kazesan3風の吹くままカメラマンの心の旅日記
2012.01.21 Saturday
墓地へ
いつもほとんど気分がいい早朝の散歩なのに、時には低調なこともある。そんな日は何に出合っても文句が出る。写真を撮る気にもなれない。ならばと思いついてコースを変え、今朝は里山を切り開いた広大な墓地へと向った。まだ暗い墓場への竹林がいつになく薄気味悪い。何を恐れているのか、ちょっとした黒い影にも怯える。それでも、こんな時は墓地がいい。死者とか霊魂とかが眠っているものかなんの実感も持てないけれど、生きているばかりが人間ではないことに思いが及ぶと、己のちっぽけな気分などどうでもよくなってしまう。だから、墓地がいい。
ここには高さが五メートルほどもあろうか、赤子を抱いた観音像が立っている。墓参の人でもないのに訪ねれば決まって手を合わせる。縁のない領域に踏み込むあいさつ程度のつもりだが、薄暗がりの中で見上げた姿に、今朝はなぜか畏れを感じた。仏像を崇める気持ちになんてなれないのに、不思議だ。そう言えば、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』の中で、山の粗末な石を無視したヨガナンダがその非を指摘される場面がある。お前はなぜ石に祈りを捧げなかったのか。神はお前が思っているような聖なるものばかりに宿るのではない。たしか、そういう言葉だった。
墓の中に死者の霊魂が住んでいるものか、そんなことだれにもわかりゃしない。けれども少なくとも墓は、大切な人を思う場所としては相応しい。墓を大切にしない者が死者を大切にしているだろうか。仏像もまた然り。そこに感じる畏れこそ、この傲慢な人間にはなくてはならないものだった。
暗い道に感じた恐れは、たぶん、南洋の島のジャングルを彷徨い逃げ回った太平洋戦争の日本の兵隊たちを思ったからだった。図書館で借りた江成常夫の写真集『鬼哭の島』にある帰還兵たちの証言があまりに鮮烈で忘れられない。食料も弾薬も尽き果て、暗い密林を逃げ惑った若者たちは、どんな気持ちだったろう。愛する家族のために皇国のためにと戦争に駆り出され、二百四十万もの将兵が戻れなかった。それも戦いの場でなく、ほとんどが飢餓や病で。江成がまえがきで書いている。「『玉砕』という美名で装われた戦歴の島々は、まぎれもなく成仏もできない死者たちの『鬼哭の島』である」と。この日本の繁栄は戦没者のおかげであるなどと公では言いながら、遺族以外のいったいだれが彼らの霊魂に対して本気で手を合わせてきただろうか。今もまだ百万に余る若者たちの骨が南の島で哭いている。
きょうまで戦争のことなどなんの実感もなく過ごしてきた馬鹿者がここにいる。数々の犬死にも似た死者を思うと、居たたまれなくなる。この国はいったいどこを向いているのか。経済発展至上の果てが今の姿だ。だから暗い道が恐いのかもしれない。
2012.01.16 Monday
身体感覚
このごろ身体感覚というものに注目している。これから老いて行くばかりの体だとしても、感覚まで鈍らせることはない。女心には昔から鈍感な男だったが、体には割と敏感だった。あれは確かまだ小学生のころだった。何かの拍子に人差し指をもう一方の手のひらに向けてなぞると、触れてもいないのにもぞもぞと指の動きに合わせて感じる何ものかに気づいて、以来それとよく遊んだものだ。その何ものかの正体はこれのことだったのかと、気功に出合い理解した。人間の体は、見えない気の集合体だった。
おやじの通院に付き合い出向く病院の待合室には、いつも人があふれている。長く待たされ数分の診察を受け、それが唯一の方策の患者も多いことだろうが、己の体を医者とは言え他人に任せ切りだとしたら、何か大きな間違いがそこにあるような気がしてならない。怪我や病気に縁のない体なんてないだろうが、体のことを健康や不健康、元気のあるなし、若い若くない、美しい醜いなどと、表層の見てくればかり気にしていたのでは、せっかく感じる体を持って生まれて来た甲斐がない。
早朝の散歩を再開したついでに気功も復活した。途切れ途切れで、気功とはもう二十年ほどの付き合いになる。中国数千年の歴史が培ってきた気功には何千という功法があってあれもこれも身につけたくなる時期もあるけれど、昔から続いているのは、結局もっとも簡単なスワイショーと站とう功で、ようするにほとんど立っているだけ。スワイショーは両手をぶらぶら振り、站とう功ときたら立ち続けるのが仕事だ。それでも体とは本当に不思議なもの。簡単な動作を繰り返していると、脳がどんどん休まっていく。站とう功は座禅ならぬ立禅でもある。
再開してまだひと月ほどなのに、感覚の深まりを感じてまた病み付きになりそうだ。こういう病なら大いに結構だ。三円式站とう功は立ちながら三つの気の玉を抱くもので、今朝はことに愉快だった。見えない気の玉に体ごと吸い込まれると言えば近いだろうか、そうかやっぱり体は気の集まりだったんだと感じられた。大地に融けてゆく心地もして、放っておくと一時間ほども立ってしまう。今はまだほどほどに。気功することを練功という。つまりは気のトレーニングだ。トレーニングに早急な成果を求めては行けない。日々積み重ねてこそ意味がある。それに立ってばかりいたのでは、写真が撮れないじゃないか(笑)。
なんで身体感覚か。自分で考えるという癖を身につけようと、この一二年試みてきたけれど、考えるということがどうすることなのか、恥ずかしながら正直よくわからない。考えるためには話し合ったり読んだり調べたりしなければならないだろうが、それもどうにも長続きしない。考える葦である人間として、これからも努力は惜しまないつもりだが、せっかく考えたものを腹に落とすということが出来なければ、確たる行動にもつながらないだろう。その、落とすべき腹を作るためにも、体を調えていきたい。
そう言えば気功の目的にも、調身、調息、調心がある。脅迫観念に駆られた健康ではなく、大自然と気をやりとりしながら体を調えることで全人的な調和へと深まって行く手もある。頭ばかりか体の全部で考える、そして撮る、生きる。この人生があと何年続くものか、などはそれほど大した問題じゃない。要は、今ここにある体をどこまで深く認識し、その体に宿る己とどこまで深く付き合えるか。写真にしても、なにもかも気がつくのが遅すぎるけれど、気がついたのだから、はじめよう。
2012.01.15 Sunday
海よ
久しぶりだなあ。海を前にして、まるで旧友にでも再会した気分だった。海が好きだった、と過去形にしてしまえるほどに懐かしい。
二十代半ばの数年、八重山の海で毎日のように遊んだ。ダイビングをしない日は釣り糸を垂れながら堤防で昼寝をして過ごした。若者なのに大した夢も希望もなく、夢のような日々を送っていた。時折、こんなに怠けた人生でいいんだろうか、という思いがよぎったけれど、迷うほどではなかった。沖縄と海が好きで、夜勤ばかりの小さな新聞社の暗室マンは遊んで疲れた昼間の身体を休めるにはうってつけの仕事だった。それがあろうことか、代わりに写真を撮ってきてくれと頼まれ、お前うまいじゃないかと褒められついでに、記事も書け、となり、旅行者気分で楽しんでいた島の生活が一変してしまった。安請け合いする性格は今も変わらないが、あのころ、事件もない島で記事を探すということがどんなに大変なことか、まったく思いもしなかった。美しい珊瑚の海を見やりながらため息ばかりついていた悩ましい日々が、懐かしい。
あの友が逝ってしまったとき慰めてくれたのも、口能登の冬の海だった。吹き飛ばされそうになる冷たい強風に立ち向かい、大声で名前を呼んだ。誰もいないことに助けられ、声が嗄れるまで何度も何度も、泣きながら叫んだ。海は、でっかくて深い。人間が海としているのはせいぜいが大陸棚の辺りまでだろうが、光の届かない深海にも誰も知らない幾多の命が営まれている。海底火山だ、プレートの移動だ、などと言ったところで、想像することさえ容易じゃない。海の懐はどでかい、深すぎるほどに深い。人間なんて、水際の砂粒のようにちっぽけだ。ちっぽけがだから愛おしいのだと、海は鳴いているのかもしれない。
海を前にしていると、新しいはじまりを感じた。悩みや哀しみを受け止めてくれた海が、今度は、ちっぽけな人間にもそれなりの力があることを教えてくれる。海があるから地球に命が誕生した。そして植物や動物、生きている命があるからこそ水と大気が循環し、海は海として再生し続けることができる。この壮大な自然の営みとは、いったいどこのだれが仕組んだものなんだろう。生きているこの瞬間に潜んでいるあまりの壮大さを思うと、微力な人間のこの無力さえも讃えたくなる。
逝ってしまった人びとに、この思いは届いているだろうか。どんなに泣き叫んでもあなたにはもう近づけないけれど、海を見ていると、どうしてかすごく落ち着く。懐かしいあなたの声が聞こえるようだ。
2012.01.14 Saturday
半島へ
ようやく能登が始まる。写真家として残りの日々を過ごそうと決めてから、能登がますます頭から離れなくなった。日本列島のほぼ真ん中で日本海に突き出した半島の姿を思い浮かべるだけでこの地を撮る理由になるほど、能登の地形に魅せられている。小さな半島が勇猛果敢に大陸と対峙しているのだ。海を、対岸を、睨みつけている。金沢あたりに住んでいると能登は身近過ぎた。半世紀あまりも生きながらえ、今頃になってようやく本気で撮りたいと思い出した。なのに、来てみるといったい能登の何を撮ろうとしているのかよくわからない。この数年の間に『風の旅人』を通して知った若き写真家たちは次々とテーマを設けて取り組んでいるというのに、老いのはじめのこの中年と来たらほんに情けない話だ。ただ能登が気になるというだけでは、どうにも不甲斐ない。さりとて無理矢理何かをこじつけたところでなんだか嘘くさい。ま、いいさ、仕方がない。能登へのこの思いを、少しずつ育てて行くしか道はない。
冬の能登はとても静かだ。まだ薄暗い松林に佇んでいると、打ち寄せる波の音が微かに聞こえてきた。雪を踏みしめる音。己の息づかいに、風が囁き絡み付く。騒々しい町の人には、この静寂の音は届いていないだろう。飛び跳ねるのではなく、染み入る音だ、身にも心にも。人は時に、沈黙した方がよさそうだ。声高に叫ぶ標語のような言葉はまことしやかに聞こえるものだが、沈黙してはじめて聞くことができる、狭間に漂うような、存在という気配には到底敵いはしない。波打ち際に近づき海を見ていると、遥か彼方へと意識が遠のいてゆく。見えない対岸へだろうか、それとも海に沈んだ同胞たちの命へだろうか。忘れてはいけない。静寂には音があり、声なき声が絶えず流れていることを。
一昨年の『風の旅人』四十号に「のと」を寄稿した折、上大沢の間垣(まがき)を通して間(あはひ)について考えた。去年の四十三号では「生の霊(いのち)」に出逢い、見えないけれど存在し続けるにちがいない人と人の確かな絆を想った。思えばすでに歩むべき道の扉は開かれている。日常の喧噪のせいにはしたくないけれど、つい忘れている、間(あはひ)のこと、生の霊(いのち)のこと。遅まきながら『風の旅人』に出逢い、導かれるような数年だった。この先は、授かった思いを大事に大事に抱きしめて、己の足でひとり歩くのだ。この半島で耳を澄まし、目を凝らし、この世で出逢う何が本当に大切なのか、考え抜くのだ。
高さが四メートルほどもある苦竹(にがだけ)で囲まれた間垣は、ことのほか柔軟だ。シベリアからの北西風を拒むでも避けるでもなく、柔らかに受け止めている。間垣の内側に入って感じたそよとした空気の流れこそ、外洋に突き出した半島で生きる人の姿を象徴している。何事も柔らかに加工して己の懐にあっけらかんと納めてしまうのだ。だから、能登へ。半島を歩きながら、学べばいい。
2012.01.02 Monday
写真家の条件
「撮る対象が写っているというよりか、自分がいいかげんにやれば自分も写らないということを思うんです。一生懸命やれば、そこに必ず自分がいる。対象ではなくて、そこに自分が写っているんです。自分に返ってくる。だから、本当にこわいことです」(森山明子『石元泰博 ― 写真という思考』より)
石元泰博のこの言葉の真意には、よく言われる「写真には自分が写ってしまう」という安直な言葉など瞬時に吹き飛んでしまう、写真に対する畏怖にも似た感慨が含まれているだろう。対象はおろか今のお前では自分など決して写らないぞと警鐘を鳴らしてくれたのだ、と感じている。
この頃近所の里山を歩きながら、撮る場合の見つめるとはどういうことなのか、そればかり考えている。たとえば雪上に残る動物たちの足跡をじっと見つめてみる。雪の一片さえも逃さないで目を凝らしていると、ある瞬間、見つめているはずの自分というものが消え失せていることに気づいた。自分の感情、想像、思考から離れ、言葉や概念というものから遠ざかっていた。代わりに対象の足跡が単なる風景のひとつで終わらず、鮮やかに浮かび上がってきた。見える世界の生をイキイキと感じている、というように。
などと言葉にしてしまうと、どうにもウソっぽい。それもこの感覚はほんのしばらくのことだった。それでも確信に近いものが今も残っている。一生懸命見つめ続ければ、限りなく対象に近づくことができる。絵を描く場合に限らず写真を撮ろうと思えば、自分という存在が消えてしまうほどに見つめること以外道はないのだろう。そのことを「自分に返ってくる」と、石元泰博は言っているのではないのか。
写真とは、とても不思議なものだ。十分に見つめ(そのつもりになって)、鮮やかに目に映り出した風景を切り取り、一枚、多くても二枚だけ慎重に撮り、やおら対象から立ち去る。その時、妙な心残りを感じている。時間にすればその場に佇んでいたのはわずか数分に過ぎない。それで見つめる行為を終わらせていいものかと、思わないではいられなくなる。ほとんどが瞬間で終わってしまう撮るという行為を成すために、徹底して見つめること以外にも、まだ大切なものがいくつかあるのだろう。対象が発する何ものかと瞬時に呼応する眼力、鋭い野生の直観、またはこの身体の深奥で脈打っている生エネルギーの爆発的な発露と交換。
石元泰博は、「ある日ある所にいる自由」が写真家の条件だと考えていた(前掲書)。どういう意味だろうか。ある日ある所に自分という存在を置き、自分というまなざしが対象と向き合う。この凡夫では到底及ばない領域で対象との交換が営まれているのだろう。「ある日ある所にいる自由」とは、どこにいるのも自由だという勝手気ままなものでなく、どこにあっても己の態度如何で深みに入って行けるという自由なのだ。逆説的に言えば、撮るためには当然ある日ある所に存在していなければならない。そして与えられた目の機能以上の眼力で見つめ抜き、自らの意思で定着しなければならない。そうでないなら、もはや写真家ではあり得ない。「本当にこわいことです」。
2011.12.27 Tuesday
kazesan calendar 2012
知人からの問い合わせに応えて、久しぶりに kazesan calendar を作りました。この十年あまり通った白山の写真で構成しています。並べて、こんなに何度も登っていたのかと自分で驚きました。物忘れの激しい年齢なのに、霊峰のひとときばかりはどの瞬間も鮮明に覚えています。大勢の白山愛好家に混じって、ぼくにとっても白山はこの人生のもっとも大切な場のようです。素人には冬の登拝は叶いませんが、魅せられた山にどこまで深く分け入ることができるものか、残りの日々の多くを費やすつもりです。
ご希望の方は、メールでお知らせください。プラスチックケース入りの12枚組で、1部 1,500円です。売り上げの半分は「福島の子どもを守ろうプログラム」に寄付し、あとの半分はマスノマサヒロの撮影活動の資金に充てます。
2011.12.25 Sunday
パパ
「かのん、パパにいてほしい」と、ぽつりと小さな声が聞こえてきた。クリスマスのプレゼントを届けに行ったイブの夜、久しぶりに孫娘と遊んだ。帰り際に小さな祭壇を置いてあるだけのパパの部屋に入り、手を合わせている時だった。婿が亡くなって一年あまりが過ぎた。三歳半でもうパパのいないことを意識し出したのか。かのん、ジジイの胸もつぶれそうだよ。
死は、避けられない。後先さえも意のままにならない。死んで行くことへの恐れなどあまり感じなくなっているけれど、遺された者を思うとたまらなく辛くなる時がある。何の力にもなれない。
母ひとり子ひとりになった娘は、自分の気持ちを前に出し、ひとりで懸命に生きようとしている。ジジイの力などもう必要なさそうだが、切なくなるほど頑張っている姿を前にすると肩のひとつも揉んでやりたくなる。親子なのに、いや、親子だから見ていることしかできない。だったら、じっと見ようではないか。見守るなどというしたり顔した曖昧な態度ではなく、じっと目を凝らして見つめるのだ。つぶれるほどに、深い目を持て。見守ることなら、天国の婿殿が片時も休まずに続けているにちがいないから。
2011.12.21 Wednesday
東京ノ森
バスを降りた早朝の新宿を歩いた。懐かしい西新宿。学生時代のアパートがあった辺りをウロウロしながら、なんでこんなに新鮮な気持ちになるのか、立ち止まっては考えた。答えはたぶん、見つめようとしているからではないか。たとえば東京の街路樹には名前が付いている。名前と言っても番号だが、3009 R03-01-A02-01のこれは欅だろうか。個人名を知って見上げると、都会の主は実は樹々なのかもしれないと思った。高層ビルを譬えたコンクリートジャングルのことてはなく、本当に東京も森だった。植物たちがそれを喜んでいるものかわからないが、見えない大気の成分をいくらかでも動物たちと交換しているだろう。静かに、人知れずに。成子坂では、「鎮守の森は私有地じゃない。30階建てのマンション建設反対」の壁新聞を見かけ、立ち止まった。成子富士浅間神社のかつての境内の一部がまだ残っていた。昔はここも森だったと、誰かが覚えているだろうか。見つめていると、事の善し悪しではない、ただいまの其処にある姿がそのままで見えてくる。まるで境内の石像たちが見つめているように。
2011.12.13 Tuesday
表層と深層と
日野啓三『台風の眼』は風変わりな小説だった。自伝的でありながら脈絡がなく、それでいて地下では深く通じている物語、とでも言えば、少しは理解してくれたねと、氏は微笑んでくれるだろうか。氏の言葉を借りればこうなる。
意識の表層と深層との明確な境界があるわけではないけれども、表面的な意識で単にまともに生活していただけの時は、多分脳波はなだらかに安定しているのだろうが、刻々と流れ去ってゆくだけのように思われる。逆に何らかの仕方で深層にじかに触れた時――多くは不安と憂愁の時、そのときが言葉の深い意味で、現在すなわち現に在ることであって、だから同じように心ざわめくどのいまとも通底している。時計と暦の時間ではどんなに遠い過去のことであっても、つねに現在となる。現在とは刻々の数秒間のことではない。そのときそのとき露出した深層の震えが、通常の知覚と意識を越えて、現に在る状態を形づくっている。
よく丁寧に暮らすとか言うけれど、言葉の意味は理解できても、どう暮らせば丁寧なのかよくわからない。しかも丁寧に暮らせば、それで深く暮らしたことになるのかも。命を捧げるとか賭けるとかと、時折聞くけれど、同じようにわからない。命そのものを深く見つめる努力もしないで、それを賭けることに捧げることに、どんな意味が生まれると言うのか。
大した経験もない者がこうして乏しい言葉を連ね出すといつもため息まじりの虚しさに包まれるばかりだったのに、今はいくらかちがう気持ちでいられる。生きてきたここまでのほとんどの凡庸な時間を捨て去り、「多くは不安と憂愁の時」という「現在」を蘇らせるなら、それなりでしかないけれど、十分にそれなりに現に在る生を生きてきたのだと、思える。
哀しみの底深くに隠れている、たとえばともしびはほのかに燃えながら、それを見つめることで人は人として行けるぎりぎりの深層まで辿り着けるかもしれない。そこではすでに個の壁が消滅し「言葉の深い意味で」開かれた世界を覗き見ることができる。哀しみから眼を反らし、表層の享楽に耽ることで刻まれる現在を紛らわしていたのでは、本当に生きているとは言えないのだろう。
自らに戸惑いながらそれでも信頼し、内から溢れ出す言葉で綴る物語も、見えない血や肉までも描こうとする絵画も、道はちがうけれど「何らかの仕方で触れる深層」を目指していた。日野敬三が、磯江毅がその深層を垣間見たのかはわからない。垣間見ようとした生き様が現にただ在るばかりだ。そしてそれこそが命を捧げる姿のひとつなのだと思わせてくれる。
どうやら少しはこれで生きられる。表層を見透かす気になれる。
2011.12.12 Monday
ともしび
ちいさいけれど、とおくにひとつ、ともしびがみえる
はじめて出逢った
明かり
ここは地の底、海の底
雨降り、雪降り、暗く湿った底の底
でも、灯り
ちいさいけれどけっしてきえないのだと
耳元で、だれか、ささやく
冷え冷えと、燃えている