開いた永平寺は福井にあり、今その地がヴァーチューズ・プロジェクトの先進地になっているのだ。そこに縁を感じないではいられない。



 その『正法眼蔵』の言葉はこうだ。

 「愛語といふは、衆生をみるに、まづ慈愛の心をおこし、 顧愛の言語をほどこすなり、おほよそ暴悪の言語なきなり。 世俗には安否をとふ礼儀あり、仏道には珍重のことばあり、 不審の孝行あり。慈念衆生猶如赤子(衆生を慈念することなお赤子の如し)の おもひをたくはへて、言語するは愛語なり」。

 「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語 廻天の力あることを 学すべきなり」。

 心して何度も読まないとその真意に近づくことはかなわないかもしれないが、読んでいるだけで言葉の迫力というものを感じてしまう。

 言葉が力を持っていることは、だれもが折々に感じていることだろう。だれかのたったひと言で立ち直ることもあれば、傷ついてどん底へと落ちてしまうこともある。言葉には、いつも思いが伴っている。思いを形にすること、形にした思いを伝えることは、言葉が持っている大きな役割のひとつだ。感情が先走り、どれほどの思いもなく、簡単に口をついて出た言葉が飛び交ってしまうなら、人の世はなんとも殺伐としたものになるだろう。

 道元禅師は「まづ慈愛の心をおこし」と言う。慈愛。意味さえすぐにはつかめない。これでは「まづ」という手始めが一番の難関ではないか。ぼくには愛語を話すことなどかなわないと思ってしまう。仏道のことはわからないが、慈しむとは、たとえば赤子を抱いた母親に自然にわきがってくる愛のことだろう。愛語とは、生きているその人自身を顕わす言葉なのだ。美徳の言葉もまた、言葉を扱う人間にとってそれほどに大きな責任を突きつけてくる。愛語や美徳の言葉を使う使わないは自由だけれど、それが世間に見せている自分自身の生きる姿だと思うと、けして粗末にできるものではなさそうだ。

 言葉。あまりに簡単に使えて、けれども本当に使おうと思えば、とてつもない力量を問われるものだった。人間としての力量だ。だからこそ、愛語には廻天の力があるというのだろう。

美徳の実践セミナー in 石川「美徳の視点」4月12日開講

※愛語について書いているわりと理解しやすい記事がありました。

愛語
愛語(2)







| 10:56 | ヴァーチュー | comments(7) | trackbacks(0) | posted by マスノマサヒロ |
| 1/2 | >>