『パピヨン 死と看取りへの旅』
田口ランディ『パピヨン 死と看取りへの旅』(角川文庫)の表紙にマスノマサヒロの写真を起用していただきました。庭に咲いていた真っ赤なサザンカの写真です。赤緑色弱のせいもあって普段はあまり赤色に関心を示せないでいますが、この時ばかりは鮮やかな赤が目に飛び込んできました。その時のちょっぴり興奮した自分を今でも思い出すことができます。尊敬する作家の作品にこんな形で関われるなんて、ほんとうに夢見心地でいます。
パピヨンを紹介するランディさんの言葉の中に、「誰かを看取ったことのある人、これから看取る人、死後の世界について考えたことのある人、魂の存在について考えたことのある人、人間の意識状態に興味がある人、そのような方にはぜひ読んでいただきたいと思います」とあります。まるでぼくのことを指しているような言葉ですが、実はまだこの作品を読んではいませんでした。
次女の夫、ぼくには婿になる青年が逝ってからこの夏で丸二年になろうとしています。あの時から感じている哀しみが少しずつ形を変え体の内で蠢きつづけています。娘は、遺された幼子とふたりで生きて行くのだと決心したのか、このごろはとんとご無沙汰で、それがまたたまらなく悲しかったりします。身近な人を看取るということは、決してそれで終わってしまうわけではありません。遺された者同士は肩寄せ合い、または縁遠くなったとしても、天上の人を支えにもしてずっと生き続けなければなりません。
ランディさんとこのしがない田舎の写真家は、取材を通してもう十年ほども前に出合いました。いつだったか北陸方面に来られた折、地元の雑誌編集者と三人で会食したことがあります。酒も進んでそろそろお開きかという頃合いになって投げかけてくださった言葉で、もしかするとぼくは変わり始めたのかもしれません。「マスノさんの写真、なかなかにえぐいんだけど、もうひとつなんだよね」。その言葉の意味は今もよくわからないでいますが、ぼくの中にも育ちたがっている何かの種がある、それが芽を出そうとしているのだと思ったものでした。
あるときは、親しくされている藤原新也さんのエピソードをメールでいただいたことがあります。自分の作風を変えるためにカメラまで変えているというのです。いつもぎりぎりの家計ではそんなアドバイスをされてもどうしようもないと聞き流してしまいましたが、今変わり始めてみると、変わらないでいる理由を並べてばかりいた自分の怠慢、傲慢さがおかしくて泣けてしまいます。変わることこそ、人生という旅の醍醐味なんだろうと今では思います。
『パピヨン』の文庫は、この人生の二つ目の宝物になりました。もうひとつは、掲載の夢がかなった『風の旅人』ですが、編集長の佐伯剛さんがネット上のコメント欄に書いてくださった言葉からこのごろずっと考え続けていることがあります。それは、責任というものです。いろいろな人間関係の中で負わされていると感じる世俗的な責任のことではなく、もっと本質的な責任を本来人間は持っているのではないかということです。生きていること、看取ること、そしていつか自分もまた死んでゆくその旅の途上にたったひとつだけ必要なものがあるとしたら、それこそが、ここで考えようとしている責任なのではと思うのです。何に対する責任なんでしょうか。わかったつもりになって簡単に言葉にはできませんが、どうも自分に最も近い存在としてのもうひとりの自分に対して、または自分という曖昧な枠組みを越えたところに広がっている領域に対して、なのではと。己と、己を越えているもの、このかけ離れたふたつの両極を結んでいるものこそ、責任なのではと。
『パピヨン 死と看取りへの旅』を読み始める、とてもいい頃合いがやってきたようです。






